Rafael Toral『Spectral Evolution』
──フィードバックの囀りがジャズ・オーケストラのソリストを夢見る──
ポルトガルの音楽家、ラファエル・トラルはまず何よりも先にギタリストとして知られる存在だ。彼がゼロ年代初頭までに発表した『Sound Mind Sound Body』、『Wave Field』、『Violence Of Discovery And Calm Of Acceptance』といった作品は、ギターを用いたアンビエントやドローン、実験的な音響作品といった文脈で長きに渡って高い評価を得ており、近年にあっても、畠山地平が影響を語り¹、岡田拓郎が《ギター・マガジン》の企画〈Radical Guitarist〉²で取り上げたことで、その存在を知った方も多いのではないだろうか。
しかしながら、30年以上に渡る彼の音楽活動は、そこに留まるものではない。ニルヴァーナ(の公演にサポートとして出演したバズコックス)のライヴでの経験³以来増幅し続け、『Wave Field』にもその要素が導入されていたフィードバックに対する強い関心は、ついにはギターという楽器を彼の手から追いやり、自作のフィードバックシステムによる実験作『Aeriola Frequency』を生み出し、更には2004〜2017年にかけて継続的に試行される〈Space Program〉へと彼を導いていくこととなる。実に10年以上に渡ってギターを離れた彼が再びそれに手を伸ばすのは2016年、João Pais Filipeとの驚くべきデュオ作『Jupiter and Beyond』制作時のことであった。
そして2024年、22年振りに再始動したジム・オルークのレーベル《Moikai》より送り出された新作『Spectral Evolution』は、そのような多分野に跨る試行錯誤が総合された、彼のキャリアの集大成とも呼べる傑作となった。その重要性は《Boomkat》の年間ベスト⁴をはじめ様々なメディアからのリアクションでも明らかといえるだろう。筆者も本作の存在は2024年の様々な音楽動向にあって、響きの独創性や、これを聴き込むことで見えてくる様々な音楽分野の見知らぬ風景の多様さ(これを音楽的な深みと言い換えてもいいだろう)などから、特筆すべき一作あると考えている。そこで本稿では、彼のこれまでの音楽的変遷と紐づけながら本作が持つ総合性を詳らかにすることで、その内容に迫りたい。
〈Space Program〉からの継続性、ジャズへの憧憬
“『Violence Of Discovery And Calm Of Acceptance』をリリースした後、私は何か違うことをしたい、もっと繊細で、突飛で、より現在的で鋭いことをしたいという衝動に駆られました。~私はカスタムメイドの電子楽器を使って演奏をしたかったのですが、その方法を学ぶにはジャズが最適だと気づきました。私はそれを〈Space Program〉と呼びました。⁵”
“〈Space Program〉は、ひとつのアイディアに基づいています。それは、機械主導ではなく、インストゥルメンタルの方法でエレクトロニック・ミュージックにアプローチするという点で、より人間的な源泉を持つ、エレクトロニック・ミュージックの理解の仕方を提案しようというものです。 エレクトロニック・ミュージックというよりも、ジャズとの共通点を持たせたかったのです。⁶ ”
“私は、このジャズへのアプローチ(フリースペクトラム・ライヴ・エレクトロニクスの観点から個人が意思決定を行うシステムを意味する)を、創造的な可能性を秘めた新しい刺激的な分野だと考えています。私はこれを「ポスト・フリー・ジャズ・エレクトロニック・ミュージック」と呼んでいます。⁷”
『Spectral Evolution』を聴くうえでまず押さえておきたいのが、彼がギターを用いた表現を停止し、2004〜2017年にかけて試みた〈Space Program〉の存在だ。この試みは簡潔にいうと、彼がサーキットベンディングによって自作した電子楽器に関する演奏メソッドの長きに渡る探求であり、そこでは改造された機械を古典的な楽器に近い身体的な振る舞いによって演奏することが志され、ジャズが大きな参照となった。ここで彼が用いる自作楽器の仕組みや演奏の様子については、以下の《Resident Advisor》の動画がもっとも親切だろう。是非目を通していただきたい。
動画内で彼自身が語ってもいるように、これらの楽器は(フィードバックや接触不良的なノイズ、音程が既存の音階などにグリッド化されていないサイン波などを発するため)音の明確な分節化によって成り立った西洋音楽の演奏には適していないが、そのような「外れた」音を発する楽器でなお、何らかの旋律、すなわちそれ固有の歌を歌えるようにすることがこの試みの核心であるようだ。
