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連載
The future belongs to analogue loyalists
スティーヴ・アルビニに捧げるメモワール
Vol.2

02 July 2024 | By Mitsuru Tabata

翌1992年の2月19日、僕は東京《中野サンプラザ》の前に立っていた。その日はニルヴァーナの来日公演だったのだが、ライヴを観るためではなく、スティーヴ・アルビニ来日公演のチラシを撒くためにである。その時、誰とチラシを配ったのか記憶が定かではないのだが、ライヴは観ずに終演時間の頃合いを見計らって、ゾロゾロと中野サンプラザから出てくるお客さん相手に、チラシを一枚一枚配ったのを憶えている。コンサートを見た知り合いに会うと、「アンコールが“Smells Like Teen Spirit”でしたよ」「え? そうなんや」なんて会話をしたりしていた。

翌3月にスティーヴは初めて日本にやってきた。恐らく前年のスティーヴとZENI GEVAの初邂逅以降に計画されていたのだと思うが、来日の主たる目的は以下だ。

・スティーヴ・アルビニ来日公演をZENI GEVAのスペシャル・ゲストという形で東京2ヶ所、大阪1ヶ所で行う。
・K.K. NULLさんと、当時FM東京で司会ラジオ番組を持っていた日系アメリカ人で、一橋大学の学生でもあったギルバート君(愛称ギル)との共同リリースで、ZENI GEVAの新作をスティーヴ・アルビニ録音で制作、日本のバンドのコンピレーションも制作する。

今となってはK.K. NULLさんとギル君がどう知り合ったのかなど、詳しい経緯を思い出せなかったりするのだけど、NULLさんとギル君が成田空港へスティーヴを迎えに行った電車が、何らかのアクシデントで止まってしまい、次の駅へ向かって線路の上を歩いて行かざるを得なかったという話を聞いたのを今でも憶えている。

当初、来日に際してスティーヴは、「自分のマイクを必要最低限は持って行きたいので、荷物が多くなりすぎるかもしれない。ギターはそちらで借りれないか? その際に物凄く長いストラップもお願いします」みたいな話をしていたらしいのだが、結局マイクも、ギターも、腰に巻くための物凄く長いストラップも自前で持ってきた。おまけに日本でプレーしようと思っていたのだろう、ビリヤード用の自前キューまで持ってきていたのを憶えている(キューのケースにミッキーマウスを描いたジーザス・リザードのステッカーが貼ってあった)。

スティーヴが来日に際して持ってきたギターはVeleno Guitarsのフル・アルミニウム・ボディーのギターで、当時ではとても珍しかった。左手をコードのフォームで押さえたまま、ボディーを拳で叩くと中の空洞が反響し、当該コードの音色が鈍い金属音として響くのがとても面白かった。

当時のライヴ日程を見てみよう。
・1992年3月20日 東京・新宿《アンティノック》 共演: コーパス・グラインダーズ、FUNHOUSE
・1992年3月31日 東京・高円寺《20000VOLT》 共演: ルインズ、VOLUME DEALERS、K.K.NULL & Steve Albini duo
・1992年4月3日 大阪・十三《ファンダンゴ》 共演: 大博士、U.F.O. OR DIE

スティーヴ・アルビニ初来日時のフライヤー

先ず日本に到着してZENI GEVAとスタジオでリハーサル、初日の新宿《アンティノック》 のライヴが終わったのちに、当時高円寺北口にあった《アフタービート》北口店に於いてZENI GEVAの新作ほか、東京のバンドをレコーディング、高円寺《20000VOLT》でライヴ、その後、関西に移動して関西のバンドを大阪のスタジオで録音したり、十三《ファンダンゴ》でのライヴを行うという予定だったと思う。所謂外タレ・アーティストの来日とは違い、完全なD.I.Y.による招聘であったので、当時来日中のスティーヴが滞在していたのは、ギル君の紹介と思われる吉祥寺にある一橋大学の学生寮だった。いきなり日本の日常に飛び込んだような形だったのが、スティーヴにとっても刺激的だったのだろう。自動販売機など、日本の街中にあるごくありふれた物、しかしアメリカでは見かけない物ばかりを手持ちのカメラで撮影していたのを憶えている。

ライヴに際しては、ZENI GEVAの楽曲を一緒に演奏するというのが基本路線だったのだが、せっかくスティーヴにとっても初来日公演でもあるし、何かヴォーカル曲をという話になった。「ビッグ・ブラックやレイプマンの曲は、その時のメンバーとのものだしやりたくはない。でもカヴァー曲なら構わない」という返答だったので、クラフトワークの「THE MODEL」をやることになったのだと思う。

流石に32年も前のことなので、拙者も今となっては当時のライヴの記憶がかなり曖昧なのだが、幸いにも当時のライヴ映像がyoutubeに残されている。

新宿《アンティノック》での初ライヴ後、『内破』としてリリースされることになるZENI GEVAのニュー・アルバムの録音を高円寺の《アフタービート》北口店で行なった。日本の個人経営リハーサル・スタジオが所有するレコーディング・スタジオで、スティーヴが録音するということにも個人的な興味があったが、この時にとても興味深い一幕があった。確か一番最初に選んだ曲のベーシック・トラックを録音した際、スティーヴがコンソールの下あたりに目をやって「Oh shit」と呟き、何やらスウィッチをパチパチと切り替えていたのである。何をしているのかと問うと、「dbxがデフォルトで入りっぱなしになっていやがる」。dbxのノイズ・リダクション・システムは、ダイナミック・レンジを圧縮し、全周波数に於いてノイズを軽減する装置なのだが、特にテープ独特のヒスノイズなどには役に立つ。しかし、スティーヴはどうやらダイナミック・レンジを狭めるという副作用がお嫌いだったらしい。そして全チャンネルのdbxをオフにした後、ゆっくり「Fuck dbx」と呟いた。

