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「何もないところからバンドを作り上げ、
音楽でやっていけるかも……と思えるまで10年間はかかった」
スコット・デヴェンドーフ、ブレイク前夜のザ・ナショナル初期を振り返る

26 February 2021 | By Shino Okamura

コロナで誰もが動きの鈍っていた2020年、最も暗躍していたのはもしかするとザ・ナショナルのメンバーかもしれない。ブッカー・T・ジョーンズをプロデューサーに迎えたソロ・アルバム『Serpentine Prison』をリリースしたマット・バーニンガー、テイラー・スウィフトの2枚のアルバム『folklore』『evermore』を筆頭に数多くの作品をプロデューサーとして手がけたアーロン・デスナーと、同じくアレンジ/プロデュース仕事で多忙を極めつつ自作の劇伴仕事などもこなしたブライス・デスナー、そしてアルバムは年明けの今年1月に発売となったがLNZNDRF(ランゼンドーフ)としての制作とリリースにも尽力したスコットとブライアンによるデヴェンドーフ兄弟……。ツアーやライヴで人前に出ることこそなかったが、ボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノン、スフィアン・スティーヴンス、ジョシュ・カウフマン、トーマス・バートレット……といった周辺の仲間ミュージシャンたちと力を貸し合いながら陰日なたとなり誰かのため、自分たちのために活動していた足跡は、2020年の輝かしい財産だったと言っていい。

さて、そんなザ・ナショナルの初期2枚の作品『The National』(2001年)、『Sad Songs For Dirty Lovers』(2003年)が《4AD》から再発された(『Sad Songs For Dirty Lovers』の日本盤にのみ2004年の『Cherry Tree』EPがボーナス・ディスクとして追加されている)。2作品ともデスナー兄弟らを中心とした自主レーベル《Brassland》から発売されていたもので、《Beggars Banquet》《4AD》へと活動の場を広げブレイクする“前夜”にあたる言わば黎明期のアルバムだ。そこでスコット・デヴェンドーフに結成時を振り返ってもらい、2作品の制作エピソードなどを訊いた。「バンドの定義なんて気にせず無邪気に好きな音楽を鳴らしていただけ」。それでも結果、のちのザ・ナショナルにしっかり地続きとなっていく作品になっているばかりか、柔軟で引き出しの多い作品になっていたという事実。その理由がよくわかる貴重なインタビューだ。
(インタビュー・文/岡村詩野)

Interview with Scott Devendorf

──もう今から1年前の話になりますが、去年のコロナによるパンデミック以降の話を聞かせてください。ザ・ナショナルとしてはツアーもキャンセルになり、来日公演も中止になってしまいましたが、あなた自身は去年春のロックダウン中はどこでどのように過ごしていたのでしょうか? 

Scott Devendorf(以下、S):去年は全くツアーができなくて僕たちも非常に悲しかった。メンバーはみんな自宅にいて他のプロジェクトを進めたりして、辛い現状と上手く向き合うようにしていた。まるで、すっぱいレモンでレモネードを作るような気持ちでね(笑)。2020年はバンドのライヴ映像をストリーミングしたり、グッズを販売したりして、去年仕事がなくなってしまったスタッフたちのために資金を調達できるようにした。バンドのメンバーたちは他のプロジェクトのレコーディングをしたりして忙しくするようにしていたよ。

ロックダウンの時はバンド・メンバーのほとんどはアメリカにいて、フランスに住んでいるメンバーも何人かいたけど、フランスにいたアーロン(・デスナー)はロックダウンの直前にアメリカに戻ってきた。それ以来ずっとアメリカにいる。ロックダウンの時には各自の自宅に戻れていたから良かったよ。誰も見知らぬ土地で帰れなくなったという状況にはならなかった。幸運なことに僕たちはツアー中ではなかったからね。他のバンドの話を聞くと、ツアー中にロックダウンがその国で起きて、急遽ツアーを中止して帰国しなければいけなかった人たちもいたみたいだよ。

