余暇と才気がもたらした、“誤読”の火種
心理学者・小此木啓吾が、社会に出ることを先送りしながら自分探しを続ける若者を“モラトリアム人間”と名づけたのは1978年のこと。社会が豊かになる中で、“大人になれない若者”の増加が時代の現象として語られた。
それから約半世紀。スチャダラパーが「ヒマの過ごし方」を発表してから30年が過ぎた現在、その状況は逆転した。浪人生は減り、生活費を補うためのアルバイトは増え、大学生は早い段階から就職活動を始めなければならない。現代の若者は、むしろ早く大人になることを求められているのである。
それはつまり、筆者のような彼らの親世代によって築かれた社会が、若者が生産性と無関係でいられる時間を奪ってしまったとも言えるわけで、いやまったく面目ない……という気持ちになったりもする。まあこっちも氷河期世代なんだけど。いずれにせよ、モラトリアムとは、かつてよりはるかに希少であり、勇気のいる時間の過ごし方となったことは間違いないだろう。
《NEWFOLK》からデビューした現役大学生4人組、座布団忍者のファーストアルバム『Still, You Dance』を聴いたときに襲ってきたのは、むせかえるほどに濃厚なモラトリアム感だった。そう書くと、いい歳したオッサンが「今どきの若者はまったく気楽で……」と嘆いているように思われるかもしれない。だが、モラトリアムとは、このタイトな社会においては、勇気を出して選び取らなくてはならない時間である。そして、手厚い失業保険が“暇な若者”という存在を担保することで、数々の音楽的イノベーションを爆発させてきたのがイギリスのポップ・ミュージック史だとするならば、我が国におけるそれは“学生時代というシェルター”だった。はっぴいえんど、フリッパーズ・ギター、サニーデイ・サービス、くるり、そして台風クラブ……。ニッポンのポップ・ミュージック、とりわけバンド・サウンドを更新してきた名作の多くは、モラトリアムという肥沃な土壌からしか生まれ得なかったと言ってもいいだろう。そして座布団忍者はその偉大な系譜の末裔なのである。
その文脈における最も象徴的な楽曲が、アルバムの6曲目に配された「誰かが見た幻」だ。
イントロはサニーデイ・サービス『若者たち』(1995年)収録の「素敵じゃないか」の、そして小気味いいギター・リフは、ネオアコの金字塔であるアズテック・カメラ「Oblivious」の本歌取りだろう。ちなみにこのリフは、レーベルの先輩である台風クラブも「ついのすみか」で引用していた。これをかつてのフリッパーズ・ギター以降に確立された渋谷系のサンプリング・カルチャーの踏襲と見ることもできるが、彼らの引用の動機は、90年代のそれとは異なっているようにも思う。かつての渋谷系が、自分たちから遠い世界のカルチャーを拝借することによる異化効果や教養のアピールを重視していたのに対し、座布団忍者の引用は、日本に生まれ育った2026年の大学生という出自と文脈を誠実に表現するためのもののように感じられる。続く「ロボット」の下敷きはシュガーベイブの名曲「DOWN TOWN」と思われるが、そこに取り入れられた意匠は、山下達郎が歌うオリジナルではなく、林哲司と清水信之が編曲を手がけたEPOによるカバーのそれである。なぜならば、とそこにあえて意味付けするならば、2026年8月現在、ストリーミング・サービスを通じて配信されているのはEPO版だけだからではないだろうか。この参照元の選択に、現在の若者にとっての音楽と邂逅する現場が、かつてのレコード・ショップからSpotifyの検索窓へ移行していることを表す批評性が埋め込まれていると深読みするのは、買い被りがすぎるだろうか(念のため書いておくけど、彼らがオリジナル版を聴いていない、と言いたいわけではない)。
モラトリアム人間の特権である「無限の時間×無限の体力・想像力」のかけ算がもたらす射程は、決して日本地図の中に留まらない。
畳の部屋で夕陽と朝日を混濁させる、時間感覚を失った不真面目な学生の日常に潜むサイケデリアを炸裂させた「summertime」。あるいは、背広を着た社会人をいつかの自分として視界の端に入れて青春期の終わりを予感する「雑踏の中で」。これらは今も昔も変わらない大学生の叙情詩だ。
しかしその一方で、彼らの妄想力は、こうした狭いワンルームでの日常を世界地図へと接続させてしまう。両曲で取り入れられたロックステディやリー・ペリー直系のドープなダブを通じたジャマイカへの旅路は、“なんで日本で大麻は解禁されないんですか?”と真顔で問いかけてくるような、醒めた狂気を孕んでいる。この恐れを知らない知的な態度は、かつて京都の大学生バンドだった頃の本日休演の血脈を感じさせずにはいられない。大いなる余暇と才気がもたらした、大いなる“誤読”の火種がここにある。
そして、彼らの冒険はカリブ海周辺に留まらない。「Mr.Dの逆襲」をはじめ、アルバムの随所にはクンビアやチーチャといった南米のグルーヴを彷彿とさせるフレーズが顔を出す。こうしたエキゾチックなグルーヴを日本語ポップスに衝突させる手つきは、同じ大学出身のCHO CO PA CO CHO CO QUIN QUINや、トリプルファイヤーにも通じる。ここにも、脈々と受け継がれてきた伝統――京大吉田寮と並ぶモラトリアムの牙城である、早稲田インディの伝統を見てしまうのもやむを得ないことだろう。しかしここで特筆すべきは、彼らの和物フォーク的な音像が“日本の大学生”というドメスティックな視点を手放していないところにある。だからこそ、その多国籍なアプローチは文化的コロニアリズムに陥ることがなく、むしろ英米の音楽を誤読することで生まれた独自のポップ・ミュージックを鳴らす「周縁の表現者」としての、シンパシーすら示しているのだ。
と、ここまでいささか大仰に、本作が備えている世代性や批評性に着目してきた。が、実際のアルバムの手触りは、むしろ拍子抜けするくらいに人懐っこく、ナイーブですらある。野蛮な平成を生きてきた者による大雑把な区分けという誹りを免れないかもしれないが、ここにある繊細な質感は、近年のインディー・シーンを賑わすkurayamisakaやTrooper Salute、あるいはタデクイといったバンドたちが描く現代の若者たちのリアリティとの共振が感じられる。
そこで最も心に残るのは、ベースの野﨑千鶴が作詞を手がけた「待合室」や「快速電車」で描かれる、賑やかな街に溶け入ることのできないささやかな孤独だ。社会に最適化し、角を削りとられてしまう前の魂の形状は、世界中のアーカイブを参照しても見つからない、一つひとつが特別なものだ。その美しい歪みに敵うものは、世界のどこにも存在しないのである。(ドリーミー刑事)

