手作業のアナクロニズムと過剰なる“力”の顕現
レイ(RAYE)『THIS MUSIC MAY CONTAIN HOPE.』のありあまるほどのパワーは一体どこからやってくるのだろう。映画音楽の影響を受けた豪奢なオーケストラ・サウンドを軸に、モータウンやディスコ、ゴスペルやヴォーカル・ジャズといったリファレンスをまとめた作風は意外なほど古典に忠実で、わかりやすいサウンドのモダンさには乏しい。しかし多数のミュージシャンや演奏者、オーケストラ隊の力を借りることで成立した今作の恥じらいのない巨大さには“2026年の傑作”と断言するにふさわしい問答無用の破壊力がある。方法論としては“生演奏中心のアナクロニズム”とも言える内容でまったく新しくない一方で、全体的な印象は圧倒的にフレッシュなのだ。
グローバル・ヒットとなったシングル曲「WHERE IS MY HUSBAND!」を考えてみよう。“理想の夫探し”のテーマを掲げ往年のモータウン風のサウンドに徹した、ともすれば時代錯誤的にも映りかねない“古風”な楽曲コンセプトながら、その抗い難い推進力はとにかく凄まじい。ホーン・セクションやストリングスが演出する過剰なショウビズ感、いまやクラシックと化して久しいモータウン的形式、そしてそれらすべてを従えるレイのヴォーカルに至るまで、ここには新しいものは何ひとつ見当たらない。歌唱を含めた個々のパートの出力からサウンド全体の迫力に至るまで、彼女はただそれらを現代にふさわしいスケールにまで巨大化するだけなのである。ここでは生演奏の“クラシック”そのものが持ちうる破壊的なポテンシャルを、(その如何わしさも含めて)現代に再召喚することにすべてが賭けられているように思える。
(モータウンやディスコ、ゴスペルやヴォーカル・ジャズのシミュレートを通じた)過剰なる“力”の顕現という意味において、意外にも今作と比較すべきなのは、重低音を軸にますます越境の度合を強めるメタルや、過剰にデコラティヴなサウンドを追求してきたハイパーポップ/デジコア、時にプログレッシヴ・ロックにも接近するサウス・ロンドン以降のインディー・ロックといった近年エクストリームな表現を追求してきた地下シーンかもしれない。もちろんレイの立つ場所は、リタジー(Liturgy)やブラック・ミディのような地下/オルタナティヴな実験の場とは大きく異なる。しかし、時にミニマリズムに接近しながらある種の均整美を追求した2010年代のサウンドと一線を画すという意味では、リタジーのバロック美学やブラック・ミディのマキシマリズムは『THIS MUSIC MAY CONTAIN HOPE.』の豪奢をきわめたサウンドとそう遠くない位置にある。
前述のようにあくまで生演奏によるサウンドを中心とし、多数のミュージシャンや演奏者、オーケストラ隊を起用して、さらにはクロージング・トラックである「Fin.」でそれらの名前をすべてエンドロールのように読み上げまでしたように、あくまでレイ自身の意図は(それこそAIによるオートメーション化に対するアンチテーゼとして機能しうるような)手作業の復権にあることは間違いない。しかし、時代と逆行するような“生演奏”というアナクロニズムがもたらした反時代的な豪奢さが期せずして地下シーンの動向と共振し、長らくポップ・シーンにおいて支配的だった前のディケイドのサウンドに代わりうる次のモードを提示したことは興味深い。『THIS MUSIC MAY CONTAIN HOPE.』の圧倒的なパワーはこの捻れの中にこそ宿っているのだ。(李氏)

