ファーザー・ジョン・ミスティ
新作『Chloë and the Next 20th Century』に寄せて──
「次の20世紀」への消し去れない甘い異物
3月上旬、本作の日本盤に付属するライナーノーツを書くために、実は一足先に本作を繰り返し聴いていた。取り戻せない過去からやってきたヴォーカル・ミュージック・アクターと言うべきか、未来なき現代を惑わすラウンジ・シンガー・ソングライターと言うべきか。繰り返し聴きながら、フリート・フォクシーズ脱退後〜今日に至るまでのファーザー・ジョン・ミスティ(FJM)=ジョシュ・ティルマンの数々のソロ・ワークスを振り返り、彼のその異物感を様々な言葉に置き換えてみる。でも、どれも違う、どうにも異物感は拭えない。それどころかその異物の闇の中から抜け出せずモタモタさせられる一方だ。なんだこのアルバムは!
最初に事実だけをまとめておく。『Chloë and the Next 20th Century』はFJMの約4年ぶりとなるニュー・アルバムで、この名義になってからの5作目。2020年8月から12月にかけてソングライティングと録音が行われ、旧知のジョナサン・ウィルソンがジョシュとの共同でプロデュースを、前作ではプロデュースも務めたデイヴ・サーミナラがエンジニアを、ドリュー・エリクソンがアレンジメントを担当。ベーシック・トラックはNYの《Five Star Studio》で、ストリングス、ブラス、木管楽器はダン・ヒギンズやウェイン・バージュロンらが参加したセッションとしてLAの《United Recordings》で行われたという。
現段階で公表されているのはこの程度だ。2020年にはオフィシャル・アカウントとしてツイッターを復活(2022年4月現在投稿はゼロ)、インスタグラムも2021年秋に再開させたものの、ほとんどスタッフによるとみえる告知事項のみで、SNSで積極的に日々の息吹を発信することは一切していない。したがって、この新作についても最低限のアナウンスのみで、この作品が一体何を意味しているのか? インスピレーションの源はどこにあるのかといった本人解説の裏話を、“インターネット上”で見つけることはほぼ不可能と言っていい(これからはわからないが、本稿を書いている現段階で見つけることはできなかった)。2018年、前作にあたるアルバム『God’s Favorite Customer』をリリースした後、彼は“姿を消して”しまったのである。かく言う筆者である私も、2017年夏、フジロックフェスティバルで来日した際に対面して取材をして本人から様々な話を聞いたのが、FJMについて私が確実に得た“間違いのない情報”だ。
さて、ここで問題なのはその“間違いのない情報”という薄っぺらい正義である。筆者も日々様々な“情報”とやらを探す過程で、主に海外の多くの文章に出会い、書物もこれまで以上に多く読むようになった。これは誰が書いたもので、その人はどのような筆致で、どのような指向性の持ち主で、どのような角度から対象に触れているのか。そして、その人はどのように社会に対峙しているのか。その一点において心が動かされるようになっていると言っても過言ではないわけで、そうなればこそ、ますますインターネット上に氾濫する、“間違いのない情報”という仮面を被っただけの、実際は血の通わない対処に辟易するようになる。あるいは、どれほど心を込めて書かれた文章であっても、ひとたびネット上で公開されたものは、すべからくゴミとともに紛れてしまうということへの落胆。いつだったか、自分の文章についてではないが、誰かが「ネット上で拾ってきた」だか「ネット上に転がっていた」といった表現で何かの記事をリツイートしていたのを見た時のことだ。たとえその筆者が無名であったとしても、一体誰が好んで最初から「拾われる」「転がされる」ための文章を書こうとするだろうか。そうしたドライな現代社会こそが興味深い、とみる研究者的な感覚自体はむろん理解できる。没落寸前の社会の中で割り切って生きる図太さは、悲しいかな自分にもあるからだ。こうした予防線をいろいろと張り巡らせながら社会批判的アングルの文章を書くこと自体がもうしんどい、と思いつつも、この状況を嘆き悲しむ資格など、各種SNSを利用する自分にはないこともよくわかっている。
されど、その時、ふと思い出したのはFJMのことだった。