〈Space Program〉は最終的に、2006年リリースの『Space』を皮切りに、自作楽器のソロ演奏を収録した『Space Solo』シリーズ、自作楽器を用いての様々な音楽家との共演(多くはデュオ)を収めた『Space Elements』シリーズによって構成される6つの作品群となったが、これらが録音された2004〜2017年の間に、彼は他にも自作楽器を用いた演奏の記録を様々な作品として発表しており、それらの中には『Space Collectives』や『Space Study』といった〈Space Program〉との繋がりを強く示すものも多いため、実際にはこのプログラムの規模はより広大なものとなっている⁸。〈Space Program〉は2017年に『Space Solo 2』のリリースを以って終了を迎えるが、2018年からはその次の段階として自作楽器がウッドベースとドラム、そしてサックスという古典的なジャズの編成に加わる〈Space Quartet〉が始動し、より直接的にジャズらしい関係性(例えばソリストとしての役割)の中でその特異な演奏が継続されていく。
そして2021年に〈Space Quartet〉としての活動が終了して以降の彼にとって明確に次のステップを示すものとなった本作『Spectral Evolution』でも、この〈Space Program〉~〈Space Quartet〉で用いられた自作楽器が非常に積極的に用いられており、そのサウンドは作中のほとんどの場面で四方八方から聴こえてくる。特筆すべきはその音色の彩りの鮮やかさだろう。Bandcampの作品概要で “ミュート・トランペットとオカリナのミュータント・テイクのようだ” と形容されているように、そのサウンドは聴者に様々な楽器を想起させながら、それらのイメージの間を活発にまさぐる未知の生物といった趣を有している。まるでジャケットに写る鳥が、その鳴き声で人間の口笛や、特殊奏法を駆使したトランペット、トロンボーン、ホルン、チューバなどの金管楽器の演奏(筆者はピーター・エヴァンス(Peter Evans)やポール・ラザフォードを想起した)を声帯模写していくような音響の振れ幅は、本作でも最も耳を刺激するポイントだろう。そしてそのような特異な擬態性を持ったサウンドが、ギターのコードサウンド上で跳ね踊る様は、まるでフィードバックの囀りがジャズ・オーケストラのソリストへの夢を語るような、驚くべきイメージの飛躍を聴者の脳内に生起させるのだ。
ギターへの回帰
『Spectral Evolution』で最初に耳に入るのは、素に近いギターの響きである。先に言及したように、彼は2004年以降長きに渡って、ギターという楽器を離れ自作楽器の演奏に専念していた。彼が再びギターを手にしたのは2016年の作品『Jupiter and Beyond』においてであるが、ここではギターは作品のメインとなる自作楽器と打楽器の録音が済んだ後に加えられた副次的な要素に留まっていたため、作品の全編からそのサウンドが聴こえてくる本作を本格的なギターへの復帰作と見做すのもあながち間違いではないだろう。そして本作におけるギターのサウンドは、(1:30から始まる「Changes」のパート以降)多くの時間でフリーズ系のエフェクト⁹がかけられた「静止」した音響となっていることにも注目だ。このサウンドは彼のデビュー作『Sound Mind Sound Body』の1曲目「Aer 4」にて確立されたものであり、すなわちここでのギターはその用い方の面でも原点回帰の様相を備えている。
和声という名のフロンティアへ
“以前は、ギターを音、倍音、共鳴、フィードバックを発する物体として常に理解していました。¹⁰”
“私がずっと嫌ってきたもの、つまりスケール、モード、ルールに興味を持つということです。 私が生涯をかけて拒絶してきたものを手に入れるのです。¹¹”
前述したようにギターという楽器の使用、そしてその音作りにおいて原点回帰の様相を持つ本作であるが、加えてここでは明確に新たな挑戦がなされていることも見逃してはならない。それがギターで綴られる和声の面でのジャズへの接近だ。本作は「Intro」に始まりそれぞれにタイトルが付けられた総計12個のパートからなる組曲のような構成を有しているが、その中のいくつかのパート(「Changes」や「Take the Train」、「Your Goodbye」など)でギターが奏でるコード進行は、ジョージ・ガーシュウィンによる「I Got Rhythm」のコード進行(いわゆるリズムチェンジ)やエリントン/ストレイホーンの「Take the “A” Train」を引用したものであり、これは “ギターを音、倍音、共鳴、フィードバックを発する物体として常に理解していた” 彼が、〈Space Program〉~〈Space Quartet〉においてジャズへの理解を深め、ウッドベースとドラムというリズム隊との協働をも経験した末に、長らく自身の音楽指向から遠く離れていた和声という名のフロンティアへ足を踏み入れたことを意味するだろう。そう、Margarida Azevedoでのインタビューで語っているように、彼は自身にとって未開の(それ故に魅力的な)要素を、“生涯をかけて拒絶してきたもの” を、手に入れる旅へと発ったのである。

