作品世界から浮かび上がる九州のフォークロア
倉地久美夫の前作『Sound of Turning earth』(2019年)はジム・オルークがレコーディング・エンジニアを務め、イギリスの《Bison》からリリースされた。ギターのみのシンプルな弾き語り作品でありながら、そこには倉地が育んできた言葉の世界が色彩豊かに広がっていて、倉地久美夫というシンガー・ソングライターの底知れぬ魅力を再認識させられたものだった。
《Bison》と《円盤》の共同制作によって作り上げられた本作『Open Today』は、その『Sound of Turning earth』以来の作品となる。前作とは違ってバンドスタイルでの作品ではあるが、すべてのパートを倉地が演奏している(1曲目「キタロー、船に乗る」のみHattori Junがメロトロンで参加)。多重録音による作品制作はデビュー当時から倉地が試みてきたスタイルであり、言うなれば倉地の原点である。
まず目を惹くのが、ジャケットを飾る色鮮やかな写真だ。CD版とLP/サブスク版ではジャケットが異なるが、どちらも福岡県八女市で継承されている伝統的なからくり人形芝居「八女福島の燈籠人形」のワンシーンを撮影したものである。それらの写真は加工を加えたことにより、どこかAIに描かせてみせたような奇妙な空気も封じ込められている。その奇妙さは本作の歌詞世界にもそのまま映し込まれている。
たとえば、『ゲゲゲの鬼太郎』のストーリーを拡張させてしまったような冒頭曲「キタロー、船に乗る」。「夜は墓場で運動会」という聞き馴染みのあるフレーズが挟まりながら、「すいません!えっと注文は何だっけ」と、とても鬼太郎とは関係があるとは思えない場面へとなだれ込んでいく。「マンションが安い 海際だ角部屋」から始まる9曲目「マンションが安い」や、現代の寓話ともいえる「水道のメーターを量り売りに来た」などは比較的歌詞の場面をイメージしやすいものの、それでもこちらの貧困なイメージを軽々と飛び越える言葉が挿入されている。その言葉は時に一行ごとに横滑りし、冒頭とはまるで別の話に到達することもある。知っているはずのものが、未知のものへとグニャリと変態してゆくのである。そのときに生じる「奇妙さ」が本作に独特の味わいをもたらしている。
八女福島の燈籠人形には「玉藻之前」という外題(演目)がある。人形浄瑠璃や歌舞伎ではよく取り上げられる外題のようだが、これは鳥羽上皇に寵愛されていた玉藻之前という女性を主人公とするものであり、この玉藻之前が実はキツネの化身であり、それがばれて殺生石という怨念のこもった石にさせられるという話だ。殺生石となった玉藻之前は最終的に僧侶の仏力によって成仏させられ、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかよくわからないエンディングを迎える。女→キツネの妖怪→石→成仏というメタモルフォーゼは、本作における倉地の歌詞世界との連続性も感じさせる。そういえば、倉地の出身地、福岡県甘木市(現在の朝倉市)は八女市からもほど近いし、そもそも九州には盲僧琵琶など豊かな語り物芸能の伝統が育まれてきた。このアルバム自体、そうした伝統に繋がるものとも言えるかもしれない。
「詩のボクシング全国大会チャンピオン」という肩書きのためか、「言葉の人」というイメージを持ちがちだが、倉地の活動の原点はシンセの宅録にある。言葉の前に声があり、声の前に音があるという人だ。それはすなわち、物語や意味の前に「声と身体」があるということでもある。1曲のなかで次々に変態してゆく言葉の狭間からある種の土着性のようなものが垣間見えるとすれば、それはそこに倉地の声と身体そのものがあるからではないだろうか。その声とは時代性や社会性に捉われることのない原初の叫びであり、オオカミの遠吠えのようなものである。
歌詞にしても音にしても既存の様式から自由ではあるけれど、ここには倉地独自の確固たる様式がある。それはすさまじく強靭なものであり、何者にも揺さぶられることはない。「唯一無二」といういくらか使い古された表現は、こうした作品にこそふさわしい。(大石始)