──ただ、あなたがたはバンドのライヴ映像のアーカイヴを販売したり、ライヴ・アルバムを配信販売したりとファンやリスナー、スタッフに還元していましたね。

S:ああ、去年は大変な年になると分かっていたから、バンドが所有するたくさんのアーカイヴ映像や過去のライヴ映像を活用しようと思ったんだ。ザ・ナショナルのスタッフはみんな親しい人たちばかりでファミリーのように感じている。10年以上僕たちと一緒に仕事をしてきている人たちも多い。そういう昔からいるレギュラー・スタッフは10人くらいだから、バンドが持つ資産を活用してなるべく彼らに還元できるようにしたんだ。去年はうまくできたと思うから、今年は何ができるのかまた考えていかなくちゃいけない。他に考えていたアイデアとしては、僕たちが持っているもので、価値になりそうなものをオークションするということ。もう使っていない楽器や機材など。ファンにとってはそういうのをゲットしたい人がいるかもしれないからね。

──あなた自身はLNZNDRF(ランゼンドーフ)での制作とリリースはもちろんのこと、マットのソロ・アルバムに参加したり、テイラー・スウィフトの『evermore』に参加したりしていますね。

S:そう、僕とブライアンは1月にLNZNDRFでアルバム『II』を出した。2019年、ザ・ナショナルのUSツアーがヒューストンで終了した後に、テキサスのオースティンまで行って4〜5日間をスタジオで過ごしてね。そのうちの4日間は即興の演奏ばかりやっていて、みんながその場で思いつく色々なアイデアを投げていくというセッションだったんだ。あらかじめ考えてきたアイデアを持ち込むというのではなく、その場で色々やってみようというやり方だった。友人であるベラ・バスコーと、スタジオのグラントという人がエンジニアリングを担当してくれて、そのセッションの音源を全て捉えてくれた。で、2019年10月から2020年の春か夏にかけて、メンバーのベン・ランツがその音源を編集して、とても長い音源だったものを曲という形にしてまとめていった。LNZNDRFの制作方法は、即興をしてから曲に編集していくというスタイルなんだ。ベンが編集したものを聴いて、意見交換しながらみんなで仕上げて行き、作品が完成したってわけ。去年の10月にLPとしてリリースする予定だったんだけれど、2つに分けて2020年の9月にEPを出して、1月にLPを出したんだ。EPもLPも38分くらいで同じような尺なんだけど(笑)、EPはアンビエント色が強くて、LPは歌があって……まあ半分くらいがインストルメンタルではあるんだけどね。

マットのソロについては、2019年の6月に彼からレコーディングをしに来てくれないかと頼まれたんだ。その前に、彼から音源を送ってくれと頼まれていたから音源をたくさん送っていたんだ。古いものや新しいものを色々と送ったら、マットは一つのアイデアを取り上げて、手を加えて、「こういう風にしたんだけど、どうかな?」と僕に送り返してきた。僕も気に入ったから一緒にその曲を作ることになった。その後にマットはロサンゼルスのレコーディング・スタジオを数日間借りて、僕たちはそこでレコーディングした。マットは非常に効率的に制作を進めていて、いつ、誰がスタジオに入って、何をやるのかというのをはっきりと決めていた。ザ・ナショナルの場合だとレコーディング・セッションは長時間に及ぶんだけどね。でもマットのソロ・プロジェクトは2週間という期間でレコーディングを済ませたかったみたいだ。とにかく僕は2〜3日ロサンゼルスへ行って、マットと作曲した曲を一緒にレコーディングして、マットが作っていた他の2曲に参加した。リラックスした雰囲気でとても楽しかったよ。

──では、テイラーの一連のアルバムにはどのような流れで参加したのですか? 

S:アルバム制作中にはテイラーには会わなかったんだ。でもその何年か前に(アメリカのテレビ番組)『Saturday Night Live』にザ・ナショナルとして出演した時に、テイラーも番組に遊びにきていたからその時に会ったよ。それから2019年の夏にブルックリンで行われたザ・ナショナルのライヴにも来てくれた。ステージ横からテイラーが見ていて、僕は途中で気づいたから驚いたよ。その後にテイラーがアーロンに連絡を取り、アルバムを作るという話になったけれど、自主隔離中の期間だったからこの企画についてはあまり公にされなかった。制作過程もとても抽象的で、お互いに会うことはないまま制作が進んだんだ。僕と弟(ブライアン)は一度スタジオに入って曲の制作を進めて、ベースやキーボードなど様々な音楽のパーツを録音した。僕は家でも録音をしたりして、いろいろなパーツが時間をかけて統合されて一つの作品になっていった。通常のレコーディング・セッションとは違うやり方だったね。

