Songs of Father〜“父”が歌になる時
Bartees Strange「Heavy Heart」
「休みなのにまた仕事?」「今日もゴルフ?」「家族旅行中なのに、仕事の電話に出ないでよ……」。幼いころからそんな父の姿をみるたびにわたしは、そんなに働かなくてもよいのに、と冷めた視線を父に送っていた。「重苦しいこころ」と題されたメランコリックなロックンロールで、バーティーズ・ストレンジは軍に勤務し家庭を顧みずに働いていた父の姿にいまの自分を重ね合わせる。淡々と「まるで自分が父親のようだと感じる夜もある/あくせく動き回って」と歌いながら。2020年にリリースしたザ・ナショナルのカヴァーEP「Say Goodbye To Pretty Boy」とファースト・アルバム『Live Forever』にてミュージシャンとしての成功を収めつつも、日々仕事に追いやられ周囲のことを考えることが少なくなったことへの“罪悪感”が、この歌の基底にある。わたしには、あの頃の父のふるまいや生き方を全面的に肯定することも否定することもできないけれど、少しずつあのころの父の年齢に近づき、休日にPCを開き仕事のメールを返信していると、着信音が鳴っている二つ折りの小さな携帯電話をカバンの中から取り出し、背中を丸めながら小走りで遠くのほうに離れていく父の姿を思い出すことがある。(尾野泰幸)
Bill Callahan「Empathy」
男性性や父性の両面性が問われる現代、“父”から継承されるものもまた、祝福にも呪縛にもなりうることが検証されている。シンガーソングライターとして近年ますますストーリーテリングを洗練させているビル・キャラハンはここで、シンプルな弾き語りとともに父についての複雑な想いを吐露していく。生前の父親に告げられたショッキングな言葉を思い出しながら、そして、自分が60歳に近づいて彼に似ていることを認めるのだ……自分も不出来な父親であると。だが同時に、「わたしの娘は美しさを、わたしの息子は共感を生みだす/わたしよりもずっと」と次世代を讃えることで、負の連鎖を断ち切ろうとする。そしてキャラハンは“男性的な”バリトン・ヴォイスで、ゆっくりと父親に慈愛の目を向ける……「父さん、あなたの心がずっと前に壊れていたことを知っているよ」。息子が父を打ち倒すのではなく、赦し、共感するためのフォーク・ソング。そしてこの個人的な歌は、あらゆる父と息子の葛藤を癒すように響くのである。(木津毅)
Ethel Cain「Hard Times」
この曲を聴くと小説『ろくでなしボーン(Bastard Out Of Carolina)』を思い出す。のちにレズビアンであることを公表するドロシー・アリソン自身の幼少期の体験を元に、義父からの凄まじい性的虐待を受けていたことを赤裸々に綴った内容だが、グロテスクなものが多い米南部のゴシック文学の中でもひときわ読むのが辛くなるほど後味が悪い。エセル・ケインもアリソン同様南部出身。厳格なキリスト教の家庭に育ち、父親からの性的虐待を受けて育ったことをこの曲で告白しているが、愛憎入り乱れ、自己嫌悪……いや、父への同情さえ感じさせるリリックからは、かつてのPJハーヴェイの激しい表現以上に多層的で複雑な父への思いが垣間見える。「あなたにうんざりしているのに、疲れすぎてここから去ることもできない」というフレーズのなんと痛々しいことか。エモーショナルでも内省的に過ぎるのでもなく、美しく幻想的で敬虔な教会音楽の要素も多分に含んだサウンドの“行間”に、現在はトランスジェンダー女性として生きるケインのその慟哭をみてとってほしいと願う。米南部は深く、重く、そしてアメリカの闇そのもの。(岡村詩野)
IDLES「Grace」
