【未来は懐かしい】
Vol.56
貴重なレア曲集から改めて聴こえてくる、「女性シンガー・ソングライター」金延幸子の音楽の魅力と、その先駆性
金延幸子のファースト・アルバム『み空』(1972年)は、1990年代前半に渋谷系世代から「発見」されて以来、長い時間のうちに度重なる再評価に浴してきた。近年では、米《Light in the Attic》からのアナログ・リイシュー(2019年)や、ヴィム・ヴェンダース監督映画『PERFECT DAYS』(2023年)で同作収録の「青い魚」が使用されたことなども手伝い、国外のファンからの注目度もより一層高まっている。盟友・久保田麻琴のプロデュース、幾何学模様の元メンバーや伊藤大地、スティーヴ・ガンらの参加を得て、1998年のソロ・アルバム『Fork In The Road』のリニューアル盤が発売されたのも記憶に新しいところだ。
今や『み空』は、かつての「カルト・スタンダード」的な評価をとうに超えて、日本のフォーク〜フォーク・ロックを代表する歴史的傑作として多くのリスナーから厚く支持される存在となった。透明感溢れる凜乎とした歌声が、彼女自身の弾くアコースティック・ギターを中心とした簡素なバッキングとともに美しいハーモニーを形作っていく様は、控えめに言って、あまりにもタイムレスな魅力に溢れている。その内容は、様々な文脈や背景を超え、一枚のシンガー・ソングライター作品として孤高の存在感を放ち続けてもいる。
だがしかし、そうした盤石の評価が確定した今だからこそ、あえて立ち返って考えてみたいこともある。おそらくはそうすることによって、金延幸子という稀有な才能をより深く理解し、ひいては『み空』の魅力もより一層輝きを増してくるだろう。この度再登場した『時にまかせて -金延幸子レア・トラックス +2-』こそは、そのための最良のテキストとなる作品集だ。はじめに説明しておくと、上で「再登場」と述べた通り、このアルバムに収められた音源は、1998年の東芝EMI盤をはじめとして、URC音源の発売権の移行に伴って過去にも繰り返しリリースされてきたものだ。今回のソニー盤には、過去のタイトルとの差別化を図るために、2曲のよりレアなボーナス・トラックが収めており、まさに決定版と評するに相応しい内容となっている。
中身について触れる前に、まずは、『み空』に至るまでの彼女の活動を、荒野政寿による本作のライナーノーツや『URCレコード読本』(2020年 シンコーミュージック・エンタテイメント)掲載のインタヴュー等を参照しながら、簡単に紹介しておこう。
1948年、大阪の音楽好きの一家に生まれた金延幸子は、子供の頃からクラシックやシャンソン、ポップスの名曲に親しんでいた。後にはビートルズとの出会いをきっかけに、彼らをはじめとするブリティッシュ・ビート系のアーティストを好んで聴くようになったという。高校時代には、関西大学のフォーク・クラブに顔を出すようになり、後に赤い鳥の一員としてデビューすることになる後藤悦治郎らからギターを習った。高校時代の友人・内田千鶴子と共にツインズというデュオを結成し演奏を開始すると、後には関西フォーク・キャンプへも参加し、フォーク・キャンパーズのメンバーとして活動した。また、この頃「ボロ・ディラン」として知られる真崎義博がツインズに加わり、メディテーションというグループ名で活動を行った。
短命に終わったメディテーションの後、五つの赤い風船のリーダー、西岡たかしを中心とする匿名バンド、秘密結社〇〇教団に加わり、1969年10月、《URC》よりシングル「あくまのお話/アリス」をリリースする。その後西岡を除いた四人=金延、中川イサト、瀬尾一三、松田幸一は「愚」という名で活動を続け、1970年2月、同じく《URC》からシングル「あかりが消えたら/マリアンヌ」を発表する。しかし、《URC》の母体である高石事務所の東京移転に伴い、惜しくもこのバンドも解散してしまう。
