『リコリス・ピザ』を解く
Vol.2
70年代LAを舞台にした『不思議の国のアリス』的なムード
デヴィッド・ボウイの歌声がスクリーンに漂うとき、その登場人物たちはみな決まって走りだすか踊りだすかして、抑え込んでいた感情を解き放とうとする。それは、レオス・カラックス監督の『Mauvais Sang(汚れた血)』(1986年)における「Modern Love」を引き金に疾走する青年であったり、あるいはベルナルド・ベルトルッチ監督の『Io e te(孤独な天使たち)』(2012年)で「Space Oddity」(イタリア語版で歌詞の内容もオリジナルとは異なる)をバックに、衝動的で瑞々しくも美しいダンスを画面いっぱいに見せつける異母姉弟であったりする。
ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)監督の最新作では、1971年発表のアルバム『Hunky Dory』に収録され、その後シングル・カットもされた「Life On Mars?(火星の生活)」が一場面にあてがわれており、例に洩れず主役の青年は走り出しこそするのだが、その音楽の華々しさとは不揃いに思える足どりは、スクリーンを見つめるわたしたちからも背を向けて、あてどなく漂流するのみである。
三大映画祭すべてで監督賞を受賞するなど、華々しいキャリアを築いてきた才気溢れる映画作家の新作『Licorice Pizza』は、本国アメリカでの一般公開から半年以上を経た7月1日にようやくここ日本でも封切られた。これはアジア圏のみならず、全世界で最も遅い公開日を現在記録しており、待ち望んでいたファンにとっては、国内市場のガラパゴス化に歯がゆい思いを抱かざるを得ない状況が続いていた。それでも、夏のロサンゼルスを舞台としたこの作品の封切りを(それとは程遠い蒸し暑さではあるとしても)夏の日差しとともに記憶できることを、ひとまず前向きに捉えてみようと思う。
そうして映画が始まり、物語の主役を務める男女が順番に姿を現す。かつて監督作品の常連俳優であったフィリップ・シーモア・ホフマンの息子、新人クーパー・ホフマン演じるゲイリーが、ロック・バンド、ハイム三姉妹の末っ子であるアラナ演じる同名の年上ヒロインに一目惚れをし、すれ違いざまに話しかけてはみるのだが、答えるはずの女性の声は一向に返ってこない。しばらくしてカメラがゆっくり回り込むと、そこに無言ではあるが立ち止まっている彼女の姿を確認でき、二人の出会いがかろうじて成立していたことに観客は安堵する。このささやかなサスペンス性さえ帯びた印象深い出会いのシーンに、その後も展開される二人の付かず離れずの関係が予見されるのである。
瑞々しい演技を見せる主演二人を支えるのは、ショーン・ペンやハリエット・サンソム・ハリス、そしてブラッドリー・クーパーといったベテラン勢であり、彼らは二人をたぶらかすべく次々と現れては、煙に巻くように去っていく。かわりばんこに登場する”怪人”たちの掴みどころのなさと憎めなさ、そして彼らに翻弄されながらも関係性を深めていく主人公たちといった構図からは、70年代LAを舞台にした『不思議の国のアリス』的なムードさえ漂っている。
そうして次々と現れるチェシャ猫やハンプティ・ダンプティたちに振り回されながらも、ついに二人がはじめての抱擁をまだ日の沈まぬ路上で成就させるとき、ガラス越しの男女に淡く溶け合う夏の光と、行き交う車の走行音だけが波音のように往来する穏やかな時間を、観客は静かに見守ることになる。
劇中には監督自らが選曲した60〜70年代のヒット・ソングがふんだんに挿入され、シーンごと絶え間なく彩ってはいるが、中でもドアーズの「Peace Frog」が流れる一場面、演奏が長調から短調に移り変わり“She came and then she drove away”と歌われる一節に合わせて、アラナと子どもたちが路地をすれ違う様をとらえた、映画的としか言い様のない瞬間を決して見逃してはならない。
主演女優以外にも、ハイムのメンバーである姉たちがそのまま家族役で登場しているが、バンドのステージ上でも一際感情的なパフォーマンスを見せるアラナならではの、電話越しの相手に合わせて自在に操る声色や、同級生とみられる同僚の男を拒絶する際の強い一声には思わずはっとさせられる。
そして撮影当時弱冠17歳のクーパー・ホフマンに、誰もが亡き父親の面影を認めることになる、彼が煙草を吸おうとするのを止めに入るアラナを片手で制する一瞬の仕草に、父親の特権的な魅力であった、あのふてぶてしくも色気のある所作が見事に受け継がれていることに、ファンならば深い感動を覚えるだろう。
監督が生まれ育った1970年代のサンフェルナンド・バレーを、記憶や当時の新聞記事をたよりに忠実に再現したという本作には、当時そこにあった事実として、特定の人種や性的指向に対する差別や偏見、また性的搾取といった問題も描写されている。しかし映画は、それらを平易な悪役として描くのでも、また決まりきった台詞で誰かに咎めさせるでもなく、そこで板挟みに遭うものたちが強いられる息苦しさを観客に共有させることで、現在のわたしたちが今なお抱えている問題と地続きであることをごく自然に意識させる。映画の終盤、社会的状況を理由にパートナーから拒絶され打ちひしがれる同性愛者の前に、おぼろげに浮かび上がる先の見えない長い階段は、現在のわたしたちの目前にそびえ立っているそれと同じであることを、観客は自ずと気づかされるのである。
それでも、すれ違いを続けてきた二人がやがて互いの孤独を見つめ直し、ついに心からの再会を果たすとき、彼らを祝福するように包みこむ白い光に、ささやかな希望を見つけることくらいはできるのかもしれない。(佐藤優介)
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http://turntokyo.com/features/licorice-pizza-1-murao-yasuo/
Text By Yusuke Sato
『リコリス・ピザ』
7月1日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー
脚本・監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:アラナ・ハイム、クーパー・ホフマン、ショーン・ペン、トム・ウェイツ、ブラッドリー・クーパー、ベニー・サフディ
配給:ビターズ・エンド、パルコ ユニバーサル映画
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