『Fear Fun』(2012年)、『I Love You, Honeybear』(2015年/全米17位)、『Pure Comedy』(2017年/全米10位)、『God’s Favorite Customer』(2018年/全米18位)とこれまで4作品を全て《Sub Pop》からリリースしてきたFJMは現在40歳、5月で41歳を迎える。だが、作品を重ねるごとに、ジョシュ・ティルマン名義時代からのフォーク、ロック色は後退し、彼自身ステージではギターも手にせずスラリとした手足をパントマイムのようにしなやかに動かしながら細かな機微を伝えるようにマイクを握る、そんなパフォーマンスを見せるようになっていた。その姿はショウアップはされているもののダークな仮面を被ったようなエンターテイナー……いや、さながら社会に背を向けたアンチヒーロー。象徴的だったのは、2017年、フジロックフェスティバルでのステージでのことだ。バンドを従えた本人はもちろん全身で熱唱。前方では外国人オーディエンスが陣取り客同士肩を組みながら大合唱する光景も見られた(というか、筆者もその中にいた)。VRゴーグルをつけて生きる嘘っぱちの世界を揶揄したような歌詞は、とうてい肩を組んで大らかに歌うような内容ではない。そんなオーディエンスたちの一体感を前に、しかしながらその渦に自らも入りこもうとはせず、挑発したりけしかけるわけでもなく、むしろ距離を置くかのように素知らぬ顔をしてただただ歌っていたFJM。それはなんとも奇妙な体験だった。なんだこのパフォーマンスは! その居心地の悪さを実感しつつ、リアリティとやらに対し挑戦しているかのようなFJMの痛快な佇まいは観終わってから何日も何日も、目に焼き付いて離れなかった。普通にいいメロディ、いい歌、いい演奏、という当たり障りのない感想に着地させておしまいにしていいわけがない。
そして、FJMはネットから姿を消した。
ニュー・アルバム『Chloë and the Next 20th Century』は、薄っぺらい情報社会という欺瞞から去ったFJMが描いた最初のアルバムと言ってもいいだろう。
全11曲を収録したこのアルバムは、“クロエと次の20世紀”というタイトルさながらに、「クロエ」という女性をモチーフ(対象としての主人公)とする叙事詩的な内容のようだ。筆者は「クロエ」といえば「セヴィニー」と反射的に言いたくなる程度には彼女のファンなので、実際にスペルにウムラウトはないにせよ、ハーモニー・コリン脚本、ラリー・クラーク監督の『Kids』(1995年)で体当たりの熱演をしたあの時のクロエ・セヴィニーの顔を思い浮かべながら今も本作を聴き、歌詞を目で追っている。しかし、本作で描かれたストーリーは、果たしてそれは全くストーリーとは言えないような、何もかもが辻褄の合わない全11曲だ。
いきなり1曲目「Chloë」からその物語は展開されるかに見えるが、地方自治体に勤務する社会主義者の「クロエ」は、お役所仕事に邁進する生真面目な女性である一方、「僕」はしゃべり方が少しおかしなそんな「クロエ」を崇拝するも、彼女は31歳の誕生日にどこかに消えてしまう……序盤の風呂敷の広げ方はまあそんなところ。そして、2曲目の先行曲でもあった6曲目「Q4」からは場面が変わる。「Q4」のQとはおそらくQuater……つまりQ4は第4四半期=1年の10月~12月のことを意味したものなのだろうか。昔のモノクロ映画のオープニング・タイトルを模したようなPV(「I Love You, Honeybear」などを手がけたグラント・ジェイムスが監督)も象徴的だが、ここではシモーネ・コールドウェルという架空の作家の盛衰を彼女の姉の死などを軸に展開されている。ラストのタイトル曲は全11曲の中で最も長い7分弱。その長尺の中には、耳をつんざくようなギター・ソロがノイジーに顔を出したり、奇妙なストリングスがそれを受けたりと、1曲の中で大きな波のうねりを創出させた、さながら映画のエンド・ロールのような展開になっている……わけだが、正直、時系列などはさっぱりわからない。筆者の想像力が著しく乏しいことを差し引いても、むりやり流れを繋げようとはしてみるも、理解できないままアルバムは終わる。理解をさせない、惑わせる、というような痛烈な目線もそこにはなく、ただただ、辻褄が合うようで合わない、そんな「クロエと次の20世紀」。なんだこのアルバムは! なのである。
