共同体を希求する、まぶしく、まっすぐな意志
“フリッパーズは好きだけど、フリッパーズみたいなバンドには興味がない”。“フィッシュマンズの影響を受けた〜という惹句は疑ってかかる”。そんな心に茨を持った中年にとって、“ネオネオアコ”なるコピーを標榜する20代の新鋭バンド・Nagakumoは、当然のこととして最大限に警戒しなければならない相手である。
しかし、そんな化石のような眼差しを吹き飛ばすように、彼らのビートは月の裏まで滑走し、メロディは日の当たる大通りで手を広げている。そこには、かつて“ネオアコ”あるいは“インディー”という言葉に深く刻まれていた、反抗や拒絶の影を感じることがない。あるいは、ベン・ワットやザ・スミスを聴いた曽我部恵一が感じたという“俺の気持ちを分かってたまるか”という孤独な叫びも聞こえてこない。
彼らのデビューアルバム『NGKM』で輝くのは、メロディで他者とつながり、ビートでともに空気を揺らそうとする、共同体を希求するまっすぐな意志だ。その眩しさを私は畏れ、同時に興味深く思う。君たちは何を愛し(あるいは憎み)、何を成そうとしているのか、と。
彼らの参照先である、かつての渋谷系(特にその前期)における引用と編集は、“果たしてお前は俺たちと同じ言葉が話せるか?”と問いかける踏み絵として機能した。そして“元ネタ”となるレコード棚は、自らの領域を守る城壁でもあった。同じ嗜好を持つ仲間とつながる手段であると同時に、自分の美意識と居場所を守るための盾だったのだ。
しかし、そんな渋谷系原理主義から遠く離れ、われわれ世代には禁じ手のようにも思える、フリッパーズとMy Little Loverを等価に同居させるかのようなポップネスを炸裂させるNagakumo。彼らにとって、引用は拒絶のための壁ではなく、他者とつながるための扉として機能する。
パワー・チューン揃いのアルバムの中でも、ひときわグルーヴィーな生命力を放つ「贅沢な週末を」を聴くと、初期コーネリアスを彷彿とさせるアシッド・ジャズ風のリズムの上で、オリジナル・ラブ、ピチカート・ファイヴ、カヒミ・カリィへのオマージュが飛び交う。だが、洒脱なテンションコードをかき鳴らすギターや、フックだらけの華やかなリズムは、どこまでも開放的で笑顔を絶やすことがない。“元ネタ”など知っていようがいまいが関係ないし、イデオロギーはいったん忘れよう。ここに集い、歌い、踊ること。大切なのはそれだけだと言わんばかりの、屈託のないエネルギーに満ちている。
果たしてこれは、単なる若さゆえの楽観主義、あるいは現実逃避なのだろうか。そうなのかもしれない、と化石としての私は思う。しかし「贅沢な週末を」の、心地よく踊るには速すぎるBPM、忙しないギター・ストローク、そしてパーティーの裏側に潜む労働の繁忙と来週より先が見えない未来がちらつく歌詞を聴くにつれ、ここにあるのは2026年におけるパーティーが抱える切迫感なのではないかと思えてくる。それはまるで、90年代の華やかな東京へ繰り出すために待ち合わせたレストランが、潰れてなくなっていたと歌った、ピチカート・ファイヴ「東京は夜の七時」とも呼応する、現実と享楽が隣り合わせになった感覚だ。コロナ禍に青春期を奪われ、戦争やAIの波が未来を揺さぶる社会へ漕ぎ出した世代のNagakumoにとって、目の前の刹那を輝かせなければならないという切実さは、氷河期を生きてきた私たちより切実なのかもしれない。こうした社会や時代への憂いを背景に柔らかく滲ませながら、どこまでも軽快で衒いのないポップスを鳴らすその姿勢は、同じく渋谷系やシティポップをルーツに持ちながら、都市生活者の日常を描く生活の設計などにも共通する、現世代のリアリティでもある。権威、マジョリティへの疑念と反抗こそがサブカルチャーの基本だと信じてきた私たちの世代がつくった、あるいは変えられなかったこの平坦な戦場。開かれたメロディとリズムは、彼らがここで生き延びていくための術(すべ)なのかもしれない。
「悠久の星」、「コートを着て」などを筆頭に、全編にわたる楽曲の完成度の高さ、幅の広さからは、ソングライターのオオニシレイジのポップス職人的な才能が光る。偏愛と普遍をブレンドする手際の良さは、(後期)渋谷系を出自として職業作家としても活躍する西寺郷太、沖井礼二、北川勝利といった面々、あるいは筒美京平とコラボレーションした小沢健二作品にも通じるプロフェッショナリズムが感じられる。これもまた、狭義のインディー精神の枠には収まらないものだろう。
しかし、タイパや即効性が何よりも重視される時代において、彼らはDTMでもヒップホップでもなく、“バンド”という極めて手間のかかる形態をあえて選んだ。『NGKM』というモダンなタイトルとアートワークからは、バンドありきではない、彼らの同時代的な感性が伺える。それにもかかわらず、重い楽器をスタジオに運び、互いの音を聴き合い、肉体を同期させる。その面倒で愛おしいプロセスそのものが、画面越しに分断された現代に対するささやかな抵抗のようにも思えてくるのだ。コモノサヤのボーカルの魅力を引き出すことはもちろんのこと、ホウダソウ(ドラム)、オオムラテッペイ(ベース)の卓越したプレイの聴かせどころをたっぷり準備しているのも、単なる音楽的動機である以上に、バンドという共同体に対する深い信頼感のあらわれではないだろうか。
デヴィッド・バーンが唱える“愛と思いやりこそが現代のパンクだ”という言葉を、実践しているのは、彼らなのかもしれない。(ドリーミー刑事)