『Spectral Evolution』のパートの推移。「Fifth Twice」を中心に折り返すような構成となっており、同じ色で示したパートには(コード進行や基調となる音程など)何らかの共通点や、対になった役割が見られる。
加えて注目したいのが、ここでのコード進行の歩み方、具体的にはそのスピード感や具体性である。リズムチェンジの引用から数多の曲を生み出し、そのうえでアドリブを競ったビバップの特徴の一つが、4ビートで駆動される圧倒的な速さだろう。そしてそれに伴い足早に次々とめくられるコード進行は、さながら静止画が駆けだすパラパラ漫画の要領で、ひと連なりの流れとなっていく。ここでは連結されたいくつものコードは個々の単体での響きより、その移行の際に生ずる跳躍や上下動の引力、いわば機能によって捉えられ、連続体を生み出す歯車となる。また、ジャズの演奏ではコード進行は、あくまで様々な解釈や演奏アプローチによって即興的に旋律を生み出すための基盤として存在し、個々の和音がアレンジを挟まないそのままのかたちで鳴らされるというケースは(高度な演奏になればなるほど)避けられるように思われるため、その働きはある種水面下から船を推し進める動力のように、人知れず、ナチュラルなものとなる。
一方、本作『Spectral Evolution』でのコード進行は、一ページごとに視線を落とし、その印象をしっかりと胸に留めたうえで、重々しくページをめくるようにゆったりと進む。更に、奏でられた和音のブロックはフリーズエフェクトによって一定時間壁のように空間に定着するため、個々の和音の存在が強固かつ具体的に顕然し、結果として最低限のコマ数で大股に進むような、武骨な推進力が露になる。
また、それと同時に、コード進行の歩みの遅さやサウンドの静止したテクスチャーは、時折、聴者の意識を機能に沿った和音の流れから離脱させ、推進力よりもドローンに近しい停止の感覚を呼び起こしもする(特に「Changes」の中盤にあたる5:30から7:40にかけての時間はそういった性質が顕著に感じられる)。その在り方は音の歩みの遅さ故に聴者の意識が眼前の響きに埋没することで、カノン的な構造美という全体性が遠のき、ドローン的な「永続性」のイメージが召喚され続けるカリ・マローン(Kali Malone)『The Sacrificial Code』とも通じるものに思える。本作が複数のパートにおいて明確に「進行」を持ち、組曲的な形式によって豊かな起伏が描かれるものでありながら、多くのレヴューなどでギター「ドローン」への回帰作と紹介されていることにも、このような聴取の働きが関わっているのではないだろうか(もちろんEのキーでの即興的な爪弾きや図太い持続音に貫かれる「First Long Space」と「Second Long Space」、コードの移り変わりが読み難くジャズ・ナンバーからの引用の要素も嗅ぎ取り難い「Fifth Twice」といったパートの存在も影響しているかと思うが)。
本人がどこまで意図したかは定かではないが、本作ではポピュラーなコード進行を辿る際の歩みの遅さとサウンドの静止したテクスチャーよって、武骨な推進力とまばらに呼び起こされるドローン的な停止の感覚という相反するような力が生み出されており、そのもつれ合いが聴者を幻惑する。その聴き心地はジャズと呼ぶにはあまりに具体的で、しかしドローンやアンビエントにはない懐深い推進力を確かに宿した、紛れもなく本作独自のものだろう。
雑草の生い茂る庭
“クラシック音楽でもジャズでも、コード進行があって、その上にメロディが乗ります。コードは特定の音程を迎え入れます。つまり、キーや音階などに一致するということです。しかし、私が思い描いていた庭には、雑草が生えていました。¹²”
ここまで述べてきたように『Spectral Evolution』は、彼が新しく獲得した和声の下敷きのうえで、長年の探求によって培われた自作楽器の演奏が奔放なソロイストの如く跳ね踊るという構成がメインとなっている。そしてそのような構成を形作るにあたって障壁となるのが、ギターによって発される和音とそのうえで踊る電子音との関係性である。すでに述べたように、彼の自作楽器はその構造上しっかりとした音階のグリッドをなぞることは難しいため、西洋音楽的な意味で和音に対応する音程をその都度発することは困難である。つまり彼の自作楽器は和音の上で、不可避的に「外れた」音を出したり横切ったりしてしまうのだ。しかしながら、本作ではその「外れた」動きが、粘り強い編集とスタジオでのトリックによって単純な「音痴」や「ノイズ」といった印象に収束されない塩梅に周到に留められ、和音との興味深い共存のかたちを示している。この点についても彼自身が簡潔に語ってくれているので引用しよう。
