アメリカン・ロックのスタンダードになった快感と覚悟
例えば8曲目の「fool」の、もうあまりにも人懐こい、でもぶっとい演奏の隅々にまで血を通わせるような生き生きとしたメロディを聴いて、もちろんこの曲は誰がどう聴いてもルー・バーロウのソングライティングでしかないわけだけど、結局こういう曲を書ける人が現在のアメリカン・ロックの層の厚みを支えてきている事実を痛感してしまう。そう、あえてアメリカン・ロックと言い切ってしまってもいい。USインディー・ロックとかロウ・ファイとか、そういう狭い枠組みの中に収めておいて一部の好事家だけが楽しむような、そんな存在ではない。もはやロックのスタンダード。最先端とか反主流とか新しいとか古いとか、あるいは、好きとか嫌いなどの趣向性、俺はココでお前はアソコなどという属性もいい加減いまいましい。そういう尺度で音楽を整理すると絶対に大きな落とし穴があることを、このアルバムは見事に伝えている。
ハードコア・パンクがあり、アシッド・フォークがあり、サイケデリック・ロックがあり、カントリー・ロックがあり……もちろんそれら全てをこのバンドの中心人物であるルー・バーロウが一人で網羅しているわけではない。ルーよりハードエッジな曲を得意とするもう一人のメイン・ソングライターであるジェイソン・ロウェンスタインが約半数を担っているのは今作でも同様だ。ルーの曲はこれまで通り、そのちょっと甘いタッチのヴォーカルにも合った感傷的でメランコリックなものが多く、本作でも2、4、5、8、10、14、15、16などがルーのソングライティングだろうと想像できる。冒頭でも触れた強烈にキャッチーなメロディが全編を占める8曲目「fool」の親しみある風合いはこの人のフレンドリーな人柄を、アコースティック・ギターをラフに聴かせる16曲目「privatize」の翳りと寂寞は、本人いわくメンタル面で体調を崩し2000年代をほぼ丸々棒に振ってしまったようなその繊細さ、優しさを伝える。そして、時間をかけて熟成してきたようなこうしたソングライティングの妙技がアメリカン・ロックの歴史を受け継いでいることの証であると気づいた時、彼らが、近年は決して饒舌ではなくなってきてはいるものの、たゆまず積み重ねてきたことの大きさを思い知る。
このバンドがマサチューセッツ州はアマーストから80年代終盤に登場してきた時、彼らは確かにリアルにオルタナティヴな存在だったかもしれない。ルー・バーロウはまだ何者でもなかった頃、DIYでデモ音源を次々と発表し続けていたが、そんなゲリラ的活動は主流に対するテロに近い印象さえ受けたものだった。だが、再結成後のダイナソーJr.の活動にルー・バーロウが駆り出されていることもあり、セバドーのみならず様々な名義で次々と作品を出していた90年代初頭ほど今のルーは小回りが利かなくなっているし、一方でいつのまにかセバドーはある種の定番となっている。しかし、結成から今年で30年、定番こそが最強であること、定番であるがゆえにその冠を自ら壊していく必要があることに気づいているような気もするのだ。
気がつけば歴史を継承していること、アメリカン・ロックのスタンダードになったことの誇りを認めながらも、そこといかにして距離をとるのか。いかにして歯車であることの事実から抜け出していくのか。もちろんそれはもはや反主流的行為ではない=スタンダードを形成する行為かもしれない、というアンビバレントな作業であることが前提。だが、彼らはそれでもギャンギャンにうるさいギター・ロックを鳴らす。だから超絶にカッコいい。
例えば。現在のザ・ナショナルに対して全盛時代のR.E.M.を重ねている人も多いだろうし、実際にザ・ナショナルのニュー・アルバム『I Am Easy To Find』に収録されている「Light Years」を聴いてR.E.M.の「Nightswimming」が一瞬頭をよぎったりする人もいるかもしれない。だから、ザ・ナショナルはR.E.M.の後継者的バンド。その解釈は間違いなどではないだろう。けれど、そうした歴史的整理整頓を放棄するようなヴェイパーウェイヴ以降の世代の、飄々とした空気に強烈に打ちのめされている筆者には、この約6年ぶりのセバドーのオリジナル・アルバムはあまりにも厄介だ。最高すぎるからもう自らの脳内をこのまま流血させておけばいい、今はそんな結論だが、約30年かけて戦前ブルーズからハードコア・パンクまで貫いてきたアメリカン・ロックのスタンダードとしての快感と覚悟が入り混じった状態を、いつまでも放り投げておくことはきっとできない。(岡村詩野)