この仮初の幸福は錯覚か現実か
私は、今ほとんど運動をしていない。だからランナーズハイの感覚がもう分からない。調べてみた。ランナーズハイとは、走る(又は継続的な)運動をした後にやってくる短時間の幸福感のことだという。
ここ数年、コロナ禍の運動不足解消とかで、ジムに通う人が増えた気がする。都内であれば駅の近くのジムに通う人の姿をよく見かけた。運動をした後はといえば、顔を洗ったり、シャワーを浴びたりするだろう。汗を洗い流したいからとか、そういう理由で。
もしかしたら運動後のハイの幸福感って、水に触れる爽快感で延長されるんじゃないか、とふと思う。錯覚かもしれないが、『Steppin’ Out』を聴いていても同じことを思った。1曲目の「Runner’s High」の幸福感は、このアルバムの中の幾つかの水のイメージによって引き伸ばされ、40分の幸福な時間になる。
「Runner’s High」のイントロのシンバルには、足元の“水溜り”で水滴が跳ねるような躍動感があり、堀込高樹のソウルフルな歌声によって、身体に纏わりつく“朝靄”は〈祝福されているような気分〉に変換される。気分を高揚させてくれる「nestling」のベースのリフは、“青く濡れた頬”の涙の慰めのように感じさえするし、「I ♡ 歌舞伎町」の物憂げなメロディは、ファンファーレを通過して、“雨”に向かって夢を唄う旋律へと変わる。不穏な電子音で始まる「不恰好な星座」の死と喪失は、ファルセットのコーラスと共に天からあたたかな“雨”となって降り注ぐ。梅雨の季節である6月末に配信された「Rainy Runway」のビートは、降り続く“雨”の中を軽い足取りで歩くために背中を押す。
堀込高樹本人いわく、『Steppin’ Out』は「聴いてくれた人の気持ちが上向きになるように」制作したという。たしかに、普段厄介に思う雨さえもポジティブなイメージへと変換され、疾走感のあるこの音楽を聴いていると気分が上がってくる。
しかし、やがて雨が上がるように、水溜りも汗も涙も乾くように、このアルバムは40分で終わってしまう。ハイの幸福感とそれを引き伸ばす水の爽快感は、まるで蒸発するように目の前から消える運命にある。
ハイの幸福感というのは、カンフル剤のようなものじゃないだろうか。あっという間にその効果は切れ、現実に引き戻された瞬間の幸福と現実のギャップは、そのギャップが大きければ大きいほど、精神に負担を強いてくると、私はよく心配になったりする。
けれど、本作はそんな懸念も承知して、引き受けるようでもある。開発によって切り倒される街路樹と廃業した喫茶店。人と人との間で起きる論破。歌舞伎町のトー横キッズとプレデター。これらの風景が、このアルバムに含まれていることに気づくと、尚更である。ただ単に、ランニングをしているのではなく、街の風景をとらえながら走る人の姿が思い浮かぶ。現実を見つめる本作を、今の日本の社会にある音楽として聴くことができた。アガった気分は、音が止まった後の現実へ自然と移行されていく感覚がある。
そして幾分かの希望的観測は、聴き手をシリアスにさせ過ぎない。特に“素敵な予感”をはじめ“予感”という言葉が度々用いられることが、そうさせる。どう考えたって、素敵なことがすぐに起こる社会じゃないんだからと思えばこそ、予感にしか過ぎないというこの皮肉に似たユーモアには説得力がある。
アップル・ミュージックで堀込が「ランナーズハイなんて一度も感じたことないんですけどね(笑)」と話していた。これくらい肩の力を抜かないと、気分なんて上がっていかない気がしてくる。このアルバムは(私のようなほぼ運動していない人間にも)運動した気にさせる錯覚であり、40分の仮初のハイであり、けれど現実的で、ユーモアでもって楽観的にもさせてくれるのだ。(加藤孔紀)
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