Back

メーデー企画
TURNスタッフ/ライターの選ぶ2010年代の労働ソング

BTS「Mikrokosmos」

労働は仕方なさに満ちている。どんなことも顧客や上司、同僚的な他者と自分とが、互いに受け入れなければ進まない。ならばその仕方なさは、これまでとは別のところに連れ立つ言い訳のような装置ともいえるのだろうか。言語の扱いからして、仕事は最終的な結果(=パフォーマンス)であり労働は過程である。いつからか言動はパフォーマンスになり、アイドルたちのそれは仕事と重なりキャラクターとして吸収され、一人間としての姿は忘れられてきた(この曲は『MAP OF THE SOUL : PERSONA』収録)。労働に目を向ければ、家事であれ接客であれオフィスワークであれアイドルであれ、そこには無数の仕方なさと、責任を持ってはたまた犠牲となって、無数の引き受け方があるだけで、崇高な労働はないと確認することになる。であればこそ、みんなが一緒に歌えるシンセポップが伝えるように、一人ひとりが輝くのであり、共有するものがない他者に照らされることもある。(佐藤遥)

Father John Misty「Leaving LA」

ルー・リードとジョン・ケイルがアンディ・ウォーホルに捧げた『Song For Drella』に「Work」という曲がある。「若いんだからもっと曲を書け! それが仕事だ!」というウォーホルの口癖を思い出して作られたその曲は、ソングライティングを仕事と捉える合理的な思考を痛快につきつけた。そして、時代は巡って2010年代。ファーザー・ジョン・ミスティというアルターエゴのもと、シニカルな表現を重ねるジョシュ・ティルマンは、アーティストとしての「作業」 を、クリエイティヴなはずの「音楽活動」を、批評家やファンからの承認を求めるための「労働」になってしまっていることを乾いた笑いで自嘲に昇華させている。すなわち、ここでの「仕事」はアイデンティティや芸術性が商品化せざるを得ないところまで落ちた文化労働であり、資本主義社会における滑稽さの象徴だ。労働はもはや合理性の上にさえ成り立たない。最終的にティルマンはLAという場所(エンタメ資本主義の中心地)を離れる決意を通じて問いを投げかける。「私は何のために音楽を作り続けているのか?」と。(岡村詩野)

Fleet Foxes「Helplessness Blues」

「Helplessness Blues」は「特別だと言われて育てられた」という一節から始まる。ここには個性を美点とする時代精神が反映されている。フリート・フォクシーズのロビン・ペックノールドは1986年生まれでミレニアル世代に属する。日本におけるミレニアル世代は、個性を重視する教育を受けたゆとり世代と被っている。私もその一人だ。個性すなわち善とする考えを真に受け、労働を自己実現の手段と見做す風潮に染まりながら一度も定職につかずに今に至る。

この歌の語り手は、個性なんぞよりも、社会の歯車となって超越的なものに奉仕することに価値を見出しつつある。そして果樹園での肉体労働を夢想する。それによって世界とのつながりが回復すると考えているのだ。

クリエイティヴな仕事の極致とでも言うべきカリスマ的なソングライターがこう歌うことをどう受け止めたら良いのだろう。個人主義への反省もあったに違いない。しかし労働を通じて我執を捨てたいと考えること自体が別種の我執ではないか。この「無力感のブルース」を生のままならなさ、出口のなさについて歌った両義的で切実な歌として聴いた。(鳥居真道)

フジロッ久(仮)「はたらくおっさん」

「もう、こんな会社辞めてやる……!」と、心の中で思いながら気づいたら10年間同じ会社で働いている。立派な理由などない。のらりくらり、へらへら、へこへこ。そうやってダサく一日一日を過ごしてきただけ。逃げ方もすっかり忘れてしまった。かっこいい話もない。全く。フジロッ久(仮)は目まぐるしく動き回る毎日を手探りで進みながら、流されるようにやっとのことで生き延びる労働者のペーソスを、整理し切れない感情と思考をそのままパッケージしたようなやりたい放題のノイズ・ポップに乗せて歌う。その混沌に、軽快なシンセサイザーが光を指す。そんな生き方も別に悪いもんじゃないよ、というように。昨日より成長せよ、飽くことなく前進せよ、可能な限り高く積み上げよ、と資本主義は常に耳元でささやく。その声を一瞬だけでもかき消して、誰からも見向きもされず、平坦に日常を生き続けることの輝きをこの曲は蘇らせる。「寝て起きても続くパンクを搔き鳴らすんだ/おなかがへったよー」と狂騒的に歌いながら。(尾野泰幸)