一人上京した金延は、黒テント公演の前座を務めるようになり、そこではっぴいえんどの面々と出会う。そして、大滝詠一のプロデュースの元、ビクターの《SF》レーベルよりソロ名義のシングル「時にまかせて/ほしのでんせつ」(1971年7月)をリリースした。しかしながら、A面曲「時にまかせて」におけるガール・ポップ風の編曲などに納得の行かなかった彼女は、続く初ソロ・アルバムのプロデュースを細野晴臣に依頼する。細野は、弾き語りを中心とした簡素なサウンド・プロダクションを彼女に勧め、実際にその通りのシンプルな編成で作業が進められた。そうして完成間近を迎えた『み空』だが、金延は、日本にやってきていた音楽評論家のポール・ウィリアムスと恋に落ち、アルバムの発売を待たずに颯爽とアメリカへ渡ってしまったのだった。
上記の経歴からも分かる通り、彼女は当初、いわゆる「関西フォーク」シーンの中から頭角を現してきた新興のシンガーであった。五つの赤い風船やザ・フォーク・クルセダーズらの周辺で活動していた彼女は、本作収録の上述各グループによる録音を聴けばすぐに分かる通り、例えば森山良子や小林啓子など、同時代の東京で活躍していたカレッジ・フォーク系の女性フォーク・シンガーのスタイルと比べてみても、その歌声や歌唱法、そしてハーモニー感覚の部分からすでに相当に先進的であった。かといって、五つの赤い風船のシンガーである藤原秀子や、同時代の「アングラ」を象徴する浅川マキのスタイルとも当然違っているし、どちらかといえば、吉田美奈子や大貫妙子等、後に花開く都会的なニュー・ミュージックの系譜の始祖に位置する存在として捉える方が適当に思える。要するに彼女は、1970年前後のムードからすると、相当程度時代を先取りした鋭敏な音楽センスの持ち主だったのだ。
こうした志向には、クラシックやポップス、それにイギリスのビート・バンドに心酔していた若い頃の体験が大きく関係しているだろうし、あるいは、高校時代に作曲をはじめた当初、イギリスのフォーク・ミュージシャンであるドノヴァンが大きなインスピレーション源になっていたというエピーソードも、同様の印象を補強してくれる。
「関西フォーク」というと、何よりもまずアメリカのフォーク・リバイバル以後の動きに触発された「アングラ」かつ「政治的」なムーヴメントとして語られがちであるが、一部の人達にとっては、実のところ、ロックやジャズ等との邂逅を経て洗練を重ねていた同時代のブリティッシュ・フォーク系の音楽も重要な参照元となっていたのだ。「愚」は、まさにそうした傾向を象徴するグループであり、1969年〜1970年という極めて早い段階にそうしたサウンドを志向し、実際に演奏していたという重要な事実は、強調してもしすぎることはないだろう。本作に収録されている「愚」による「ほしのでんせつ」のペンタングル風の演奏を聴けば、彼らおよびそのメンバーである金延が、当時のフォーク〜フォーク・ロック・シーンの中にあっていかに先端的な存在であったかがわかるはずだ。
金延の音楽に関して、もはや定型句のように語られてきた「ジョニ・ミッチェルを彷彿させる」という評についても、こうした文脈から今一度その起源を辿り直すことができる。
金延は、高橋健太郎によるTURN掲載のインタヴューで、「東京に来て、恵比寿で暮らしていた時に『Blue』(引用者注:ジョニ・ミッチェルの1971年作)を聴きました。『Blue』はよく聴いてましたね」
とも述べており、その影響関係は少なからず事実だと思われる。しかし、同インタヴューの前段部分や上述の『URCレコード読本』収録のインタヴューによると、金延がジョニ・ミッチェルの存在を知ったのは、秘密結社〇〇教団に参加していた時期に、西岡たかしから彼女のレコードを勧められたのがきっかけだったという(実際に聴いてみて、その不思議なメロディー感覚に惹かれたらしい)。そもそも西岡自身が、そのエピソードの前からジョニと金延の表現に重なり合う部分を見出していたというから、当時の五つの赤い風船周辺のミュージシャンの感度の高さに改めて感心させられる他はないし、金延の演奏が、初期の段階から自覚的に「ジョニ・ミッチェルに寄せよう」としてああした表現へ至ったわけではなく、むしろ、かなりの程度自らの素質に由来していたという興味深い事実も浮かび上がってくる。とすると、ジョニ・ミッチェルと金延幸子という二人の才能あふれる同時代人が、様々な曲折と少しの偶然を経て相似した表現へたどり着いたと考えることもできなくないわけで、何やらある種のシンクロニシティすら感じてしまいもする。