“ミニアンプ「MS-2」のようなフィードバック楽器は、その自然な要素(〈Space Quartet〉のようなフリーフォーム)ではあまりドラマチックに聴こえないようですが、コードや和声構造との想定された関係の中に置かれると、非常に強い感情的表現力を容易に帯び、叫びや嘆きのように聴こえます。¹³ ”
ソロ演奏や、和音を発する楽器を持たない〈Space Quartet〉とは違い、和声構造の中に置かれた自作楽器の動きは、和声が聴者の中に自然に想定させる音程の秩序や旋律の流れに、時に吸着され、時にその(吸着しきれぬ)ギャップによって緊張関係を生み出す。ここでの自作楽器の振る舞いは、まるで整理された和声と旋律という網で、その奔放な飛行の先を予測し捕えようとする耳の働きを、くすぐり嘲笑うかのようだ。彼は本作のヴィジョンを庭に例えつつ、そこには(本来そこから除かれる対象である)雑草が生えていたと語っているが、「外れた」音の群れが、あるべき秩序を挑発しながら、しかし不意に寄り添いもする本作の様相は、正にそれに合致するものだろう。
このように『Spectral Evolution』は、キャリアの初期に試みられたギターを用いたアンビエントやドローンのサウンドと、その後長きに渡って試行された自作楽器の演奏が、新たな要素(ジャズ由来の和声進行)のうえで邂逅する、正しく彼のこれまでの歩みを総合したような内容である。複数の要素、コンセプトが絡み合い、生い茂る雑草と無数の鳥の歌に満たされた楽園的な庭を描き出す本作は、その完成度故にラファエル・トラルという音楽家と出会い、30年以上に渡るそのキャリアの深みへ手を伸ばすには絶好の一作だ。きっとそこには、アンビエントのコンセプト、ドローンの音響、フィードバックの発展性、ジャズや即興への新たな視点など、実に雄大な音楽的風景が広がっていることだろう。(よろすず)
¹ https://www.audio-technica.co.jp/always-listening/articles/chihei-hatakeyama-ambient/
² https://guitarmagazine.jp/article/2021-1117-radical-guitarist-009/
³ この経験については『Wave Field』の再発に際するライナーノーツで詳しく語られている。https://rafaeltoral.bandcamp.com/album/wave-field-remastered
⁴ https://boomkat.com/charts/boomkat-end-of-year-charts-2024/2689
⁵ https://rafaeltoral.net/records/guide-to-discography/より拙訳
⁶ https://toneglow.substack.com/p/tone-glow-125-rafael-toralより拙訳
⁷ https://rafaeltoral.bandcamp.com/album/space-elements-vol-iより拙訳
⁸ 〈Space Program〉およびそれに関連する作品群の詳細については、筆者によるnoteの記事を参照いただきたい。https://note.com/yorosz/n/nd5ae31c031f2
⁹ 本作のプロトタイプといえる「Semibreve 2021」でのパフォーマンス(https://youtu.be/eoJ3vPqkz-w?si=lWOCvXYFU9sIKc9M)を見るに、Electro HarmonixのSuperegoを使用しているようだ。
¹⁰ https://margaridaazevedo.com/en/interview-with-rafel-toral/より拙訳
¹¹ https://margaridaazevedo.com/en/interview-with-rafel-toral/より拙訳
¹² https://toneglow.substack.com/p/tone-glow-125-rafael-toralより拙訳
¹³ https://margaridaazevedo.com/en/interview-with-rafel-toral/より拙訳
Text By yorosz

Rafael Toral
『Spectral Evolution』
LABEL : Moikai / Drag City
RELEASE DATE : 2024.2.23
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