思い出すのは2025年の1月、アルバム『TANGK』(2024年)を引っ提げて開催された来日公演だ。サポートアクトのおとぼけビ〜バ〜が教えたという“ジジイ”というワードをいたく気に入ったヴォーカルのジョー・タルボットは、嬉しそうに“We are ジジイ!”とシャウトしながらモッシュを煽っていた。この瞬間、アイドルズを単なるウォーキズムの潮流に乗って登場したバンドとして訝しがる面々は過去のものになったと言える。男性性を戯画的に描き、家父長制に中指を突き出すと同時に、彼らは自虐的にも己を見つめて本質のみを取り出そうとしている。『TANGK』の主題を説明した「Grace」の「No god, no king / I said love is the thing」という一文が象徴的だ。神も王もいらない、愛こそが全て。陳腐に聞こえるだろうか? しかし、ジジイが言うとどうだろう。マッチョでありながらマッチョイズムを拒否することは、父と父性の関係性と考える上での必須事項だろう。(風間一慶)
Jim Legxacy「father」
父の姿を最後に見てからもう長い年月が過ぎた。父のいない人生にもすっかり慣れ、その不在を強く意識する瞬間は、いつの間にか少なくなった。ロンドン南東部出身のアーティスト、ジム・レガシーが作る楽曲には亡くなった妹についての歌も多く、この「father」は、父親がいない環境で育ったジムと、似たような境遇で育った女性について歌われている。肉親の消失というのは、決してその存在が美化できることばかりではなかったとしても、“悲しい”や“辛い”というような形容詞では収まりきらない、癒えきらない欠落だと思っていた。しかし、その空洞を他のなにかで埋めようとするほど、人生は苦しくなる。悲しんでばかりいる自分と決別してやっと、本当の意味で、自分の人生が始まった気がするんだ。ジムがこの曲を悲嘆に暮れる歌ではなく、軽やかなポップ・ソングとして鳴らしているのも、どこか腑に落ちる。喪失はいつまでも人生の中心に居座り続けるものではないからだ。だから今は、父の不在ではなく、その人が確かに生きていたことを思う。ジェリー・ガルシアやボブ・マーリー、彼が敬愛していた音楽家たちに囲まれながら、どこか遠い場所で楽しそうに笑っている姿を。(島岡奈央)
Kenny Beats「Parenthesis」
「Parenthesis」は、ケニー・ビーツが膵臓ガンを宣告された父親に捧げたレコード『LOUIE』(2022年)に収録されているインスト曲だ。数々のアーティストが登場しながらも、あくまで個人的な主題に基づいた内省的なビートテープである本作の中で、このトラックが特に印象的なのは、運命付けられているものへ抵抗しようという意思を、確かに感じるからだろう。アルバム中でもとりわけ集中して聞かせるビートの反復は、まるで永久的なこれも時間の流れを創造し、直線上ではなく、一つの円環として時間を解釈しようとしているよう。流れていくものからの緩やかな逃避。つまり、J・ディラ『Donuts』(2006年)、アール・スウェットシャツ『Some Rap Songs』(2018年)、マック・ミラー『Circles』(2020年)の隣にこのアルバムを並べるべき理由を象徴するような、ささやかながら大胆で、美しい楽曲だ。(市川タツキ)
Kurt Vile 「Like a wounded bird trying to fly」
たとえば、電車の座席に座ったときに、対面の父と子がニコニコ楽しそうに過ごしていたりすると、眺めているだけで何か込み上げてくるものがある。今際の際に見たいのは、自分の人生の走馬灯でなく、むしろ安心しきった親子の様子を捉えた映像のコラージュかもしれない。ときに、父という立場を明確にするミュージシャンは決して多くはない。ことロックにおいては、父に見捨てられた息子、あるいは抑圧を受けた息子という立場から歌われる場合が多そうだ。しかしカート・ヴァイルは例外的な存在で、子煩悩な父であることをあけすけにしている。2022年の『(watch my moves)』のジャケットに写っているのはヴァイルの娘二人だ。さらに2023年のEP『Back to Moon Beach』収録の「Must Be Santa」では、娘たちがコーラスとして参加。さらに「Like a wounded bird trying to fly」は、自然の中で遊ぶ子どもたちを眺めながら、ヴァイル本人がギターを爪弾いて歌う様子を描いた歌だ。歌の中で、タイトルの一節はこれは娘のアビルダの唱えたものだと明かされる。ニコニコしている親子を眺めるかのような心持ちでヴァイルの音楽を聴いている。(鳥居真道)