本作『時にまかせて -金延幸子レア・トラックス +2-』には、これまで述べてきたような音楽的な要素の他にも、金延(および彼女の所属グループ)の存在が、当時のフォーク〜フォーク・ロック・シーンの中でいかに「異端」なものであったかを伝える貴重な音声がいくつか含まれている。中でも特に印象的なのが、1970年4月に文京公会堂で行われた《ロック反乱祭》に「愚」が出演した際、ボサ・ノヴァ風に編曲した「あかりが消えても」を披露した後に、司会のおちゆうじ(はしだのりひことシューベルツ)と交わしている会話だ。
おちは、そのやり取りの中で、本来のロックとは(自分が先程ステージで歌った)エルヴィス・プレスリーの歌のようなものであって、生ギターを中心としたボサ・ノヴァ調の愚のパフォーマンスが果たしてロックと呼びうるのかを、慇懃無礼な様子で問い正している。英米に限らず同時代の日本でもフォークやロックを元にした多様な表現を生まれていたこと、及び、後の「シンガー・ソングライター」の時代においてそうした表現が百花繚乱に咲き誇ることを知っている私達後年のリスナーの観点からすると、あまりに凝り固まった狭量な意見のように感じられるが、逆に言えばこのくだりは、当時のロックにまつわる「常識」と照らして、愚の音楽性がいかにそこから逸脱していたものであったかを残酷なまでにハッキリ説明している歴史的な資料であるともいえるだろう。
1971年8月に開催された《第3回全日本フォーク・ジャンボリー》に金延がソロ出演した際の録音では、ことによるともっと強烈な「無理解」の例を聴くことができる。「ほしのでんせつ」を披露する直前、観客席から「女だー!」と茶化すような声が上がっているのが確認できるだろう。白けたような笑い声に包まれる中、続いて掛けられる「がんばってね」という言葉にも、「女性のシンガー・ソングライター」という存在へ好奇の眼差しを投げかけ、なにかとその存在を軽く見ようとする当時の(男性の)フォーク・ファンの姿が映し出されているように感じられる。こうした反応を投げかけた者たちが、後にリリースされた『み空』を聴いて何を思ったのかも興味あるところだが、同作が発売後から長い間一種の「忘れられた作品」として広く日の目を見ることがなかったことを思えば、その答えは推して知るべきものなのかもしれない。
私は、かつて金延にインタヴューする機会を得た際、当時のフォーク・シーンで一人の女性のシンガー・ソングライターとして活動しながらどんな気持ちを抱いていたか訊いたことがある。彼女の発言を引用しよう。
「“絶対にレコードを作るぞ”と意気込んでいたけど、当時のフォークって男性優位の世界だったでしょ。そのうえ、プロテスト・ソングが優先されてなかなか私には順番が回ってこなかった。でも、はっぴいえんどが出てきて空気が変わったのを覚えています。私も彼らの音楽が大好きになって、一緒にやりたいと思った。結局、アルバムの発表前に恋に落ちて、アメリカに旅立っちゃうんですけど(笑)」
(『bounce』2023年12月号 「金延幸子が生まれ変わった『Fork in the Road』のすべてを明かす 「私にとって偶然の縁というのは、すごく大切なもの」)
1970年前後という、あらゆるサブカルチャーが熱を帯びながら新たな局面へと足を踏み入れつつあった只中で、金延幸子という一人のシンガー・ソングライターは、あまりにも軽やかな「個」であり、それゆえ同時に、芸術家としての彼女のありようそのものが時代への予告的な投げかけとなる、大変に稀有な存在だったのだと思う。そして、その投げかけは今に至るまで効果を減じていないどころか、都度新鮮なものとして蘇ってやまない。時代は常に彼女の背中を追いかけ続けてきたし、たぶん、これから先もそうだろう。(柴崎祐二)
2023年の来日時に動画取材に応じてくれた金延幸子
Text By Yuji Shibasaki