Future「Fuck Up Some Commas」

ヒップホップは、おそらく資本主義の構造と最も直接的な意味でつながった音楽だろう。ラップにおける労働が、世間一般で言う9〜5時の仕事、性的な使役や奉仕、ドラッグの売買といったイリーガル・ワークだけでなく、音楽自体をも含む事実は、そのことを端的に伝えている。それが正しいかどうかは一旦置いておくとして、だからこそ、その音楽が特別であることも間違いがない。そして、その特別さをほぼ完璧に体現し続けているラッパーがフューチャーであり、この「Fuck Up Some Commas」である。MVに映し出される高級車、輝くチェーン、エロい女、屈強な仲間たちは彼が追いかけてきた富の象徴であり、その為に彼は大金を使い、使った分さらに稼ぎ、さらに使う。彼はタイトル通り、数字につくコンマの数を気にせずに散財し、それによって金の雨を浴びるのだ。繰り返し、繰り返し……。そこにある終わることのないゲームが、暮らしが、ヒップホップにブルースを宿らせる。SouthsideとDJ Spinzによる不穏なトラップ・ビートに照らされ、同時に貫かれたフューチャーのラップからわずかでも哀しみを感じたのなら、すでにあなたもこのゲームの参加者だ。(高久大輝)

宇多田ヒカル「二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎」

当時16歳の宇多田ヒカルが『うたばん』で岡田准一に「お金ならあるわよ」と言ってみせ、派手に笑いを取ったクリップを見つけたのがつい最近。今年26歳になる自分にそんなことは到底言えないし、スターダムを急速に駆け上がっていく宇多田の心労も口座残高も全く想像できない。では、自分が16歳の時はどうしていたかといえば、やはり宇多田ヒカルの勤労態度に衝撃を受けていた。人間活動を再開した宇多田にとってEMIガールズの相方である椎名林檎とのデュエットは最大の芸能トピックだったし、その曲のテーマとして労働からのひとときの遊離──この「労働」が有償/無償のどちらにも適用可能なのがミソだ──を選んだことは、「お金ならあるわよ」と喝破したあの時の宇多田像と線で繋がっている。大人になっても、母になっても、自己決定権を手放す必要はない。そのために必要なものは、もちろん何? 社会のB面に少し触れた気がした16歳、初めてのアルバイトはその3年後だった。(風間一慶)

KOHH「働かずに食う」

アメリカのアナキスト=ボブ・ブラックが1985年に発表した『労働廃絶論』という書物がある。「誰一人として労働すべきではない」、そんな決然とした一文から始まり、「労働はこの世界におけるほとんどすべての惨状の源泉である」と続く。いやいや、そりゃそうだけどさ、現実的にどうやって食って生きてくんだよ。こちとら毎日汗水垂らして働いて金を稼いでんだよ、クソ! まあふつうの人間だったらまず、なかば怒りを込めてそうツッコミを入れたくなるはずだ。でも、KOHHだったら、ボブ・ブラックとがっちりと握手できるかもしれない。彼は歌う。「俺は働かずに食う」「いつも遊んでるだけ/みんな仕事ガンバレ/やりたくなきゃ辞めちゃえ/時間がもったいない」。迷いのない労働の拒否だ。労働の拒否とは単に、怠け者のダラダラとした生活を礼賛することではない。むしろ、働く時間を遊びに使うことで、人生をより積極的に豊かにするという、人間の自由を重んじる考え方であり、生き方だ。千葉雄喜(元・KOHH)が人気者なのは、とうぜんである。(二木信)

Manic Street Preachers「Liverpool Revisited」

普段の仕事ではいつも、「トレード・オフ」、いわゆる、こちらが立てばあちらが立たずを考え、調整している。安さを優先させると、安全が損なわれる。安全を優先させると時間がかかる、というものだ。答えは明らかじゃん? って思われがちだが、予算も工期も決まっている。いつも悩み、双方が釣り合うギリギリのところを攻めている。当然、もし、1つでも誤りがあれば、この曲で歌われているヒルズボロの悲劇のようなことを招くことになりかねない。マニックスがこの曲を出したころ、仕事を始めてから幾ばくか経ち、「トレード・オフ」について考え始めるようになった。今よりも悩んでいた。しかし、30年近く裁判を続け、勝利したリヴァプール市民を讃えているこの曲を聞くと、マニックスが「正しい道を進め!道は開ける!!」と、歌っているように聞こえたのだ。近い将来、さらに責任を負うことになっても大丈夫、マニックスが付いている(監視している?)。(杢谷えり)