ただし、曲そのものはどれもカジュアルでキャッチー。フランク・シナトラやトニー・ベネットのようなものもあれば、オールド・タイミーなスウィング・ジャズ、ワルツ風、ブラジリアン調など非常に多様だ。過去FJMの全ての作品の中で最もヴァリエイションは豊富だと言っていい。かつて「ロックでなければなんでもいい」という名言を残したバンドがいたが(偉大なるワイヤーです、言うまでもなく)、バンド・サウンドとしてのロック以前の文脈の大衆音楽の要素の中で、まるでコインを入れる昔のジュークボックスをかけて楽しんでいるようにさえ思えるほどだ。つまりは、物語それ自体を伝えるためのものなどではなく、苦しみと歓びとに分裂しそうな隙間から漏れ出た何かをただただ表現したに過ぎない。だから本気でその姿に心がつかまされるし、本気で痛みをそこに見てとることもできるだろう。表現とは「ネットに転がっている」情報などはなから信用しない、まるで皮を剥ぎ取られるかのように、見えないところで骨身を削ってこそ生まれるものであることを彼はきっとわかっている。
筆者はドラマや映画を楽しむ中で昨今よく言われる「伏線を回収」という感覚が全く好きではない。伏線を回収したからと言って、それが一体なんだというのだろう。回収されなかったら、それは表現失格なのか? 投げたら投げっぱなしという表現は批判されるのがオチなのか? いや、もちろん違う。断じて違う。もしかすると、本作も壮大なテーマのもとに最初は明快な青写真はあったのかもしれないが、誰もが理解できるよう体裁よくストーリーをまとめることをしなかった(少なくとも筆者にはそう思える)この『Chloë and the Next 20th Century』というアルバムは、結果として、あたかもこの混沌とした有りようが「次の20世紀」を示唆したかのような不気味な作品だ。何度聴いてもクロエ・セヴィニーの顔を思い浮かべてしまう筆者には、『Kids』でセヴィニーが演じたエイズ感染の少女がそうだったように、人間の堕落=恍惚を表出させた本作の「クロエ」や「僕」がなんとも哀しく、でもなぜかとても魅惑的に思えてしまう。
というあたりまで書いたところで、はてさて、ネット上にはいないだけで、元気にライヴも行なっているFJM、今年2月25日にLAの《Walt Disney Concert Hall》で開催されたというライヴが一体どんな感じだったのか。YouTubeやインスタグラムにはオーディエンスによって投稿された映像がきっといくつかあがっているだろう……とキーボードを叩こうとして、ふと我に返り手を止めた。ということも最後に告白しておく。と思ったら、アルバム発売前日の4月7日にロンドンのバービカンでジュールズ・バックリー指揮のThe Britten Sinfoniaと共演したパフォーマンスの公式映像が期間限定(4月10日まで)で公開されていた。1カメで遠景のみ約2時間。会場の二階席あたりで観ているような距離なので表情までは読み取れない。いや、読みとる必要なんてないだろう。ライヴはまったくもって素晴らしい。顔は見えないが、とにかくすさまじい表現力だ。ただただ、心を動かされる。スウィートでロマンティックな気分に耽溺もしてしまう。でも、なんかヘンだ。異物感はやっぱりある。最高の異物感が、ストレンジで甘い異物感がある。今日も明日もこれからも消えてなくならない、次の20世紀にもきっと横たわるだろうFJMという異物が厳然とあるのみだ。
そして筆者は思い出す。アレン・ギンズバーグ『アメリカの没落(The Fall Of America)』のこんな一節を。
《「おれの国なんだ、
ここでなくあっちで戦ったほうがいい」
怖くて言えなかった「いや、狂っている
だれもが狂気だ──
この国は正しくない、
宇宙は 幻影だ」》。
(岡村詩野)
Text By Shino Okamura
Photo By Nicholas Ashe Bateman
Father John Misty
Chloë and the Next 20th Century
LABEL : Sub Pop/ Big Nothing
RELEASE DATE : 2022.04.08
購入はこちら
Tower Records / HMV / Amazon / iTunes
関連記事
【INTERVIEW】
Father John Misty
ファーザー・ジョン・ミスティことジョシュア・ティルマンのアート現実論
http://turntokyo.com/features/interviews-father-john-misty/
【FEATURE】
Father John Misty
現代アメリカきっての千両役者ミュージシャンが、
社会をヴァーチャル・リアリティとして描く日
http://turntokyo.com/features/features-father-john-misty/