Loyle Carner「Nobody Knows (Ladas Road)」
ロイル・カーナーのサード・アルバム『hugo』は英国で生きる混血の──白人の子供たちには黒すぎるし、黒人にとっては白すぎる──若者が、継父の死と幼い彼の元を去った実父との和解という変化と共に、自らが父になることへの複雑な感情を綴った、極めて内省的かつ重要なアルバムだろう。とりわけ前半は彼の抱えた憎しみが色濃く顔を出す。この曲でもそうだ。「Nobody Knows the Trouble I’ve Seen」のローファイなサンプルが繰り返し鳴るトラックの上で、彼はこう吐露する。「俺は誰なんだ?/だって俺の子供は、もしかするとあの青い目をしている(白人)かもしれないから/そして彼は俺のなかに潜む痛みを理解できないだろう」「自分を憎まずに、どうやって父親を憎めばいい?」。家族の問題と同時に、社会に蔓延した差別、そしてその差別を嫌いながら自ら内面化してしまう矛盾、そうした何重にも入り組んだ現実が綴られていくなかで、自ずと父性とは何なのかが問い直されていく。(高久大輝)
Mei Semones「Kurage」
黄色い長靴に水たまり、青く光るトンネルを抜けた先にぱっと開ける景色。メイ・シモネス「Kurage」は色彩の鮮やかなイメージと場面の切り替わりによって、幼いころの記憶を呼び起こしていく。イルカやクラゲとの記憶は、時間やガラスを隔てて歌われ、やがて父親ドン・シモネスの演奏するユーフォニウムの音色と重なっていく。だが無邪気な思い出だけではない。セカンド・コーラスでは親密さのなかにある距離や、巣立ちの気配まで静かに滲ませる。「ひとりで生きたければ生きるから」。25歳を迎えたメイは、幼少期の記憶から現在の自立、そして父との共演が楽曲のなかでひとつの結び目をつくることで、2人が少しずつかたちを変えていった様子を描く。父と子の関係性がときに呪いにも似た重さを帯びるものだとしても、それを受け入れながらあくまで幸福なひとつの声として父とともに鳴らしている。(髙橋翔哉)
Nas & DJ Premier「GiT Ready」
親子が同じ音楽を好きになって楽しめるというのは美しい話だとは思うが、しかし一方で、親の世代が理解できてしまうような音楽をやったり、聴いたりするつまらなさもあるのではないか。私の記憶違いがあったらご容赦願いたいが、生前のECDがまさにそんなことを書いていた。曰く、アーティストが“友達親子”的な関係の親を自分のライヴに招待して嬉々としているのが理解できないと。この背景に60年代的なカウンター・カルチャーの精神があるのは想像に難くなく、親(の世代)に理解され、認められてしまうことへの拒絶がある。親(の世代)が‟許可”を与えるものに‟時代を変える”ことができるわけがない。いまやそんな“反抗”こそが前時代的とされ、どこもかしこも殺伐とした世の中では、いかに‟仲良く”するか、世代をこえて連帯するかの方が時代への‟反抗”なのかもしれない。とはいえ、個人的な経験からすれば、‟父親”とはそう一筋縄でいく存在ではない。なぜナズ & DJプレミア「GiT Ready」か。それはこの曲を聴いて、同じくDJプレミアが30年以上前にプロデュースしたジェルー・ザ・ダマジャ「Come Clean」と父とのエピソードを思い出したから。ある日、高校生の私が「Come Clean」をノリノリでかけていると、1948年生まれの父(まさに団塊の世代だ)が部屋に怒鳴り込んできて、「こんなもんは音楽じゃない!」と喝破、まあまあ激しい口論になってしまったのだ。父はポップ・ソングの定型から逸脱したヒップホップを、音楽あらざる異端として嫌悪した。だが、その異端性にこそ私は得も言われぬ興奮をおぼえていたのだ。円熟したラップ・ソング「GiT Ready」と、あのとき拒絶反応を示した「Come Clean」をいま聴いたら、父は何を思うのだろうか。(二木信)
折坂悠太「ハチス」
