鳥居真道によるmei ehara 西海岸ツアー日記
明日からアメリカ。フェイ・ウェブスターの北米ツアーのオープニング・アクト(OA)に抜擢されたmei eharaにバンドのギタリストとしておともをするのだ。音楽の仕事でアメリカに行くのは初めてのこと。
このツアーは今年3月にリリースされたフェイの『Underdressed at the Symphony』に伴うものだ。むろん全公演について回るわけではない。OAをまかされたのは西海岸の6公演。10日間の滞在となる。
ロサンゼルスの《Greek Theatre》に始まって、西海岸を北上し、サン・ルイス・オビスポ、バークレー、ポートランドを経てカナダに入国し、バンクーバーでライヴをして再びアメリカに戻り、シアトルの《Paramount Theatre》へと至るコースになっている。日本に置き換えてみると、福岡から札幌まで移動するのと同じぐらいの距離だろうか。移動はすべて車だ。
「今月はアメリカ行きがあるから原稿の依頼はお断りするしかないな」と考えていたものの、気がつけばすべての依頼をお引き受けしていた。げに恐ろしきは依頼の魔力。しかし引き受けたからには内容のある原稿を提出するつもりだ。日本にいる間になるべく進めておかねばなるまい。この2週間は気もそぞろで、呼吸が浅く、心臓は早鐘を打っていた。まさに夏休み終盤のような心持ちだ。原稿の準備は出国当日の早朝にまで及んだ。ようやくパッキングを始めた頃には空が明るくなっていた。部屋が犯罪現場のような惨状を呈していたが、掃除よりも睡眠を優先して3時間ほど寝る。
2024年9月24日
出国の日。《カクバリズム》の事務所に集合して車2台で成田空港へ向かうという行程になっている。問題は事務所までの道のりだ。ギターのハードケースとキャリーケースを持って電車で移動するのは不可能だと判断してアプリでタクシーを呼んだ。
今回旅をともにするメンバーが徐々に集まってきた。メンバーは次のとおり。mei ehara、coff、沼澤成毅、浜公氣、そして角張渉。少なくともこれからの10日間は一蓮托生の関係だ。何卒よろしくお願いいたします。
成田空港に到着。チェックインから荷物の預け入れまでスムーズにこなして搭乗する。これからおよそ10時間のフライトだ。機内ではアレックス・ガーランドの新作『シビル・ウォー』を観て過ごす。内戦状態のアメリカを舞台とした作品だ。今まさにアメリカに向かっている飛行機の中で観るべき映画ではなかったかもしれない。
突然「時速900kmで空中を飛んでいるのってなんかイヤかも」と思えてきた。一刻も早く地面に足をつけたいような気がしてきた。この違和感を掘り下げるとパニック発作を起こしかねないので、努めて無視する。
その後、機内食を食べたり、映画を観ながら寝たり起きたりを繰り返しているうちにLAXことロサンゼルス国際空港に到着。ヴルフペックの歌にもなったLAXだ。入国審査をクリアし、荷物を受け取り、煙草を吸いに外に出ると展望デッキが見えた。『グランド・セフト・オート5』にも出てくるテーマビルではないか。『GTA5』はまさにロサンゼルスをモデルとした「ロスサントス」をマップに含む広大なオープンワールドゲームだ。しかしまさか実物のLAを訪れる日が来るとはなあ。
角張さんがレンタカーを借りるのを待つ間に売店でどきどきしながら水やチートスを購入してみる。最初は現金、二度目はクレジットカード。カードが問題なく使えたからほっとする。 夕方頃、エアビーの宿に移動する。自由時間。浜くんの提案でハリウッドの《Amoeba Music》へ行くことに。Uberで10分程度だったろうか。《Capitol Records Tower》が見える。ここはまさにハリウッドなのだな。 《Hollywood Palladium》はキャパは4000人ほどの大きな会場だ。収容人数に対して建物が大きいので、スペースにゆとりがあって居心地が良い。ライヴの途中でトイレに行ったり、お酒を買いに行っても元いた場所に帰って来れそうな人口密度だ。 いよいよライヴの初日。会場入りする前にまず《Stones Throw》のオフィスを表敬訪問する。《Stones Throw》からリリースされる『HOSONO HOUSE COVERS』の音源制作に《カクバリズム》が協力しており、mei eharaも参加しているので、直接挨拶しに行ったのだ。日本人スタッフ、ヨシオカさんが対応してくれて、物販のTシャツまでプレゼントしてくれた。