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hikaru yamada and mcje: live!

2025 / Local Visions
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コロナ以降、新たに“集う”ために

07 March 2025 | By Kotetsu Shoichiro

80年代のニューヨークに存在した伝説的なクラブ、《パラダイス・ガレージ》は、経営末期は移転先の問題に悩まされた。ゲイの有色人種という、二重の被差別者たちが集う場所を提供することを、多くの地主~オーナーたちは拒絶した。自分たちにとって理解のできない連中が、理解のできない目的で“集うこと”が許せなかったという訳だ。

このことから、具体的な“旗”やプラカードを持っていなくとも、ある集団がそこに居合わせている状況それ自体が、既に何かを表明している状態になり得る、と言えるのではないだろうか。繰り返しの騒がしい音楽に熱狂する男たちの“集まり”に、地主たちが感じたのは、単なる生理的な嫌悪感だけではなく、もっと社会的な違和感だったのだろう。《パラダイス・ガレージ》から生まれたハウス・ミュージック、そしてクラブ・カルチャーの物語は今でも続いており、素晴らしい作品とスピリットが広範囲に継承されている。

『live!』は、《Local Visions》からリリースされた、hikaru yamadaによる新作だ。名義はhikaru yamada and mcjeとなっており、大蔵雅彦や平井庸一らがメンバーに名を連ね、エンディングには香川在住のコラージュ/トラックメイカー、taishijiが参加している。

hikaru yamadaという音楽家の掴みどころの無さについては、数年前のこのサイトでのhikaru yamadaへのインタヴューでも言及されているが、本作もまた、一言で言い表すことのできない、不定型の音楽となっている。それはつまり、そう簡単には消費し切れない、しなやかでタフな作品と言うことだ。

『live!』に収録された楽曲は、ミュージシャンたちがスタジオにて、互いが目を合わせながら「ワン、ツー、スリー」と演奏されたものではない。ミュージシャン各人が、ヘッドフォンから流れるビートに対して即興演奏を行い、それを事後的に編集/合成したものが音源となっている。

結果“ジャズのライヴ”と聞いて想像するような、白熱のインタープレイといった場面は、この作品にはない。hikaru yamada本人の解説にも「奏者同士の反応を減らし、大人数アンサンブルにありがちな祝祭感を封じるのが狙い(略)合奏の悦びはありません」とある。

しかし、かと言って、何の緩急もない、気まぐれなパフォーマンスがただ並んだだけの“ジャズっぽい何か”かと言えば、そうとも言い切れない。ゆるやかに空気を共有したそれぞれの音は、退屈なようで緊張感もある。迷路でばったり出くわしたように、個々の音は時おりすれ違う……ように聴こえる。

最初に《パラダイス・ガレージ》云々とは書いたが、当然、ハウス・ミュージックやわかりやすいダンス・ミュージックでもない──ただ、例えば最も長尺の8曲目「someone goes_ahead」の心地よいざわめきは、ピークタイムを過ぎたクラブ・イベントにおいて、DJの選曲はなかなか悪くないものの、人々はお喋りや酒の方に向かい、各々が好き勝手に行動している様子を、一歩離れた喫煙所から眺めている時間を思い出させるムードではある。私個人は、皆がステージに向かって一斉に腕を振り上げる活況よりは、あの時間のあの微温度の方が心地よい。

2020~2022年ごろの、コロナウイルスによってもたらされた、感染対策による様々な状況の変化は、結果として“人が集う”ということの重要性を再確認させられる事態となった。同時期に、コミュニケーションの場としてのインターネット/SNSがみるみるうちに荒れ果て、壊れてしまったことも合わせると、これまでとは違う“集い方”そして“繋がり方”について意識せざるを得ないのではないだろうか。

人々が、ある種の距離感を保ちながらも、ゆるやかにその場に留まり、志はありながらも明確な目標はなく、しかし時おり美しい場面が訪れる……『live!』を聴いていると、そんな“集い方・繋がり方”の新しい理想形が頭に浮かんでくる。

熱狂を促す音楽、孤独を慰める音楽はいくらでもある。hikaru yamadaという音楽家は、そのどちらでもない音楽を奏でようとしているのかも知れない。(Kotetsu Shoichiro)




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【INTERVIEW】
hikaru yamadaとは何者か?
シーンの触媒にして「音楽だけ」を求める音楽家の軌跡
http://turntokyo.com/features/hikaru-yamada-interview/

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