手をひらいたまま生きるための祈り
これは、手放すための歌ではなく、“手をひらいたまま生きるための祈り”だ。《4AD》から発表されたこのアルバムは、Waxahatcheeやスネイル・メイル、Kevin Morby(ex-Woods)といったアクトも手掛けてきたBrad Cookのプロデュースのもと制作された。さらに、同氏が制作に携わったヒッポ・キャンパス(Hippo Campus)のNathan Stockerやボン・イヴェールのMatt McCaughanら、旧知のミュージシャンをゲストに迎えている。 [*1] 前作『The King』の張り詰めた怒りと混乱を、もっと柔らかく、しかしもっと困難な場所へ押し広げていく作品である。その中心にあるのは「愛を受け入れると何が起きるのか」という問い──さらにいえば、「ノンモノガミー」を“猫のために毎晩ポーチへミルクを置くこと”として語る比喩だ。 [*2] 所有ではなく、選ばれる関係の倫理。その静かな構えが、このアルバム全体を貫いている。
その意味で冒頭曲「You’re Free to Go」は、スフィアン・スティーヴンス(Sufjan Stevens)以降の仄かなアンビエンスと親密だが遠い郷愁をまとった、インディー・ソウル/カントリー・フォークの名曲として象徴的に響く。ただし、ここで鳴っているのを単なる孤独な内省と読むのは短絡だろう。《FLOOD Magazine》で本人が明かすように、この曲は川辺での初デートから生まれており、すでに最初から“わたし”の歌であると同時にパートナーとの“関係”の歌でもある。 [*3] 「水の中には、愛と歴史と愛情が溢れて、私たち二人を別世界へといざなってくれた。そして、私はそこから一度も離れたことなんてない。あなたも、そこへ自由に行けるんだ。」──孤独な牧歌、親密な内省、抑圧を受けながらも身体に根付いたゴスペル的な情念は、夜明けを待つ姿勢としてではなく、誰かへ向けて自分を開いていく運動として響いている。
「Rust & Wire」では、湿った熱気と身体性がアコースティック・ギターのアルペジオに溶け込み、もろく儚い生活圏の風景に微かな祝福の匂いが残る。 [*2] 「Waits for Me」は、《WUNC News》の記事で「アンジマリ(Anjimile)がアメリカで黒人トランスとして育った経験の歌」と説明され、本人もまた自分や他のトランスの人々への「自分なりの賛歌」だと語っている。 [*4] Bandcampの紹介文が引く“When I was a little girl… I wanted to be free… When I was a little boy… I wanted to be real.”という一節も、その幼少期の自己認識をめぐる言い換えが、簡潔であるがゆえに巨大な個人的重みを帯びていることを裏づける。 [*5] 続く「Like You Really Mean It」は、本人いわく恋人にキスしてほしくて書いた曲で、いわば“ローラーディスコ”的な軽やかさ(Young GuvやKevin Krauterなどのインディー・エバーグリーン・ポップも彷彿とさせるような……)のなかに、暗い時代でもなお遊ぶことを手放さないクィアな体温がある。 [*6] ここでは祝祭と悲嘆が対立していない。祝祭そのものが、悲嘆の呼吸法になっている。
だが、このアルバムはそこで甘く閉じたりはしない。「Exquisite Skeleton」は家屋的断絶の痛みを、「Ready or Not」はトランスフォビアに直面する消耗を抱え込み、「Point of View」は、本人が「もっとも攻撃的」と呼ぶ短い刃として全体を裂く。 [*7] 「The Store」では現実へ還りつつも、シューゲイズ・ギターの螺旋とコーラスの倍音がなお、霞の向こう、幻視の側へと手を伸ばす。《Pitchfork》がこの歌声を「スフィアン・スティーヴンスとエリザベス・フレーザー(Elizabeth Fraser)のあわい」と評したのはきわめて正確で、本作は《4AD》的な“遠い声”の系譜を、フォークの親密さの内部へ慎ましく折り込んでいる。 [*8] つまりこれは、ギター一本の近さで、夢の距離をつくる音楽だ。
その往還は終盤でさらに深まる。「Afarin」は所作としての祈りを象徴するように遠くの誰かへ手を伸ばし、「Destroying You」では、結ばれることが祝福である以上に、他者の人生の軌道を引き受ける困難として立ち現れる。そして「Enough」は、答えに着地するのではなく、痛みとともに生きるための線引きとして鳴る。このソングライティングにおいて“祈り/嘆願/問い”に触れるとするならば、それは宗教的権威への回帰ではなく、壊れた後の生活のなかで祈りを個人的な技法として再発明することを意味している。 [*9]
《them.us》や《Grammy》の記事で読めるとおり、アンジマリはマラウイ移民の家庭に育ち、テキサス郊外の保守的なキリスト教環境、依存症からの回復、そしてトランスとしての自己形成をくぐってきた。 [*10] そうした歩みを踏まえれば、この穏やかさは安易な和解ではない。《them.us》が伝えるように、彼の音楽は初期からスピリチュアリティと自己受容を核にしてきたが、本作ではそれがもっと生活の側へ、もっと関係の側へ寄っている。ひとつの大きな転換期に位置するきわめてパーソナルな作品としてキャリアに刻まれるだろう。
そして本作は、私が共同主宰者として参加するレーベル《Siren for Charlotte》で提示する思想圏──「遠泳音楽 Angelic Post-Shoegaze」 [*11] の語彙でいうならば、非在の他者をなお愛しうる距離を、静かな体温のまま差し出す作品でもある。現と幻景のあわいを漂いながら、なお更新されていくこと。なお息をすること。なお歌うこと。その持続そのものが、ここではすでに祈りのかたちとして結晶している。まさに、個人的な傷と断絶をナラティブとして再編し、それを現在進行形の自己神話へと更新していくプロセス=再神話化を描いた作品として、クィア・フォークの現在地における象徴的な一枚に数えられるべきだろう。(門脇綱生)
【注脚】
[*1] 「You’re Free to Go」/Bandcamp(4月17日閲覧)
https://anjimile.bandcamp.com/album/you-re-free-to-go Bandcampのアルバム解説は、「producer Brad Cook (Waxahatchee, Hurray for the Riff Raff, Mavis Staples)」、さらに「Nathan Stocker (Hippo Campus), Matt McCaughan (Bon Iver), and guest vocalist Sam Beam (Iron & Wine)」と明記。
[*2] [*1]に同じ。