その後、ヨシオカさんも交えて近くのピザ屋まで行って食事。 楽屋の近くを一人でウロウロしていたら「ヘーイ!」と元気に声をかけられる。向こうから歩いてくるのは、まさしくフェイ・ウェブスターその人であった。とびきりの笑顔で「嬉しい!めちゃくちゃ楽しみ!」と言ってくれたので、心がじんわりと温かくなる。その後、楽屋まで尋ねてくれたフェイたちに改めて皆で挨拶をし、お土産を渡した。 LAとサンフランシスコの中間にあるサン・ルイス・オビスポという街の名所的なホテル、《Madonna Inn》のイベント・ホールが二日目の会場だ。キャパは2300人程度。《Madonna Inn》は、ジョン・ウォーターズの映画を思わせるキャンプな客室で知られるホテルだ。その施設内にある大きなホールがこの日の会場というわけだ。 昼過ぎに会場入り。リハをこなして空き時間で原稿を完成させて送信。そして本番。ホールなので、反響があって少々やりづらくはあったがつつがなくこなせたと思う。 ライヴ3日目の会場は再び《Greek Theatre》だ。しかし今度はバークレーの《Greek Theatre》である。キャパは8500人。今回のツアーで一番大きな会場だ。なんでもカリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)の持ち物なのだそうだ。オープンはなんと1903年。古代のギリシア劇場よろしく客席は石造りだ。客席の一番高いところまで登って行くと、遠くにゴールデン・ゲート・ブリッジが見える。なんというロケーションなのだろう。いまだこの現実を受け止めきれずにいる。 この日からお客さんたちに楽しんでもらえるようなライヴを心がけるようになった。主にCoffが盛り上げ役として動き回っていた。「ゲームオーバー」のギター・ソロに突入する瞬間、meiちゃんが急に「ギター、トリイ!」と煽るのでびっくりしつつも、気持ちが高まったので普段よりも派手なソロが弾けた。アメリカのライヴではソロに突入した瞬間に大歓声が湧くので楽しい。この日はお客さんが8500人もいたからなおさら歓声が大きかった。こんな経験は二度となさそうなので、ステージを去るときにスマホでお客さんを撮ってみたのだが、残念なことにブレブレだった。 この日は、フェイとmeiちゃんがコラボした曲「Overslept」がライヴで初披露となった。舞台袖からスマホで撮影しつつその勇姿を見届ける。meiちゃんが歌い始めた瞬間に感極まり落涙。なんという歌声……。一緒に聴いていた沼澤くんも目を潤ませていた。 この日、meiちゃんはフェイがホストを務める《Yoyo Invitational》(ヨーヨー・フェスティヴァル)に弾き語りで出演。昼過ぎにmeiちゃんとハリーさんを《Yoyo Invitational》の会場で見送ったのち、他のメンバーは2日後のオレゴン州ポートランドでのライヴに向けてひたすら車移動。運転は角張さんと浜くん。 再びIH-5を北上してポートランドへ向かう。この日の会場は《McMenamins Edgefield》というホテルの敷地内にある野外のコンサート施設だ。森の中にある会場で、キャパは5700人程度。
しばらく待機したのち、角張さんが今回のツアー・マネージャー、ハリーさんを連れて戻ってきた。ハリーさんは現在LAを拠点にして、日本人のミュージシャンがアメリカでツアーするときのツアマネとして活動している人物だ。
Airbnbのチェックインの時間になるまで、ハリーさんのオフィスで休ませてもらうことになり、レンタカーに乗り混んで移動する。LAのハイウェイからコンクリートの用水路が見えるたびに「ターミネーター2!」とCoffが言う。アメリカは道が広ければ車もでかい。長らく洗車をしていなさそうな砂まみれの車が目につく。道路脇の斜面にはベッドが打ち捨てられている。ワイルドな国だ。陽光は優しく、いたるところに背の高いヤシの木が生えているが、どこか殺伐とした雰囲気も漂っている。
ハイウェイを降りると、日本の国道のような風景が見えてきた。ここに《くら寿司》や《洋服の青山》があったとしてもなんら違和感はないだろう。一旦オフィスに車を置き、歩いて近所の《In-N-Out Burger》に行き、テイクアウトにしてオフィスで食べた。肉肉しくて美味しかった。
ハリウッドの《Amoeba Music》