Nipsey Hussle「Blue Laces」

どんな環境であっても成り上がることができるというヒップホップの精神は、生まれや育ち方によって人生のルートが決定されていってしまうようなシステムや価値観が、日に日に強固に植え付けられていく社会の中では特別なものとして写り、我々をエンパワメントしてくれるだろう。そのことについて歌うことは、“稼業”という名の労働について歌うこととも言え、つまりヒップホップには必然的に労働を描いた曲が非常に多いわけだが、ニプシー・ハッスルのこの曲も例外ではなく、西海岸のギャング・グループ、“クリップス”に所属(この曲のタイトルの“Blue”は、クリップスのギャング・カラーと掛かっている)していた彼のタフなライフスタイルが、鋭く張り詰めた緊迫感と抒情で綴られている。幼い頃からストイックな働き者であったニプシーは、晩年には自らが身を投じていた危険な環境をどうにか変えようとする活動家でもあった。若くして悲劇的な最期を遂げてしまった彼だが、そのキャリアと曲の中に刻まれる多くの仕事の記憶は、環境を越境すること、自分の強い意志を持ち社会をサヴァイヴすることの手掛かりとなるだろう。(市川タツキ)

Richard Dawson「Civil Servant」

現代人がいかに労働から疎外されているか。英ニューカッスルのウィアードな吟遊詩人、リチャード・ドーソンの「Civil Servant」にはその一例が痛切に刻まれている。歌の主人公は、タイトル通り公務員。彼は朝起きて、ご飯を食べ、トイレに行って、そして……仕事に行きたくないと心のなかでわめき散らすのだ。ただし、これは彼の怠惰さによるものではない。イギリスの緊縮財政の影響による福祉の打ち切りを市民に伝える“仕事”を彼は憂いているのだ。《もう行きたくない、今朝は仕事に行かない、ここに寝転がって『コール・オブ・デューティー』をプレーしたい》……これは鬱についての歌でもある。そうした庶民の悲惨な風景を、ドーソンはフリーキーなギター・ワークと素っ頓狂な節回しと歌唱で現代における口承歌にしてしまう。結局彼は仕事をサボることになるのだが、それは、この残酷な社会に対する小市民からのささやかな抵抗だ。わたしたちがもう一度労働に誇りを取り戻すために、ドーソンは狂ったようなファルセットで繰り返す。《わたしは拒絶する!》(木津毅)

Scissor Sisters「Night Work」

ニューヨークのナイトライフ・シーンから始まった、シザー・シスターズはリアリティを高らかに歌う。2010年6月にリリースの3作目『Night Work』からタイトル曲を“労働”の歌に挙げよう。この曲は一銭もない男が、月明かりの下で体を酷使しながら働く歌だ。《平日の9時から5時のシフト》で働くことは終わり、公的支援でタダで暮らせる夢は叶わない。だからと言って、金銭の為に刃物を出すほど落ちぶれてないと。ジェイクの柔らかな高音ヴォーカル、鮮明な手拍子によるメロディ構成は、ビー・ジーズとABBAがクラブで踊ってるような時間を思わせる。当時のメインストリームにクィアの文化を持ち込んだシザー・シスターズのライヴは最強だった。《Fuji Rock Festival ’10》のクロージング・アクトでは、強い雨のなか深夜12時までディスコ化する大団円。あの時は生きてる感覚がした。その後、活動休止だったシザー・シスターズは2025年の《Glastonbury Festival》でライヴを敢行。あれ、私も皆さまも労働ばかりでなく踊りに出かける時じゃないですか。(吉澤奈々)

トリプルファイヤー「スキルアップ」

トリプルファイヤーは、新入社員のころによくクルマで聴いた。聴いて泣いたり笑ったりした。頭は壊れたラジオ。次々にやってくる新しい情報と刺激は、愛想笑いすら奪っていく。ね。む。い。プログラマーさんも整備士さんも保育士さんも、あらゆる仕事は分解していけば「棒を突き刺したり風船を膨らませたり」するようなオペレーションの連続である。この「スキルアップ」の、カド消しゴムみたいに作用点の多いグルーヴだって、3人のライン工が指板やグリッドの上をせっせと動作することで組み立てられているじゃないか。うーみゅ。「Another Brick In the Wall, Pt. 2」から半歩も進んでいないことに、気づいちゃったみたい。でもそれを、皮肉でも自己憐憫でもない形で(自分を含む多くの筆者は、労働をネガティブに捉えている)、過程と現状を差し出すにとどめる吉田のリリックは“しごでき”そのもの。おかげで会社を辞めずに済みました。ありがとうございます。(髙橋翔哉)