──さて、今回はザ・ナショナルのファースト、セカンドを含めた初期の話を改めて聞かせてほしいと思っています。ザ・ナショナルはそもそもあなたとマットがシンシナティ大学を卒業し、ニューヨークに移ってから結成されています。アーロンとブライスとの出会いも含めて、どのようにしてバンドとしてまとまっていくようになったのでしょうか? バンド結成前夜の話を改めて詳しく聞かせてください。

S:僕たちはみんなシンシナティで育った。僕と弟は一緒に育ち、高校ではバンド活動をしたりして一緒に音楽をやっていたよ。弟はザ・ナショナルが結成される前にアーロンとブライスと高校時代に出会い、彼らはいくつかバンドを一緒にやっていた。ジャム・バンドやフォーク・ロックなど色々なスタイルのバンドをシンシナティでやっていたんだ。担当している楽器はみんな今とほぼ同じで、アーロンはベース、ブライスはギター、ブライアンはドラムだった。僕とブライアンの高校時代のバンドでは僕がギターでブライアンはドラムだったな。マットは当時バンドに入っていなかったけど、大学時代の初期に、僕たちのバンドのどれかのライヴを見にきた。僕はマットと大学で友達になったんだけど、それは音楽を通してではなく、専攻していたグラフィック・デザインとアートだったんだ。そういうわけで、マットと僕は大学時代を5年間ともに過ごしたけど、ブライアンはオハイオ州北部にある別の大学に行っていた。そして、90年代中旬から後半にはみんなニューヨークに住むようになったんだ。理由はそれぞれあった。マットと僕は大学を卒業して、グラフィック・デザインの仕事に就くためにニューヨークに移った。ブライアンはコピーライターとしてニューヨークで働いていたけれど他にも色々やっていて、ブライアンと、アーロンとブライスはフォーク・ロックのバンドをやっていたよ。そこにはニューオーリンズ出身の女性もメンバーにいた。結構うまく行っていたみたいで、ツアーをしたり、アルバムも3枚くらいリリースしていたんだよ。

で、僕とマットはしばらく音楽活動をやっていなかったんだけど、1998年くらいに「仕事の後に集まって音楽を一緒にやって楽しもう」ということになった。アーロン、ブライアン、マット、僕とその他の友人何人かで、とにかく楽器を弾いて録音して遊んでいたよ。僕たちは当時大きなロフト・スペースをシェアしていたからそういうことができたんだ。その頃はストロークスのようなバンドがニューヨークからたくさん出てきていて、彼らは僕たちよりもずっと上手だったけれど(笑)、2000年代初期にはインターポールなども出てきて、そういう動きが周りでじわじわ起こっていた。そこで僕たちも曲を作っていこうということになった。他のバンドとリハーサル・スペースをシェアしたりしてね。でも僕たちは人気があるわけでも成功したわけでもなかったから、別に他のバンドと一緒に練習するわけではなくて、僕たちは自分たちのことを独自にやっていたんだ。でもそれが楽しかった。それでずっと続けていたんだ。

そしてグラスルーツ的なツアーもやることができたし、2000年代の初めの頃には大掛かりじゃないけどアメリカ国内のツアーをしていたし、奇跡的にブライスの知り合いがフランスでレーベル(《Talitres Records》)を運営している人を知っていたから、その人が『Cherry Tree』EPを出してくれるってことになった。《Brassland》より前の話だよ。そしてそのおかげでフランスでもツアーをすることができたんだ。すごく楽しかった。フランスのフェスティバルや地方のお祭りや小さなバーなどでライヴをして1年を過ごした。そういうサイクルを色々な場所で、何年も……2000年から2005年くらいまで続けていたよ。まだ仕事も続けていたからね。そして2005年に『Alligator』を出して……今に至ってるって感じ。でも最初の2、3枚のアルバムは僕たちがバンドになろうとしている過程のようなもので、他のバンドみたいに聴こえる時もあるんだ。僕たちが好きなバンドみたいに聴こえる時もあるし、90年代や2000年代のバンドみたいに聴こえる時もあると思う。でも初期のアルバムを作るのは楽しかったし、まだザ・ナショナルの一貫性のあるサウンドではないけれど、バンドの発達期の作品として誇りに思っているよ。