ハリウッド《Amoeba Music》は本当に巨大なレコード屋だった。郊外のユニクロをそのままレコード屋にしたような感じといえば伝わるだろうか。トリプルファイヤーのメンバーたちへのお土産としてアメーバのTシャツを買った。弊バンド内ではTシャツがお土産の定番になっている。しかしまだ渡していない。
《Amoeba Music》のすぐそばには《Hollywood Palladium》というコンサート・ホールがある。その日はなんとヴルフペックがライヴをするようだった。会場の周辺にはジャック・ストラトンのコスプレをしている人もいた。私はこう見えてもヴルフペック『Hill Climber』の国内盤でライナーを書いた男だ。「入れてもらえないかなあ」などと軽口を叩いていたら、「こんなチャンスは滅多にないのだから行きたいなら絶対に行くべき」と言って皆が背中を叩いてくれる。私は冒険心を持たない人間だから、そんな気は一切なく、普通に宿へと戻るつもりでいた。けれども鼓舞されるうちにだんだんと心に火がついてきた。もはや行くしかあるまい。「でも、一人じゃ心細い……」と嘆いたら沼澤くんがついて来てくれることになった。ほかの皆は予定通りに、ちょうどLAでライヴをしていたコーネリアスを観に行った。小山田(圭吾)さんにも挨拶できたそうだ。
決意は固まった。しかし何をどうすれば良いのかがわからない。係員の人に「どうすればチケットが買えますか?」と拙い英語で尋ねてみる。ソールドアウトはしてないからチケットはまだ買えるとのこと。しかしオンラインで買う必要があるそうだ。スマホで検索して出てきたそれらしきサイトを係員に見せたら「それそれ」というので、もろもろ入力してチケットを購入。おそらくオンラインチケットがメールで届くはずだ。しかしなかなか届かない。もしかしてメールアドレスを間違えたのかもと思い、個人情報のページを確認してみる。うわあ! 「@gmai.com」になっているのではないか。焦るあまり脱字していたのである。仮に日本で同じミスをしたとしても面倒な手続きが必要な案件に違いない。時間もない。英語もわからない。リカバリーは絶望的な状況だ。ヘルプレス。あまりにヘルプレス。沼澤くんにも申し訳ない。
お前はいつもそうだ。ここぞというときに失敗してばかり。これからもこうやってチャンスをふいにし、無力感に苛まれて生きていくのだろう。エミネムいうところの「ワンショット」をものにできない男なのだ。残念だ。非常に残念だよ。そんな思念が頭の中で渦巻いている。どうしたら良い。今から何ができる。
係員に助けを求めると、上司と思しき女性を呼んできてくれた。「今チケットを買ったんだけどアドレスを間違えちゃって」と説明を試みるものの、英語が伝わらず「住所が違う? 会場はここで合ってるの?」と聞き返される。「チケットを見せてごらん」というので、「それがないんだよ……」と頭の中でこぼしつつ、画面を適当にいじっていると、なんとQRコードが表示されたではないか。早速画面を見せると「オッケー!付いてきて」といってクロークから入場までわざわざ案内してくれる。「彼ら、英語が話せないみたいだから」と他の係員に説明して最後までサポートしてくれた。無事に入場できたので、振り返ると係員の女性はそそくさと仕事に戻っていった。恥ずかしがらずに「ユーセイブマイライフ!センキュー!」と叫ぶべきだった。
入場してみるとまだライヴは始まっておらず安心した。アメリカのライヴは日本に比べると開演時間が遅めに設定されているらしい。
ヴルフペックのライヴが行われた《Hollywood Palladium》
沼澤くんとセルフィーを撮ったのち、売店でビールを買う。店員さんから「どのビール?」と聞かれるが、知っている銘柄がなくて困る。「おすすめは?」と聞いて、挙げてもらったもののなかに「サッポロ」があったような気がしたので、「サッポロ」と言ったら、モデロというビールが出てきた。アメリカで現在売上ナンバーワンのメキシカン・ビールらしい。
ビールを一口飲むと、さきほどまで大量に分泌されていたアドレナリンが一気に引いたためか、強烈な眠気に襲われる。リラックスモードのスイッチが入ったようだ。
そしてようやくヴルフペックの登場である。来日公演を観に行ったコリー・ウォン以外は実物を初めて目にする。本物のジャック(・ストラットン)にセオ(・カッツマン)にジョー(・ダート)にウッディ(・ゴス)だ。すごいすごいすごい。
