「You Are My Sunshine」90年の歴史
第三章
You Are My Sunshineとディスコ
70年代に入るとモータウン以外からもYAMS楽曲が数多くリリースされるようになってくる。主要な作品としては、ソロモン・バーク「All For The Love Of Sunshine」(1970年)、ディオンヌ・ワーウィック「The Green Grass Starts to Grow」(1970年)、ビル・ウィザース「Ain’t No Sunshine」(1971年)、タイロン・デイヴィス「Honey You Are My Sunshine」(1972年)、ザ・シャイライツ「I Found Sunshine」(1973年)、オージェイズ「Sunshine」(1972年)などが上げられる。特にビル・ウィザース「Ain’t No Sunshine」は、“You Are My Sunshine”というフレーズこそ出てこないが、恋人を太陽に見立てる世界観を共有しており、スティーヴィー・ワンダー「You Are My Sunshine Of My Life」と肩を並べる代表的なYAMS楽曲の一つと言えるだろう。モータウンが牽引してきたYAMS楽曲が、この辺りから本格的にソウルの文脈で型として定着してきたことを示しているのではないだろうか。
音楽のトレンドの変化は用途の変化とも密接に関わっているが、YAMS楽曲もまた例外ではない。70年代半ばからディスコが本格的に流行していく過程で、You Are My Sunshineにも変化が表れる。それが、アース・ウインド&ファイア「Shining Star」(1975年)だ。自己を肯定する歌詞は、当時のディスコ・カルチャーを描いたNetflixドラマ『POSE/ポーズ』(2018年)などを押さえると、世界観としてマッチしておりディスコ・ソングとして受け入れられた訳が理解できる。彼らはブラックスプロイテーション映画『スウィート・スウィートバック』(1971年)などから注目を集めるようになったことを踏まえると、自己を肯定するという歌詞は、アメリカにおける公民権運動の流れも汲んでいるのだろう。この論考において注目すべきは、ビカビカのディスコ全盛期に突入するここから、You Are My Sunshineではなく、「You Are My Shining Star」へと変化していったことだ。80年代頃から本格的にそうした楽曲が増えていった。例えばマンハッタンズ「Shining Star」(1980年)、キャメオ「Feel Me」(1980年)、ポインター・シスターズ「What a Surprise」(1981年)など、ビカビカのディスコ・カルチャーを反映してYou Are My Sunshine楽曲も恒星のごとく自らを発光させていったのだ。その中でも、後世に影響を与えた点でルーサー・ヴァンドロス「Never Too Much」(1981年)は、面白い物語を持っている。それについては次章のメアリー・J. ブライジの項目で詳述する。
“Shining Star”は一時のブームとして去り80年代中盤ぐらいから再び“You Are My Sunshine”へと揺り戻しが起きる。チェンジ「You’re my # 1」(1982年)、エムトゥーメ「You Are My Sunshine」(1984年)など楽曲自体は80年代のディスコを強く思わせるが、「Sunshine」へと変化している。その変化として興味深いのが、ミッドナイト・スター「Close Encounter」(1986年)だ。1980年というShining Star全盛期に結成されたこのバンドは、自ら“スター”と名乗っている。しかし、この曲ではShining Starではなく「You Are My Sunshine」と歌っている。ここには、70年代後半から80年代初頭にかけてSunshineがShining Starへと変化した当時のカルチャーの温度感が内包されているのではないだろうか。
ディスコ時代が下火になるに連れてファンキーなダンスミュージックが徐々に減っていき、しっとりと踊る楽曲が増えた。さらにシンセサイザーの使い方が抑制的にもなっていった。そうした流れを象徴するのが、ベイビーフェイス「Sunshine」(1989年)だ。60年代から70年代前半のソウル時代、70年代後半から80年代のディスコ時代を通過し、90年代のR&Bへと入っていく直前に次の時代を牽引していくL.A.リードとベイビーフェイスの二人によって作られたYAMS楽曲。この楽曲は、ディスコ以前のYAMS楽曲への回帰、具体的にはオージェイズ「Sunshine」を思わせる。
しかし、ここから10年ほどオリジナルのYAMS楽曲はあまりリリースされなくなる。西寺郷太氏の言葉を借りるなら、「We Are The World」的世界観から「Sun City」的な世界観への変化と言えるのかも知れない。というのは、アフリカの飢餓を救うためのチャリティ・ソングとして作られた「We Are The World」(1985年)のみんなで協力すれば“世界は一つ”になれる差別や飢餓は無くせるという世界観から、南アフリカにおけるアパルトヘイトの実情を踏まえた人種差別がある現実を見ろと歌う「Sun City」(1985年)への変化。そうしたヒップホップが受け入れられていく中で、YAMS楽曲の甘い世界観は敬遠されていったのではないだろうか。YAMS楽曲が再び脚光を浴びることとなるのはクイーン・オブ・ヒップホップ・ソウルと呼ばれたメアリー・J. ブライジの登場まで待たなくてはいけないことも、それを象徴しているように思う。(杉山慧)
筆者作成のプレイリスト
第三章 You Are My Sunshineとディスコ
短期集中連載
「You Are My Sunshine」90年の歴史
第一章 You Are My Sunshineとレイ・チャールズ
第二章 You Are My Sunshineとモータウン
第三章 You Are My Sunshineとディスコ
第四章 You Are My Sunshineとヒップホップ
第五章 You Are My SunshineとR&B
第六章 You Are My Sunshineとゴスペル
第七章 ダニエル・シーザー「Best Part (feat.H.E.R.)」とその後
まとめ
「You Are My Sunshine」90年の歴史 扉ページ
Text By Kei Sugiyama