──ザ・ナショナルはアルバム制作前にライヴを重ねていった叩き上げのライヴ・バンドではなく、スタジオでの作業や曲つくりが最初はメインだった印象もあります。

S:ライヴはやっていたんだ。でも、大掛かりなツアーをする前に2枚のアルバムを作っていたのは確かだね。ファースト・アルバムが出来た時に、ツアーを試みたことはあったんだ。でもその時は、友達同士で休暇を取るみたいなイメージで、1週間仕事を休んで、お金を少しでも稼げればいいな、くらいの気持ちでやっていた。実際にはお金は全然稼げなくて、損失の方が大きかった。でも楽しめたし、色々な場所に行って曲を演奏することができた。だから少しはツアーをしていたのだけど、それはただ、僕たちが高校時代からバンド活動をやってきて、バンドというものはツアーをして人前で演奏するのだという固定概念があったからだと思う。とはいえ、人前に出ないプロジェクトとしてザ・ナショナルを捉えていたわけでは全くないよ。

──ファースト・アルバムではまだブライスはゲスト参加という扱いで、あなたがギターとコーラスを担当していますね。最初にブライスが参加していなかったのはなぜなのでしょう?

S:僕はブライスを正式メンバーだと昔から思っていたけれど、ファースト・アルバムの時は地理的な理由で正式メンバーではなかったのだと思う。当時彼は学校を卒業するところだったか、卒業してパリに住んでいたかのどちらかだった。彼は音楽学校の大学院に行っていて、プロフェッショナルなミュージシャンという意味で、音楽の専門性に関しては僕たちの中で最も高い資質を持っている。彼のことは尊敬しているよ。尤も、アーロンとブライスはとても仲が良くて、ずっと音楽活動をともにしてきている。だから、ザ・ナショナルが始まった時、たまたまブライスはパリに住んでいてギターを教えていたから、単なる地理的な理由でそうなっただけだったと思う。実際、僕たちの友人でエンジニア/プロデューサーのニック・ロイドが、ファースト・アルバムの制作を手伝ってくれたんだけど、その時にブライスをスタジオに呼んで、ギターで参加してもらうことにした。で、ブライスにもその後のライヴに参加するように説得したんだ。そういうわけで、ブライス経由でフランスとのコネクションができて、フランスのレーベル(《Talitres Records》)からをリリースすることができたってわけ。

──ファースト・アルバムはアメリカのルーツ・ミュージックと英国的ニューウェイヴとをミックスさせたような内容ですが、当時、プロデューサーのニック・ロイドとともにどういうヴィジョンのアルバムにしようとしていたのでしょうか?

S:確かに僕たちはペイヴメントやシルヴァー・ジューズなどにはまっていて、アメリカのカントリー・ミュージックやアメリカーナとオルタナティヴが組み合わさったようなスタイルが好きだった。それからジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダーといったイギリスのニュー・ウェイヴっぽい音楽も好きだった。当時はそういう要素を色々試してみて、混ぜ合わせたという感じ。それから、アルバムの制作を手伝ってくれたマイク・ブルアーやジェフ・セイラムといった友達たちの影響もあると思う。僕たちは何のリスクも背負っていなかったから、特に決まったヴィジョンもなく、自分たちが知っているものや好きなものを加えて、バンドとして曲を作ってみようという感じだった。だから、楽しい、アイデアの坩堝みたいな作品だと捉えている。サウンドに一貫性もなかったし、特定のスタイルがあったわけでもなかった。「僕たちのバンドはこういうサウンドでなければならない」と決意をして、そのバンドを定義付けるようなアルバムを作るというバンドではなかったからね。でも勘違いしないで欲しいのは、僕はすごくファースト・アルバムを気に入っているんだよ。振り返ってみて、あの時は、特に決まったヴィジョンやプランなどなく、とにかく一緒に曲を作って楽しもうという姿勢でアルバムを作っていたのだと思うと面白いよね。

──そのファーストには「29 Years」という曲が収録されています。のちに『Boxer』(2007年)に収録される「Slow Show」でこの曲の歌詞の一部がそのまま引用されますが、そういう意味でもこの曲はある意味初期のザ・ナショナルを象徴するような1曲とも言えます。ファーストには他にもシンボリックな曲が多いと感じますが、今、このアルバムを改めて聴いてみて、どういう作品だとあなたは位置付けますか?

