連載
The future belongs to analogue loyalists
スティーヴ・アルビニに捧げるメモワール
Vol.3
1992年3月にスティーヴが来日した後、同年の8月には東京でスティーヴの録音のもと完成させたZENI GEVAの新作『Nai-Ha』を携え、ZENI GEVAとしてアメリカ・ツアーを行っている。《Public Bath》(レーベル)のデヴィッドさんがツアー・ドライバーを担当してくれて、ワシントンD.C.から東へピッツバーグなどを経由してシカゴ、マディソン、そしてテキサスへくだり、西海岸を回ったと記憶している。その際8月8日シカゴの今はなき《Lounge Ax》のライヴにも、スティーヴは顔を出してくれた。その日は、NULLさんが「シカゴの若いギタリストが、K.K.NULLとギター・デュオでやりたがっている」と言っていたので、ZENI GEVAのオープニング・アクトとしてデュオで出てもらうことになっていた。NULLさんとしては奇しくもその夜はダブル・ヘッダーとしての出演になった訳だが、その若いギタリストというのが、日本では誰にも知られていなかった頃のジム・オルークである。ジムとは僕もその時が初対面で、我々が会場入りした時には、ステージにアンプをセッティングしていて、既に一人でサウンド・チェック代わりにギターを弾いていた。「気合が入ってんなあ」と思ったのを何となく記憶している。 1991年に初めて《The Basement》でレコーディングした時からの変化といえば、それまでスティーヴはブッチというブッキング・エージェントをやっている人物と家をシェアしていたのだが、現在は一人暮らしをしていてスペースができたからか、コンソール・ルームがキッチン横の納戸のような狭い部屋から、屋根裏部屋に移動されていたこと。録音したての音を聴き直すのに、地下室から一階のキッチンではなく、屋根裏部屋まで一気に階段を駆けのぼらなければいけなくなった(笑)。それとレコーダーを買い換えたようで、トラック数が8トラックから24トラックになっていた。メンバーそれぞれ寝袋などを携えて、スティーヴの家に宿泊して制作するというスタイルだったのだが、僕は最初はそのコンソール・ルームの床に寝袋で寝ていた。ところがご存知の方も多いと思うが、レコーディング・スタジオのコンソール・ルームは、機材の電源をつけっぱなしにしているため、空調をギンギンに効かせておかないといけない。あまりの寒さに「こりゃ絶対、風邪引くなあ」と思い、敢えなく寝床はリビングのカウチへと移動した。リビングにはスティーヴのレコード・コレクションや(特にパンク以降からUSインディーに至るまでのレコードのコレクションは凄いものがあった)、彼の過去のライヴのビデオなどもあり、まあいわば宝の宝庫で、夜中にこっそりニューヨークの《CBGB》におけるビッグ・ブラックとプッシー・ガロアのライヴのビデオを見たり、それなりに楽しかった(笑)。 この時のレコーディングで、ある曲のギターのフレーズの音色を工夫したかったのか、一発録音ではペダルの切り替えなどに難儀するため、そのフレーズだけ後から録音しようとしたのだが、それがちょうど演奏のブレイク部だったため、ギターを入れるタイミングが合わずに四苦八苦していた。だんだん自分がダメなギタリストなんじゃないかと、ドツボにはまりそうな状況で、スティーヴに「オーバーダブは時には目隠しして絵を描くように難しいものだよ」と言われた言葉は、今でもハッキリと記憶に残っている。確かに今では波形を目で追いながら、演奏のタイミングなどを見計らって録音することは可能だろう。しかしアナログ録音に至っては、ヘッドフォンから流れてくるベーシック・トラックを聴きながらの演奏なのだ。逆に一発で録音できることは、その時にやってしまう方が良いということを学んだ。結果的にライヴの迫力を殺さずに、必要最低限の効果的なオーバーダブを施したアルバムが出来上がったのではないかと思う。 その後、ZENI GEVAはヴァンに乗って単独で全米ツアーに出発、僕のギター・アンプは何とスティーヴが自宅スタジオにあるマーシャルJCM800をツアー中ずっと貸してくれた。一ヶ月半近くもスタジオで使う機材を貸してくれたスティーヴには感謝しかない。 連載第1回 連載第2回 Text By
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その時はツアーでの渡米だったので、スティーヴに会ったのはそのシカゴの夜だけだったが、ライヴ終了後に食事をして「次のアルバムは来年かな?」など話したりしたのだと思う。ここまでのアメリカでの活動中、サンフランシスコで知り合ったデッド・ケネディーズのジェロ・ビアフラが、彼のレーベルである《Alternative Tentacles》からZENI GEVAをリリースしたいという打診を受けていた。次にスティーヴと録音するなら、そのアルバム制作になるだろうということだった。