正直に打ち明けると、ライヴ本編の記憶はかなりおぼろげだ。ここ数年でも稀に見る焦り方をしたすえに、無事入場できたことで、意識が弛緩しきっていたせいだと思われる。途中で何度も眠りかけて倒れそうになった。まさに夢見心地だったのである。しかし、ヴルフペックの演奏をこの耳で聴けたこと、そしてLAというロケーションで「LAX」や「Christmas In LA」が聴けたことは間違いなく一生の思い出になるだろう。記念にTシャツを買った。ちなみに、数日後にLampがこの会場でライヴをするそうだ。
ヴルフペックのステージ
2024年9月25日
昼過ぎに会場入り。初日の会場はロサンゼルスの《Greek Theatre》だ。YMOが1979年にチューブスの前座をつとめたことでも知られるあの《Greek Theatre》である。森に囲まれた自然豊かな円形劇場で、そばには『ターミネーター』や『ラ・ラ・ランド』でおなじみのグリフィス天文台がある。キャパは6000人程度。言うまでもなく巨大だ。
LAの《Greek Theatre》開場前の客席
機材の準備をしたのちフェイたちのリハを見学。その日、ゲストが登場するらしく段取りの確認をしているところだった。「あれ、もしかしてダニエル・シーザー?」と気がついたのはCoffだった。はたしてダニエル・シーザー本人だった。すごい。
初めてのサウンドチェック。PAさんは現地の人だ。サウンドチェックの進行が日本とは異なっている。アンプは現地でフェンダーのツインリバーブをレンタルした。電圧が日本よりも高いからなのか、音が元気なような気がしてならない。すこし扱いづらい。
そしていよいよ本番。ステージに上がるといまだかつて聞いたことのないような歓声が沸き起こる。なんてサービス精神に溢れたお客さんたちなのだろう。演奏は初日にしてはなかなかどうして悪くなかったのではないかと思う。
皆で祝杯をあげてチルアウトしたのち、客席に移動してフェイのライブを観覧。演奏のスケールがまるで違う。ローミッドに説得力が宿っているように思えた。大観衆を満足させるだけの力強さを感じる。それは単に音量が大きいということではない。輪郭線の太さのようなものがあるのだ。それが具体的に何なのかはわからない。お客さんも沸きに沸いていた。そしてダニエル・シーザーが登場したときの歓声といったらなかった。
宿に戻る道すがら、ダイナーに寄って晩ごはんを食べた。チキン&ワッフルを注文してみる。ふわふわのワッフルの上にフライドチキンが置かれた料理だ。これにバターとメープルシロップをかけて食べるのだ。まさにカロリーの爆弾だ。鋭角な甘じょっぱさがあり、脳がハッピージュースでひたひたになった。
宿に戻って原稿を進めようとしたものの寝落ちしてしまう。
2024年9月26日
《Madonna Inn》
終演後、会場の近くにある本場の《Denny’s》で夕食。手を挙げて店員さんを呼ぼうとしたら、「手を挙げて呼ぶのは失礼だから」とハリーさんから教わる。以後気をつけます。Tボーンステーキを食べた。
宿は《Denny’s》の隣のモーテル。一瞬で入眠。
早朝に目が覚める。お腹が減りすぎて気持ちが悪い。勇気を出して《Denny’s》に一人で入ってみた。手を挙げずに注文を取りに来るまで待機。ハッシュブラウン、ベーコン、卵焼きがついたパンケーキのセットとコーヒーを注文する。アメリカのレストランでは目玉焼きとスクランブルエッグのどちらかを選べるらしい。パンケーキ以外でお腹が膨れてしまったので、パンケーキを半分ぐらい残してしまった。
《Denny’s》の朝食
2024年9月27日
バークレーの《Greek Theatre》のステージ
スマホで撮った客席写真
終演後、会場内のラウンジに関係者みんなで集まって打ち上げ。アメリカ滞在中でもっともワイルドな夜になった。
2024年9月28日
州間高速道路5号線(IH-5)を北上し、カリフォルニア州からオレゴン州に入って少し進んだところにあるメドフォードという街で一泊する。途中でトイレ休憩に下りた森の中のレスト・エリアがまさに『デイズゴーン』さながらの世界だった。『デイズゴーン』はオレゴンを舞台としたゾンビ・アポカリプスもののオープンワールドゲームだ。
まっすぐの道をひたすら車移動
2024年9月29日
ヨーヨー・フェスティヴァルの会場でもらったヨーヨーで遊んでいたら、途中からフェイのバンドのベーシスト、ノアがヨーヨーを持って輪に加わった。さらっと技を披露するのでびっくりする。小学生の頃に覚えたトリック「東京タワー」を披露すると「どうやってやるの」と聞かれる。しかし体で覚えているから言葉で説明できない。こうした手癖のようなものを英語で“muscle memory”というそうだ。