S:当時僕たちはザ・ナショナルを定義付けるようなアルバムを作ろうなんて思っていなかったから(笑)、バンドの形成期を表していると思う。色々なアイデアを試してみて、みんなが気に入ったものを作り込んでいく。毎回そうやってアルバムを作っているわけじゃないし、アルバムの作り方を決めて制作しているわけでもないんだけどね。ただ僕たちは20年活動してきて、どのようにアルバムを作れば良いのかということはたくさん学んだ。そのやり方にもそれぞれの好みがあったりする。でも毎回、ある程度の自由度というのがあって、ファースト・アルバムには特にそれが強く出ていると思う。気取った感じも全くないし、わざとらしい感じがあるとすれば、僕たちが敬愛していて、今でも敬愛する、ペイヴメントやシルヴァー・ジューズみたいなサウンドにしようという意気込みからだった。特に使命みたいなものを感じて作品作りをしていたわけではないからね(笑)。

確かにファースト・アルバムには後の作品とに関連性があるものはいくつかあるね。「29 Years」は歌詞が同じだけど、他では、ファースト・アルバムの曲で歌われているのと同じ心情が、後の作品の曲でも歌われていたりする。悲しみや、メランコリーや、ユーモアなど。ザ・ナショナルはシリアスで絶望的なバンドだと思われがちだけど、バンド内では僕たちは楽しい人たちだと思っている。同じようなことで笑うし、ダークな状況の中でも笑えることを見つけられる。ファースト・アルバムはスタイル的には多様だけれど、その後の僕たちの進化のテンプレートという役割を担っていたと思う。

──アルバムのアートワークはプールで泳ぐブライアンですね。そもそもなぜブライアンがフロントに起用されたのでしょうか?

S:あれね、なんでだったんだろう?(笑) あの時は15人くらいで一軒家を借りて夏を過ごしたんだ。ロングアイランドのハンプトン・ベイという、高級エリアではないハンプトン(笑)のところに家を借りようということになって、そこで音楽制作をしていた。アルバムのアートワークは、僕たちの友人のマリーシオ・キャリーがそこで撮った写真で、僕たちの当時のライフスタイルを象徴する一枚だったのだと思う。カジュアルで、無頓着だけど、ブライアンはサングラスをかけていて格好良い感じがする。でも別にモデルになった写真というわけじゃない。あの時の僕たちがやっていたこと、感じていたこと、体現していたことを象徴していたから使ったんだと思う。アルバム・カヴァーのためにデザインされたものではなく、ブライアンがプールにいるという、僕たちが気に入っている写真を使っただけなんだよ。

一方でアルバムの裏のアートワークになっているのは庭の写真なんだけど、それはマットが撮ったもの。その時の日常を切り取っただけというものだけど、構成も良かったし、平然とした雰囲気もあったから使ったんだ。ちなみに、セカンドのジャケットは実は僕の妻の写真なんだ。理由は「別にいいんじゃない」という感じで特に何も気にしていない雰囲気だったよ(笑)。初期の作品は実験的でとにかく楽しかった。何もないゼロのところからバンドを作り上げていくという経験から、「音楽でやっていけるのかもしれない」と思うようになるまでは10年間くらいかかったけどね。

