植物の「声」を聴く──脱人間中心主義的な尺度を想像すること
植物にスタティックなイメージを抱いている人は少なくないことだろう。動かず、物を言わず、外界に対してほとんど無反応であるかのような存在。鳥や虫など動物と違って鳴き声を発することもない。音を介したコミュニケーションを行わないのであれば、言うまでもなく音楽を奏でることもない。だが実際には音を聴き取り、声を発する植物も存在するそうだ。ある研究によればモデル生物としても知られるシロイヌナズナは、録音された芋虫の咀嚼音に対して反応を示すという。別の研究では、トマトとタバコが水不足や物理的損傷などのストレスを与えられた際に、人間の可聴域を超える超音波を発することを突き止めている。当たり前だが植物にも生命がある以上、植物なりのやり方で外界に反応しているのである。ならばそうした植物の「声」を人間が音として知覚することはできるのだろうか。
その回答の一つがこのたび復刻された1994年のアルバム『エコロジカル・プラントロン』である。本盤は植物学者/バイオ・アーティストの銅金裕司が1987年より開発してきた「プラントロン」という装置を用いて植物の表面の電位変化を検出し、そのデータをもとに作曲家の藤枝守が協力することで独自の音響へと可聴化した、1994年のアートフォーラム谷中でのインスタレーションの記録である。テクノロジーを駆使して植物の声を聴こうとする試み自体はそれ以前から海外にもあった。最初期の実験としてはイタリアのスピリチュアルなコミュニティ「ダマヌール」の研究者たちが1976年頃に植物の電気信号を素朴な電子音で可聴化している。また自然療法士で心理学者の経歴を持つコリン・ウィルコックスが立ち上げたイギリスのニューエイジ系レーベル《ニュー・ワールド》からは1984年に『プラント・ミュージック』と題したカセットがリリースされており、こちらは間歇的に鳴る安らかな電子音が心地よいアンビエント・ミュージックへと仕上げられている。だが銅金はこうしたいわば人間の精神世界のために探求された「植物の音楽」の流れとは全く別に、独自の関心から植物の研究を進め、脳波測定器で植物の電位変化を検出するというアイデアに至った。そして1992年、神戸ジーベックホールで展示「プラントロニクスガーデン」を実施し、メディア作家の赤松正行と音楽家/メディア・アーティストの佐近田展康の協力を得て、プラントロンを用いた植物の可聴化に公の場で初めて取り組んだ。この時の展示に足を運んでいたのが、アメリカ留学から帰国し当時コンピュータを用いた即興パフォーマンスに力を注ぎ、ジーベックホールでも活動していた藤枝守だった。留学中に作曲家のデヴィッド・ダンと出会い、生態系や環境に対して興味を抱いていたという藤枝は、プラントロンが明らかにする植物の世界にも魅了され、知り合ったばかりの銅金にコラボレーションを提案した。以降、複数回にわたってプラントロンを用いたインスタレーションを共同で開催することになる。
2枚組アルバムとして復刻されたCD版『エコロジカル・プラントロン』のディスク1には約18分の4つのトラックが収録されている(LP版にはこのうち2トラックのみ収録)。プラントロンを用いて観測した植物は胡蝶蘭の原種であるファレノプシス・アマビリアだ。4つのトラックはそれぞれ異なる時間帯のもので、夕方(17時)に収録した1曲目はカラコロと煌びやかな高音と散発的に鳴る割れたロングトーンが特徴的。続く2曲目は夜(21時)の録音で、より音の動きが活発で狂ったキーボードのようなサウンドを聴かせる。3曲目は朝(9時)の録音。マリンバにも似た音色のランダムな旋律が印象に残る。午後(14時)に録音された4曲目は再び二層に分かれたサウンド・パターンがクリアになり、雨音のような細かい打撃音と管楽器にも似た持続音が並走する。どのトラックも18分間を通じてサウンドのゲシュタルトは一定方向にあるが、細かく聴くとつねに流動的な変化に富んだ内容となっている。その自律的なサウンドの流れはまるでフリー・インプロヴィゼーションのようだ。ただし、録音作品としても興味深いとはいえ、もとはインスタレーションとして空間内でダクトなどの共鳴体を用いて特異な響かせ方をしていたということには留意しておきたい。