この『内破』のレコーディングでも、スティーヴ独特のエンジニアリングを何度か垣間見ることができる。例えば「聖痕 “Shirushi”」という曲のミックスの時に、NULLさんのヴォーカルのチャンネルを過大入力し、ディストーションのような歪みを与えているのだが、ノイズ・アーティストがカセットで宅録したりする時によくやる手法でもある。しかしそういった裏技的な手法を普通のレコーディング・スタジオでやるエンジニアなんて、それまで見たことがなかった。

「エンジェル“Angel”」という曲では、先述したスティーヴのVelenoギターの特性を活かしたイントロでギタリストとして参加もしてもらっている。

この『内破』は、当時東京FMで番組を持っていたギル君のコネで、《FM Tokyo Hall》内のスタジオでも録音することができたのだが、そこはフル・デジタルのスタジオだった。スティーヴ本人もフル・デジタルでの録音の経験はあるということだったが、やはり勝手が違ったのだろうか、「シンバルの音に何か効果的なエフェクトを加えたい」という僕らZENI GEVAの提案に対して、「テープ・スピードの可変を利用して録音するという裏技もあるけど、デジタルじゃ出来ないね(苦笑)」なんてスティーヴにしては珍しいボヤキ(?)が聞けたのも、今となっては微笑ましい思い出だ。

この滞在中にスティーヴが録音した日本のバンドは、ZENI GEVAのほか、以下になる。VOLUME DEALERS、想い出波止場、FUNHOUSE、ボアダムズ、マリア観音、ルインズ、U.F.O. Or DIE。この時の録音は2年後の1995年に、《BAD SUN RISING》のvol.1とvol.2というコンピレーションとして発売されることになる。

そのコンピレーションにも、ZENI GEVAとスティーヴは、ゲスト・ベーシストに元キャプテン・コンドームのMAS-Pを加えた布陣で、ZENI GEVA & Steve AlbiniやSUPERUNITという名義で参加しているのだが、そのうちの一曲はスティーヴが新たに提供してくれた彼の作詞作曲による「Kettle Lake」というヴォーカル曲である。現在ではKK. NULLさんのBandcampにてフリー・ダウンロードできるので是非聞いてみてほしい。


そういえば滞在中、ギル君の提案でDJイベントにスティーヴが出演するなんてこともあった。吉祥寺の《Hustle》というクラブだったと思うが、ギル君の他に今もDJで活躍されているDJ KOKI ABEさんが、その夜にプレイしていた。シカゴからレコードを持ってくるなんてことは出来ないから、ギル君のLPを借りてプレイしたのだと思うが、DJセオリーなど完全に無視、ひたすらスーサイドをかけていたのが印象的だった。

DJでスーサイドをかけるスティーヴ・アルビニ

この夜は投宿地の学生寮まで拙者が送り届けて、道すがらスティーヴと二人きりになって話したのを憶えているが、「薦めてもらったスリントのセカンドを聴いたよ。素晴らしかった」「ファーストは僕が録音したんだけれど、セカンドは名作だね。自分で録音したかったよ」なんて話をしたのを憶えている。シカゴで初対面の頃よりずっと親密になって、あれこれ好きな音楽を教えて貰ったりしたのだが、その頃は自分がエンジニアとして関わっているジーザス・リザードを「世界一好きなバンド」と誉めそやしていた。

他にも浅草を案内した時、天ぷら屋で海老天を勧めると「俺は虫は食わない」と敬遠されたり、吉祥寺の「ホープ軒本舗」でラーメンを食べた時に、店内の風景を見て「まるで伊丹十三の映画『タンポポ』そのままだ」と喜んでいたり、京都で滞在した時に鴨川沿いの居酒屋「まほろば」で楽しく飲み食いしたこと、その後宿泊した当時は大博士というバンドをやっていた現在俳優の大宮イチ君の実家に、マイクを丸ごと置き忘れたりして、「楽しすぎたのかな? スティーヴでもそんなことあるのか」なんて思ったこと。色々と思い出は尽きない。そういえば、滞在中に気分転換のつもりか、普段酒も煙草もやらないのに、煙草を買って吸ったりもしていた。銘柄はゴールデンバットやしんせいだったのだが、どうしてフィルターの付いてないタバコを選ぶのか問うたところ、「吸うときは吸う」だった。そんなところも実にスティーヴらしいなと今では思える。その後、アーカイヴ的に《Touch & Go》からリリースされたビッグ・ブラックのライヴ・アルバム『Pigpile』には、裏ジャケットにラッキー・ストライクのパッケージが描かれているのだが、国内盤はスティーヴ一流の目配せだったのだろう、ゴールデンバットが描かれていた。(文・写真提供/田畑満)


Vol.3へ続く

連載第1回

http://turntokyo.com/features/the-future-belongs-to-analogue-loyalists-steve-albini-1/


連載第3回

http://turntokyo.com/features/the-future-belongs-to-analogue-loyalists-steve-albini-3/


Text By Mitsuru Tabata


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