──セカンドはよりカントリー色が強まった一方で、今のザ・ナショナルにも繋がるおおらかでダイナミック、かつメロウでメランコリックな曲が多い作品です。

S:アルバムのサウンドに一貫性は感じられるかもしれないね。セカンドの方が悲劇的な感じが多く込められていると思う。そう、あれは9・11が起きた頃。「Never Happened」という曲は、9・11の全体的な絶望感を歌った曲なんだ。あの時、焼けた書類の切れ端が空から降ってきていたよ。9・11のあの日、まさに僕たちはニューヨークにいてすごく衝撃を受けた。それ以外にもマットが失恋を乗り越えようとしたりしていて、困難のあった時期だったね。だからハッピーなアルバムとは言えないんだ(笑)。でもだからこそリスナーの心の琴線に触れるものがあると思う。ライヴでは演奏しないような奇妙な曲もあるし……。ロック・ソングは2曲くらいあるかな。「Murder Me Rachael」は結構激しいし、「Available」は意地悪で激しい。残りはカントリー・ソングというかメロウな曲ばかりだね。「Sugar Wife」と「Trophy Wife」は少しポップ調で……まあ、とにかく変なアルバムだと思う。

ザ・ナショナルとしての一貫性があるとすれば、アルバムを1つ作り終えたところで「次のアルバムを作ってみよう!」ということになり、ニックにレコーディングや演奏を手伝ってもらったりした点だと思う。セカンドも色々なことを試しているアルバムだけど、歌詞の内容はファーストよりも悲しみや怒りが表現されていて、それは当時の状況が原因だっと思う。そしてツアーの経験もある程度あったから「僕たちはこういう感じをもっと出していけるんだ」と思って、ファーストのような無垢な感じよりも、少しだけ方向性というものを意識していたのではないかと思う。 それでもまだバンドとしての道を探っている感じだった。カントリー調の曲が悲しみという心情とマッチしていたし、それを表現することによって悲しみと向き合い、理解することができたのだと思う。

──その後は「Fake Empire」のようにオバマ経由のブレイク曲も生まれ、アメリカを代表するバンドへと成長していきますが、《Brassland》から出たこの最初の2作品で得たもの、今のザ・ナショナルに繋がるものはどういうところにあると言えますか?

S:この2作は計画されたものでもないし、ヴィジョンがあったわけでもない。僕たちが楽しんでいる音楽への反応や、僕たちの周りで起きている出来事への反応として作曲していた。2作を作ったことで学んだことはあったし、そのおかげでバンドとして進む道が見えてきたよ。ザ・ナショナルには、それぞれの音楽に対する理解や背景や能力を融合させて、一緒に音楽を作っていこうという姿勢があって、それは今も昔も変わらない。ブライスはクラシック音楽の訓練を受けたプロのギタリストで、アーロンと一緒に音楽をやって育った。僕とブライアンも一緒に音楽をやって育った。マットと僕は大学で一緒にバンドをやっていて、いつも一緒にコンサートに行くような熱狂的な音楽ファンだった。そういうそれぞれの経験を持ち寄ってザ・ナショナルというバンドに活かしていく。昔から「こういう音楽が好きだから、これを僕たちもやってみて楽しもうよ」というスタンスだったんだけど、あの2作品はそのスタンスのテンプレートを確立したと思うし、それ以降、何をすべきかや、何をすべきではないか、ということの理解が深まったと思う。

ただ、最初の2作でザ・ナショナルは、カントリー調のロック/オルタナ/アメリカーナのバンドと言われてきたけれど、僕たちはアメリカーナとは言われたくなかった。もちろん、アメリカーナのバンドが大好きだったからそういう曲を作っていたし、まあ、そう言われても仕方ないんだ。あえてアメリカーナを避けていなかったから。でも、僕らはザ・ナショナルをカントリー/アメリカーナ・バンドだと思われないようなブレイクスルーが欲しかった。だから『Alligator』では、バンドとしてのサウンドを明確にして、一緒に作曲をする時間を増やして、スタジオでももっと一緒に作業して、自分たちが今まで培った知識に磨きをかけて行こうということになった。僕たちは、制作の度に新しいことを学ぶから、次のアルバムにはそれを活かそうとする。「これがザ・ナショナルだ」みたいな姿勢ではないから、アルバムごとに違ったサウンドになっていくんだ。