そしてディスク2には未発表音源のボーナス・トラックが2曲収められている。1995年のインスタレーションである「マングローブ・プラントロン」はマングローブの電位変化を用いており、カスタネットのような忙しない打撃音とシンセ音、ゴングにも似たロングトーンなどが響く。一方、「ピアノラ・プラントロン」は30メートルの直線上に観葉植物として知られるシェフレラと3台のプレイヤー・ピアノを並べた1997年のインスタレーションで、とても生身の人間には弾けないようなフレーズだが、他のトラックと異なり古典的な楽器を使用していることもあってか、演奏性を湛えた音楽としても聴こえる。時には初めて耳にするような美しいピアノの旋律も流れてくる——のちに藤枝はプラントロンのインスタレーションにじっと耳を澄ませ、ごく一部のメロディアスな旋律の断片を聴き取り、それをもとに作曲する「植物文様」シリーズを始めることになるのだった。
これ以降、銅金と藤枝がコラボレートしたプラントロンのシリーズは断続的に続き、録音作品としては『プラントロン・マインド』(1996年)と『桜の記憶』(1999年)がリリースされてきた。植物を可聴化するという試み自体も広く見られるようになっていく。同時代にはヒーリングの文脈で『アロエ その不思議なサウンド』(1995年)なるアルバムが制作されているほか、1998年には銅金が監修した簡易版のプラントロンと言える科学玩具「プラントーン」が発売。現在では台湾・台北のサウンド・アーティストであるシェリル・チャンをはじめ数多くのアーティストが植物の生体電位を用いた音楽に取り組んでおり、2021年にはコスメ系ブランドからもアルバム『ノーツ・バイ・ネイチャー』がリリースされている。植物に限らず、脳波を測定したアルヴィン・ルシエらのバイオ・ミュージックの文脈に広げればさらに様々な試みがあるだろう。ともあれ、いずれにしても植物を可聴化する試みにおいて肝要なのは、植物からどのようにデータを検出し、そしてそのデータをどのように音響へと変換するかという点にある。ここに制作する人間の作家性または恣意性が宿っているのであって、たとえ人間の想像力を超えたデータを検出したとしても、それらを見知ったメロディ/ハーモニー/リズムに割り当てて馴染み深い音楽へと変換するのであれば、結局のところわざわざ植物のデータを利用せずとも人間に制作可能な音楽のバリエーションの一つにしかならないのではないか。その意味で『エコロジカル・プラントロン』は、藤枝流の純正調を用いたプリミティヴかつシンプルなサウンドであることが、かえって音楽が人間的に形作られることを遠ざけているようにも思う。ただしそれは「植物らしさ」を醸し出しているという話ではない。「植物らしさ」はあくまでも人間が植物を対象化することで生まれた極めて人間的な概念であり、人文学的環境学者のティモシー・モートンに倣って植物を脱人間中心主義的に捉える必要がある。つまるところ予期し得ない音型の変化を、まずはそのまま受け止めることが重要なのだ。
むろん人間が人間である以上、植物の視点そのものに成り代わることは不可能だが──むしろ植物の視点をナイーヴに代理することは背後に人間的要素があることを覆い隠してしまう危険性がある──、植物の尺度で物を考えてみようと想像することならできる。それは微弱な電位変化が生み出す予期し得ないパターンをそれとして受け取ることであったり、あるいは人間の可聴域を超えた音響のデザインに思いを馳せることであったりするだろう。『エコロジカル・プラントロン』はそうした脱人間中心主義的な尺度に立とうとすることの入り口となる。ささやかな音響かもしれないが、地球規模の環境問題や持続可能な脱炭素社会の構築へと目を向ける機会にもなるはずだ。率直に言って、植物がスタティックだとするのはあくまでも人間の尺度で捉えているからなのであって、種子が発芽し生長を経て花を咲かせること、または1000年単位で生命を宿し風雨に晒されながらも環境と交流していることなど、ひとたび人間的な尺度を外してみるならば、これほどダイナミックに変化する生物もいないとは言えないか。(細田成嗣)
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