つばきファクトリー「就活センセーション」

ハロー!プロジェクトには労働にまつわる曲が多いが、ひとりのファンとして特に衝撃を受けたのが、つばきファクトリーの2017年シングル「就活センセーション」である。作詞・作曲は2010年代のハロプロに不可欠な中島卓偉、編曲はハロプロ発足から黄金期を支えたダンス☆マン。この布陣が織りなすゴリゴリのファンクは、インスト音源で聴くとその本格的なグルーヴがさらに際立つ。民間企業への面接に挑む就活生の悲喜こもごもを、当時未成年で実質的には業務委託契約であろうアイドルたちに歌わせている点も興味深い。「やりたいことやれて 残業とかもなくて/有給も多めで っつーか自分何様だ?」というハッと我に返るリアルな歌詞が強く共感を呼ぶ。一方、「よろしくお願い致します!」とスーツ姿でロボットのようにお辞儀を繰り返すシュールな振り付けは、一周回ってぶっ飛んでいる。画一化された日本の就活システムへの痛烈な皮肉にさえ思えてくる名(迷)曲だ。(ぽっぷ)

家主「SHOZEN」

最近じゃ身体も動かさないし、キーボードを打つ指も、なんなら頭すらもあんまり使っていない。動かすのは口だけで、使っているのは気だけ。そんな脊髄反射系中間管理職の私に労働を語る資格があるのだろうか。強いてサラリーマンとしての功績をあげるなら、四半世紀の間で一度も休職したことがないということくらい。その理由は、真面目に悩んで自分を追い込みすぎる前に、他者に対する怒りへ転嫁できているからだろう。怒りという感情がネガティブなものとされがちな時代だけど、自分の中にそれがあることを認めてあげないのは身体に悪い。俺の仕事が失敗したのは、俺に任せた上司のせい。田中ヤコブの爆音ギターを思い出しながら「悄然・ショウゼン・SHOZEN」って心の中で唱えて、君は君を責めるのやめな。社長も課長も係長も、資本主義の中ではただの小作人。みんなで責任を分かち合う仕組みが会社。やれるだけやって、あとは人のせいにすればいいのだ。(ドリーミー刑事)

折坂悠太「夜学」

裕福さの象徴であるようなバレエ教室の子どもたちの履くトゥシューズを、どこか遠く、手に届かない「文化」と眼差しながら、「煙突」の写真を卑近さの象徴であるトイレに飾る。「未だに向こう岸に渡れません」「それはいつもの道ですが、その日は寝そべる大きな壁に思えました」──厳密には、労働そのものについての楽曲ではないものの、この曲に綴られたスポークン調のこれらの言葉は、階級間の断絶を身近に発見するワーキング・クラスのまなざしとして読むことができるようにも思う。しかも曲調はジャジー、と思わせておいて、荒狂うブルーズ。「そう ここは夜学 まだ皆が若く 持て余す手が足が 濁流にあがく」。夜学、ということは、この主人公は日中は働く労働者なのだろう。夜学で学びを得て果たしてこの階級の生活から立ち去るのか、やはり留まらざるを得ないのか。まだそれさえはっきりとは見えない若者の手つきに、眼差しには、熱と希望と諦念とが混沌として渦巻いている。(井草七海)

Zara Larsson「Ain’t My Fault」

ニートになる日を夢見ながら、私は日々出勤している。出勤といっても在宅だから準備をして通勤をするわけではないけれど、時間通りに出勤し、仕事をして、いつになったら労働と無縁の世界で生きれるのだろう……と、カイリー・ジェンナーの“A day in my life”みたいなVlogをTikTokで見ながら思っている。数字やデータで生産性を指摘してくる会社の精神性も嫌いだし、というか、毎日最低8時間労働なんて、どう考えても人間らしい生活からかけ離れている。だから、「だぁからあれほど働くのは嫌だって言ったでしょ〜‼️」と叫ぶマダムタレントのアレン様のような人が流行るのは、不思議ではないと思う。私は特別彼女のファンでもないけれど、彼女の言動を見ていると、一貫した他責的なマインドセットが聴衆にウケているのがわかる。スウェーデンの歌姫、ザラ・ラーソンのこの曲は、彼女がいる男性から好意を受けて「アンタの男が私に電話してくるのは別に私のせいじゃないし」と歌う曲。彼女のように、私たちってそんなにシリアスに仕事をやらなくていいと思う。この世からさまざまな極悪労働制度が消えて、せいぜい働いても3時間くらい、あとの時間は自分たちが好きなことをして、みんなが尊厳のある暮らしを送れる世の中になりますように。。(島岡奈央)

Text By Haruka SatoShoya TakahashiNana YoshizawaTatsuki IchikawaIkkei KazamaMasamichi ToriiNao ShimaokaShin FutatsugipopDreamy DekaTsuyoshi KizuShino OkamuraNami IgusaDaiki TakakuYasuyuki OnoEri Mokutani

1 2 3 88