もちろん、今の時点ではザ・ナショナルというバンドの音のテンプレート的なものは確かに存在すると思う。それでも、僕らは毎回今までとは違ったことをしようとしている。『Sleep Well Beast』(2017年)や『I Am Easy To Find』(2019年)を制作した時も最初はチャレンジばかりだった。みんな色々なアイデアを持ち寄って制作をするから、最終的に何ができるのかは分からない。アルバム制作って色々な要素を積み上げて山を作るような感じがいつもするよ。僕たちが得意なことや好きなことは既にわかっているんだけど、同じことをするのは面白くないから、毎回が新しい冒険になるように制作をしているんだ。ただ、僕たちが今までやってきたことには、色々なことを試したり、新しいことを発見したりしていくという、ある種の持続性が常にある。それに各メンバーの個性もあるから、マットがどういうキャラクターなのか、バンドがどういう演奏をするのかというのはあまり変わらないんだ。バンド内のダイナミクスも変わらないものがある。でも色々試してみることはやめない。色々なことを何度もやることによって、学びがあり、何を変えていきたいかや、どういう新しいことをしたいのかが分かっていくのだと思う。実験を試していくのは楽しい過程だよ。

──今、もし最新のライヴのセットリストに改めてこれら初期の曲を加えるとしたらどの曲を選びますか? 

S:良い質問だね。実は最近のライヴではこの2作品からの曲を演奏しているんだ。僕たちもこの曲たちが恋しくなってね。一時期は新曲ばかりを演奏したい気分だったけど、フェスティバルや単独公演など色々なライヴの機会があるから、ライヴ・セットも多様なものにしたいと思って、初期の作品を振り返っているところなんだよ。初期の曲を忘れたくないっていうのもある(笑)。最近のライヴで演奏したのは、ファーストでは「American Mary」と「Son」、セカンドでは「Available」「Murder Me Rachel」「Lucky You」を演奏したね。僕たちは曲をたくさん作ってきたから、初期の曲は演奏の仕方を忘れてしまう時もある。それが理由で昔の曲を演奏する時もあるよ。「Thirsty」はロサンゼルスで9月11日に演奏したんだ。悲しいけれど9・11がテーマの曲だったから。テーマがそのライヴに合っているものだったりすると曲を演奏する理由になるね。

『Boxer』(2007年)を通しで演奏するというライヴを過去にやって、それと同じことを『High Violet』(2010年)でも作品のアニバーサリーに合わせてやろうという企画があったのだけど、結局全てのツアーや公演が中止になってしまったからできなかった。まだ今後やるかもしれないけどね。昔の曲を演奏するとしたら、そういう「昔の曲たち」というテーマを決めてライヴをやるのが良いかもしれない。20年前にやったことを再びやるのは難しいこともあるからね。当時のマインドに戻って、当時やりたかった曲のサウンドにして、かつ曲を現代風に聴かせられるようにするにはどうしたらいいかなどを考えてしまうし……。いつかはやりたいと思うけれど、それに適したタイミングと会場が必要なんだろうな。

──さて、ザ・ナショナルとしての活動は今年どのようなプランがあるのでしょうか? レコーディングなどの予定も含めて聞かせてください。

S:2021年には一応ライヴが予定されているんだけど、5月や6月に予定されているものは、もう2ヶ月先だし実現する可能性は低いね。ヨーロッパ公演も予定されているけれど、アメリカからヨーロッパに渡航可能にならないといけないし、それも難しいと思う。だから予定されている公演ができるとは期待していないけれど、今後の状況次第だね。その他の活動としては、もちろんレコーディングをしたいと思っている。お互いにアイデアを送ったり、次のアルバムでできるような新しいコンセプトを紹介したりして活動を進めたい。僕たちはそれぞれ別のプロジェクトでも活動をしてきたから、そろそろザ・ナショナルとして一緒に次のアルバムを作る時期だと思うんだ。一緒に集まるのに適した時期ではないんだけどね(笑)。

でも、リモートで作業してお互いに音源を送るのは可能だから、そういう方法で作業を進めていくことになるかな。みんなお互いと会って一緒に作業したいと思っているから、年の後半辺り、ワクチンが普及したら、実際に会ってセッションができれば良いと思う。昔のようにみんなが近所に住んでいるわけではないから、責任を持って行動して、移動したり会う時期を決めたりしないといけない。やりたいことのアイデアはたくさんあるんだけど、ライヴ・パフォーマンスは少なくとも2021年の秋まではできないと思うから、しばらくの間は新曲の作曲に取り組んで、今できることをやっていくことにするよ。

<了>

Text By Shino Okamura

Photo By Graham MacIndoe


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