この日のライヴは盛り上げようとするばかりに演奏がおそろかになっていたそうだ。軌道修正して、残りの2本は良いライヴにしようじゃないの。
終演後、ホテルにチェックイン。浜くんと相部屋だったのだが、ベッドがひとつしかない。どういうこと。ホテルの人に聞いてみるとソファを変形させるとベッドになるとのことだった。バネの存在感をダイレクトに感じるあまりにも無骨なソファー・ベッドだ。運転してくれた浜くんにベッドを進んで譲る。ゆっくり休んでほしい。その後、ロビー併設のバーに集合して深夜まで飲む。
2024年9月30日
ポートランドから北上してシアトルを通過し、国境を越えてカナダに入国。この日の会場は、バンクーバーの《The Orpheum Theatre》という古い劇場だ。オープンは1927年とのこと。中に入ると、まさしくオペラが上演されていそうな豪奢な内装の劇場だった。キャパは2518人。 ライヴ前に皆でベトナム料理屋さんに行くと、アジア系の店員さんが日本語で接客してくれた。アクセントには癖がある。話を聞くと青森出身の大学生で、現在バンクーバーに留学中とのことだった。アクセントは津軽弁だったのかよ。まさかバンクーバーで津軽弁を聞くとは。加えて、店を仕切っているのがどう見ても子どもなので、その理由を尋ねてみるとオーナーの娘さんが代理として店に立っているそうだ。忘れがたい楽しいお店。
《Paramount Theatre》でのmei eharaバンド
この日、フェイの提案があり、Coffが彼女のライヴに参加してベース・ソロを披露することになった。本番では、シールドのトラブルなどを屁ともせず、堂々とパフォーマンスをやり遂げていた。ここ数日でinstagramのフォロワーが激増したらしい。
終演後、車を出して食事ができるバーに入ってみたものの、エミネムやリンキン・パークが爆音で流れており、ろくに会話ができなかった。一杯だけ飲んで退散。バンクーバーは路上にジャンキーっぽい人たちがいて結構怖かった。
2024年10月1日
ライヴの最終日。バンクーバーを出発して再度国境を越えてシアトルに向かう。会場入りする前にパイク・プレイス・マーケットで少し観光することになった。中学生のときに市の代表としてシアトル近郊の町に2週間ほどホームステイをしたことがある。そのときにパイク・プレイス・マーケットにも来ているはずなのだが何も記憶がない。 最後の会場はシアトルの《Paramount Theatre》だ。キャパは2822人。バンクーバーの《The Orpheum Theatre》と同じく豪華絢爛な劇場である。オープンは1928年。シアトル最古の劇場らしい。ロック・ファンにはニルヴァーナの『Live at the Paramount』(2011年)で知られる会場だ。十代の頃、部屋にカート・コバーンのポスターを貼り、『病んだ魂』や『Heavier Than Heaven』を愛読していたニルヴァーナ少年だったので感慨も一入である。せっかくなのでサウンドチェックのときに「Lithium」をギターで演奏した。
パンが器になっているクラムチャウダーを食べた。ここの名物らしい。その後、角張さんの希望で車で移動してアンティーク・ショップへ行った。近くにレコード屋さんがあったのでそちらを覗いてみる。《Jive Time》というお店だ。ハース・マルティネス『Hirth From Earth』とJ.J.ケール『Troubadour』が10ドルぐらいで売られていたので買わずにはいられなかった。どちらもすでに持っているレコードだが、せっかくなので。レジに持っていくと店員さんが「良い買い物だね」と言って褒めてくれた。リップサービスだとしても嬉しい。缶バッジもおまけしてくれた。
レコード・ショップ《Jive Time》
後半になってくるとライヴ本番の記憶があやふやだ。本番が終わって外で一服して楽屋に戻ると、ハリーさんのお父さんがかつて働いていたというピザ屋のピザが届いていたので食べた。とっても美味しいピザだった。
終演後、最終日ということでフェイたちの楽屋に招かれて打ち上げをした。高そうなテキーラをいただく。ノア(・ジョンソン)が「アメリカで食べたもので一番美味しかったものは?」と聞くので、一人ずつ回答することになった。チキン&ワッフルと答えた。