同ページは、本作の中心主題を「what happens when you let go and let love in?」と置き、ノンモノガミーについて「I view non-monogamy as setting out milk every night on your porch for the cats; they can come if they want」と説明する。
[*3] 「Anjimile Breaks Down His Ecstatic New LP “You’re Free to Go” (Track-by-Track)」/FLOOD Magazine(4月17日閲覧)
https://floodmagazine.com/218354/anjimile-youre-free-to-go-track-by-track/
《FLOOD Magazine》の曲別解説でアンジマリは表題曲について、「I wrote this song soon after meeting my partner. We had an amazing first date at this beautiful river」と語る。
[*4] 「Anjimile embraces transformation on “You’re Free To Go”」/WUNC News(4月17日)
https://www.wunc.org/wunc-music/2026-03-12/anjimile-embraces-transformation-youre-free-to-go
《WUNC News》は「Waits For Me」を「a song about Anjimile’s experience growing up as a Black trans person in America」と紹介。本人は「my little trans anthem for myself and other trans folks」と語る。
[*5] [*1] に同じ。
Bandcampの本作品紹介は「Waits For Me」について、「When I was a little girl, I wanted to be free… When I was a little boy, I wanted to be real.」と引用している。
[*6] 「Anjimile Announces New Album You’re Free to Go, Shares Video for New Song」/Pitchfork(4月17日)
https://pitchfork.com/news/anjimile-announces-new-album-youre-free-to-go-shares-video-for-new-song/
《Pitchfork》のニュース記事と《FLOOD Magazine》の告知は、「Like You Really Mean It」について本人の「I wrote this to make my girlfriend want to give me a kiss」という発言を伝え、《Pitchfork》はビデオを「roller disco-themed」と形容する。
[*7] [*1]に同じ。
Bandcampのキャプションでは「Exquisite Skeleton」を家族関係が疎遠であることの痛み、「Ready or Not」をtransphobiaに直面するexhaustionと説明する。《FLOOD Magazine》では「Point of View」について「this is definitely the most aggressive song I’ve ever written」と述べる。なお、「Ready or Not」を2021年にCookと書いたという話も《FLOOD Magazine》で本人の口から語られる。
[*8] 「Anjimile: You’re Free to Go」/Pitchfork(4月17日閲覧)
https://pitchfork.com/reviews/albums/anjimile-youre-free-to-go/
《Pitchfork》のレビューは、アンジマリの歌声を「between Sufjan Stevens and Cocteau Twins’ Elizabeth Fraser」と評す。また同文は「Waits For Me」と「The Store」にマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン的なフィードバックの影という、シューゲイズ的な幻想性/遠さ/到達不可能性へのアプローチ、私の語彙でいうならば、「霞の技法」を見ている。
[*9] [*1]に同じ。
Bandcampキャプションは、「Songwriting feels like a prayer, a plea, or a question」と述べ、アルバム全体の神聖さを「alive and imperfect」と表現する。
[*10] 「Anjimile on “Giver Taker,” Refusing Genre Labels, and Searching for Black Trans Representation」/them.us(4月17日閲覧)
https://www.them.us/story/artists-to-watch-anjimile
《them.us》は、アンジマリが「Raised by Malawian immigrants」であり、テキサス郊外の保守的キリスト教環境によるトランスフォビアや同性愛嫌悪のなかで育ち、のちにフロリダでリハビリテーションを経験したと記す。《Grammy》でもマラウイ出自と代名詞を確認するやりとりがある。
[*11] 「遠泳音楽 Angelic Post-Shoegaze」(自定義)
2021年11月より構想されてきたポストシューゲイズの派生領域であり、シューゲイザー固有の「霞=幻想性」「遠さ=到達不可能性」の美学と音響技法を継承しつつ、それをアニメ/サブカル的詩性、天使表象、合成音声/電子音響の倫理へ接続し、2000年代〜2020年代の電子音響、電子ポップ、ニューゲイザー、ネオシューゲイザー、ラップトップシューゲイザー、ドローンゲイズ、エレクトロニカ、広義のアニソン/声優楽曲、合成音声へと縦断的に拡張した体系を指す。《Organic Music》店主のChee Shimizuの「オブスキュア」思想や2010年代ニューエイジ・リバイバルの倫理的態度を受け継ぎつつ、2020年代に再興したシューゲイザー文化への返歌/奉献として定位され、出会いの予兆、喪失と断絶、超克の速度、祝福のまなざしという四章構造と、物語の外側からただ見つめる「傍観者としての天使」の視点を含む。
〈主要作家〉
アメリカ民謡研究会、that same street、inuha、ティム・ヘッカー、フェネス、Grouper、ジェフリー・キャントゥ=レデスマ(Jefre Cantu-Ledesma)、LSTNGT、Kazuma Kubota、Lovesliescrushing、Astrophysics、yandere、Posh Isolationの一部作品など。