先日話題になった吉本ばななのnote。私にとって衝撃的だったのは、主題である姉母との赤裸々な愛憎ではなく、ばなな氏が息子への思いを書いた部分だ。“我愛す故に我あり”と言い切るような全能的な愛。平凡ながらも山あり谷ありの子育ての中で、自分が父親であるということは“役割”であると思うに至った私は、やはり冷たいのだろうか、と。そんな私にとって、折坂悠太「ハチス」の「きみのいる世界を“好き”ってぼくは思っているよ」というフックは、一つの理想を描いている。同じ空の下に生きる大切な誰かを自分の世界に囲い込まず、彼らの他者性を尊重すること。その中で彼らが生きのびるための手伝いを一生懸命していくことは、決して矛盾するものではないのだ。その過程や結果を私は“役割”と呼び、誰かは“愛”と呼ぶのだろう。だが、どれだけ役割を全うしようとも、ひとり分の力しかない私には、彼らの未来から理不尽な暴力を消し去れない。“全ての子どもを守ること”はすべての大人に課せられた役割だ。戦争反対。(ドリーミー刑事)
Qrion「Sounds Good」
ピアノのリフで始まるこの曲は、レッスンから父とのステージでの演奏まで、Qrionにとって特別であるピアノの思い出が詰まったものだ。Qrionの父はピアニストで、音楽に興味を持ったきっかけであり、最大のインスピレーションの源だという。デビュー・アルバム『I Hope It Lasts Forever』(2021年)も、古い記憶、特に父と過ごした時間とそのときの気持ち、制作当時の自身とが繋がった作品だった。父に形作られた人生観があることや、メロディックなピアノは父の影響であることなど、かつてのインタヴューから父の存在の大きさが窺える。こうしたことは聴くだけではわからず、しかし知っていても知らなくても楽曲に息づく父の姿を聴いている。そこにあるのは父と子というだけではない、ピアノを真ん中に置いた関係だろう。冒頭のピアノのフレーズはそのままエレクトロニックな音色に軽やかに引き継がれ、メロディックに展開していく。(佐藤遥)
RYKEYDADDYDIRTY「ALL GODS BLESS ME」
突然父を亡くして20年が経とうとしている。父性とは、その理想形とは一体何か。社会の仕組み、人々や動植物との交流を見つめつつ、自問自答し続けているが、答えは出ない。ただ、自分の中に父性による支配がなく、時として欠如として捉えられる事実だけが明白だ。ラッパーのRYKEYは、離婚し妻子と離れることになったあと、一時的にRYKEYDADDYDIRTYと改名した。破天荒な言動、繰り返される逮捕と服役の中、自身に“汚れた父(DADDYDIRTY)”という名を刻んだのは、現状を自覚し、ラップに向き合う時だけは真っ向勝負したいという不退転の覚悟の表れではないか。「神様がいるのならわがままを言わせて 僕が不幸にしたまたあの子 幸せにしてほしいのもあの子」というリリックも、刑務所内で自身と向き合い続けた結果のむき出しの父性がなければ出てこない。遠ざかり続ける父と過ごした記憶と、このリリックが交錯するたびに、私はその疎ましくも勝手で、何故か少しだけ暖かい感触を、不思議に思う。ただ、リアルを生きているのはお互い変わらない。(ぽっぷ)
St. Vincent「Daddy’s Home」
個人的な感覚にはなるが、特に女性の場合、異性親である父親とは必ずしも腹を割って話せるほどの関係にない場合も少なくないと思う。仲が悪いわけではないが双方むず痒く、父の日のプレゼントなんて母親を介さないと渡せないような……。ちなみに筆者の家がそうである。さておき、セイント・ヴィンセントの「Daddy’s Home」は、金融詐欺で服役していたアニー・クラーク自身の父親の出所をもとにした作品で、このタイトル曲は彼女が父に面会する場面を描写したもの。冒頭では、成功してイタリア製の高価な靴を履いているアニーが、囚人服に身を包みながらも余り変わらない父親に対面した際の微妙な空気感を捉えているのが秀逸だ。極端に遅回しにしたラグタイムのようなアットホームなピアノの伴奏に加え、歪んだオルガンと妖しげな多重コーラスには何故か“奇妙な家族愛”の象徴であるアダムス・ファミリーを思ったり……。服役中の父とその娘という特殊さ以上に、ぎこちない関係間でも絆がないわけではない、けれども微妙さを孕んだ、ありがちな家族像を提示していることを個人的には嬉しく感じるのだった。(井草七海)