翌年の1993年9月にZENI GEVAとしてまた渡米、今度は《Alternative Tentacles》からのアルバムの制作である。この時がタフなスケジュールで、最初スティーヴのエヴァンストンの自宅に滞在し、《The Basement》と称される彼の地下室スタジオでアルバムを録音&ミックスした後、ZENI GEVA単体で全米をツアーして回るという行程であった。到底アルバムのプレスには間に合わないのだが、その年の前半に東京で別のエンジニアで制作したシングル盤を《Alternative Tentacles》から先行リリースしていたので、それを物販として携えてツアーを回ったのだと思う。
左から、K.K. Null、スティーヴ・アルビニ、田畑満、エイト
8トラックから24トラックと、録音できるトラック数が飛躍的に増えると、ライヴ演奏とは違うことを試してみたくなるのが人情である(苦笑)。この時もZENI GEVAとして限られた時間内で、何かスタジオ録音ならではのものにトライしようとしていたのだが、スティーヴは一貫して「全員で“せーの”で録音した音こそが“バンド”なんだ。オーバーダブは必要最低限でいいと思う」という意見だった。というものの、それをバンドに押し付けたりするのではなく、あくまでバンドのやり方に任せるのがスティーヴ流である。丁度、録音期間中にTarというシカゴのポスト・ハードコア・バンドのリーダー、ジョン・モーが《Touch & Go》から出た新作『Toast』のLPを届けにスティーヴ宅にやってきた。その時に個人的に少しジョンとスティーヴの録音について話をしたのだが、「俺らが最初スティーヴと録音した時は、7本もギターをオーバーダブしたものだよ。スティーヴは“やめといた方がいい”って感じだったけど、黙ってやらせてくれた。でも、結果的に出来上がったアルバムはクソだったよ。今ではシンプルにやるようにしてる」という逸話を教えてくれた。実はそのアルバムのことなのか、日本の雑誌でもTarの作品が雑誌のレヴューで酷評されていて、「スティーヴ・アルビニでもお手上げか?」みたいな文章が載っていたのを覚えていたから思わず笑ってしまった。その後でジョンと一緒に聞いた新作『Toast』は、かなりスティーヴ・アルビニの影響を受けた音楽ではあるけれども、なかなかの力作だった。
さて、以下は、そのレコーディング滞在中での余談になるが、当時僕は《disk union》というレコード屋にアルバイトしていて、当時の社員の方から「ユニオンで配布しているフリー・ペーパーに掲載したいのだが、何とかスティーヴ・アルビニのインタヴューができないか?」という話を持ちかけられていた。長い間の休みを貰っている恩もあるので、何とか貢献したくスティーヴも気楽にオーケーしてくれたので、カセット録音でインタビューを試みた。NULLさんが立ち会ってくれて、拙い英語力の僕をカバーしてくれたことには感謝している。その時、初めて行った日本での印象や、ZENI GEVA以外の好きな日本のアーティスト、ビッグ・ブラックの他のメンバーのその後の動向などを訊いたのを記憶している。確か「シェラック」という新しいバンドをやり始めたという話も、その時に初めて聞かされた。そのカセット・テープは今でも手元にあり、当時のスティーヴの肉声を聞くと、胸に詰まるものがある。当時ディスク・ユニオンで配布されたフリーペーパーにおけるスティーヴ・アルビニ・インタヴューでは、大幅に内容が割愛されていたので、この連載の最後に全文掲載したいと思っている。
近年、スティーヴがポーカーの世界チャンピオンになったというニュースが流れてきて驚いたものだが、確かに彼はポーカーが強かった。滞在中にフガジのライヴがシカゴであったので見に行ったのだが、Tarが前座で出演、そのTarのPAを担当していたのがスティーヴだった。「ライヴのミックスもやるんだな」なんて思ったものだが、ライヴ終了後、スティーヴから「フガジが《Touch & Go》の倉庫に寝泊まりしてるんで会いに行く?」と言われたので、フガジとは彼らが以前来日していた時に既に親しくしていたから付いて行った。そこで誰彼ともなくポーカーをやろうという話になり、自分も参加したのだが、殆どスティーヴが一人勝ちしていたと思う。お金を賭けていたのではなく、負けるとアメリカならではの激不味スナックを食べるという罰ゲームで、僕ばかり食っていたような気がする(苦笑)。あまりにスティーヴが強いので、フガジのイアン・マッケイなどは熱くなりすぎたのか、ポケットからドル札を丸めた束を取り出し、それをバーンと机の上に置いて、「本気で金を賭けてやろう」と言いだす始末。そのドル札束がギャラをキープしているツアー経費であることに気づいた他のメンバーが、「おい、それ俺らの金だろ。やめろー」と、一斉に止めに入ったことも愉快な思い出だ。(文・写真提供/田畑満)
Vol.4へ続く
【INTERVIEW】
KISHINO TABATA BROPHY
岸野一之、田畑満、フィリップ・ブロフィの邂逅が生む危険な音軌道
http://http://turntokyo.com/features/kishino-tabata-brophy-interview/