翌日の飛行機が早かったので、角張さんが「そろそろ行こうか」と言い出すとフェイとノアが声を揃えて「ノー、ミスターCEO!」と言うのでおかしかった。困った角張さんが突然「ドーンレッミーダーウン」と歌い出したので、楽屋で「Don’t Let Me Down」の大合唱が沸き起こった。思い出すだに涙がこみ上げてくる。美しい記憶。
フェイたちがスマホを差し出して見せてくるので、覗いてみると画面にインスタグラムの検索窓が表示されている。「アカウントを教えて」ということらしい。内向的な人間なので、人様のスマホに自分のアカウントを表示させ、自らフォローボタンを押すことにすこし逡巡を覚えてしまう。けれどもしっかりとフォローボタンを押した。サッカー選手のユニフォーム交換みたいだ。
フェイたちに別れを告げてホテルへ帰る。余ったビールをもらってきたので、皆で部屋に集まって打ち上げの続きをしたのだが、眠気に耐えきれずベッドで寝てしまった。アメリカに来てから生活リズムが反転してすっかり早寝早起きをするようになった。
《Madonna Inn》の敷地内にて、アメリカに馴染んでいる筆者(鳥居真道)
2024年10月2日
帰国の日。シアトル空港からサンフランシスコ空港を経由して成田空港へと帰るという行程になっている。シアトル空港でハリーさんとはお別れとなる。「せっかくずっと一緒に過ごして仲良くなっても毎回一人取り残されるのは寂しいよ。でも、ここ数日日本語を話しすぎて英語が咄嗟に出てこなくなってきたから早く帰ってほしい」と言ってツンデレみたいな態度を取っていたのがおかしかった。
空港のレストランで食事をしたのち、急いでお土産を買った。その後の記憶が曖昧だ。まだまだアメリカで過ごしたいとは思っていた反面、体は疲れ果てていたのだろう。携帯や財布、パスポートをなくさないように常に気を張っていたし、スマホのバッテリーの管理、膀胱の管理にも気を配っていたのだから、疲れるのは当然だ。
2024年10月3日
成田空港に到着。車で《カクバリズム》の事務所に向かう。数日後に《カクバリズム》のイベントがあるので機材を預けて解散。まるで空き巣に入られたかのような散らかった部屋に帰宅。荷解きをする気力が湧かない。ひとまず近所の日高屋に行ってラーメンを食べた。明日から通常営業か。眠気に襲われて21時過ぎに就寝。4時頃に目が覚める。松屋で朝定食を食べた。
2024年10月5日
《カクバリズム 衣食住音 〜AID FOR PALESTINE〜》にmei eharaバンドセットで出演。パレスチナ支援のためのチャリティー・イベントだ。会場は渋谷WWWX。この10日間一蓮托生の関係で過ごしたから皆の顔を見るとなんだか嬉しくなる。
おわりに
思春期の頃から音楽や映画を通じてアメリカ文化に強い影響を受けてこれまで生きてきた人間にとって、今回の経験はあまりにもスケールが大きく理解が追いついていない。まさに《Denny’s》で食べきれなかったモーニングセットのようなボリュームの経験である。だから帰国からひと月近く経った今も咀嚼と反芻を続けている。夢のような10日間だった。
生きていると「ちょっと待ってくれよ。これが俺の人生? 本当に?」という疑問が頭をもたげる夜もある。もっと別の未来があったのではないか、あのときもっとうまくできたのではないか、とついつい考えてしまう。しかし今回の経験により、もうそんなことを考える必要はなくなったと言って差し支えないだろう。いかなる後ろ向きな考え方も「でも音楽の仕事でアメリカに行ったし」という一言には太刀打ちできまい。37歳にしてやっと人生が始まったという実感を抱いている。もうすっかりアメリカに帰るつもりでいるので、目下DMM英会話で英語の勉強中だ。
このような得難い経験のきっかけを作ってくれたmeiちゃんには感謝しても感謝しきれない。さらにはmeiちゃんをアメリカに呼んだフェイにもありがとうと言いたい。フレンドリーに受け入れてくれたフェイのバンド・メンバーたち、大歓声で迎えてくれた現地のお客さんたち、各会場のスタッフさんたち、そして、ハリーさん、角張さん、meiバンドの浜くん、Coff、沼澤くんにも感謝。皆に恥ずかしげもなくBig loveを捧げたい。(文・写真提供/鳥居真道 協力/mei ehara、カクバリズム)
mei ehara《Paramount Theatre》(シアトル)公演
Text By Masamichi Torii