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Loraine James: Building Something Beautiful For Me

2022 / Plancha
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ロレイン・ジェイムズ/ジュリアス・イーストマンのダブル・イメージ

21 November 2022 | By Suimoku

11月2日に《CIRCUS TOKYO》で見た、ロレイン・ジェイムズの素晴らしいDJを反芻しながらこの文章を書いている。執拗にトラックをリピートさせ、卓上のパッドを叩き込むロレイン。ミニマルなシンセ・フレーズが繰り返されるなか、“インダストリアル”とまで感じられるグリッチ・ノイズがそれを切り裂き、キックが鋭くスピーカーを揺らす。階段まですし詰めのフロアで揉まれながら、この北ロンドン出身のプロデューサーの音楽の肝は穏やかでシンプルなテクスチャーと、それを裏切るようにポリリズミック/変拍子的に痙攣するリズムの二重性にあるのではないだろうか……と考えていた。それはエイフェックス・ツインことリチャード・D・ジェイムズが『Selected Ambient Works 85-92』で提示した夢遊病的なイメージとどこか繋がっているようにも思えるが、ロレインにおいてリズムはドリル、フットワークなどを経由しながらより大胆に定型を外れ、テクスチャーを挑発している。

思えばそんな構造は、今年8月に発表された楽曲「Maybe If(Stay On It)」にも表われていた。上モノだけを取り出せば、そこには柔らかなモジュラー・シンセとマントラのようなヴォーカルが交じり合う、アリス・コルトレーンの『キルタン~トゥリヤ・シングス』などを思わせる茫洋とした世界がある。だが、その下部では鋭いキックとハイハット、グリッチ・ノイズが叩きこまれ、上モノを小刻みに揺り動かしているのだ。それらは両極端の要素のようにも思えるのだが、分裂すれすれになりながらも一つの塊として運動している。それぞれのトラックが異なる軌道上を進行するなかで、楽曲全体のかたちが描き出されていく。

そんな「Maybe If(Stay On It)」から約1か月後、同曲を含む『Building Something Beautiful For Me』がリリースされた。解説によれば、このアルバムはジュリアス・イーストマンという音楽家へのオマージュだという。

アフロ・アメリカンでゲイの音楽家であるジュリアス・イーストマンは40年にニューヨークに生まれ、管弦楽アンサンブルの一員としてジョン・ケージなどの作品を扱ったのち、70~80年代にアーサー・ラッセルらとともにニューヨークのシーンで活動した。だが、彼が発表した「Gay Guerrilla」「Crazy Ni**er」といった自らのアイデンティティを強く主張する作品は評価されず、1990年にほぼホームレスのような状態で没したという。その再評価が始まったのは、まさにそうしたマイノリティの表現が積極的に見直された00年代に入ってからで、生前に残した譜面の調査や再演が相次いだほか、TVドラマ『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』(2020年)でもその楽曲が用いられた(*1)。それが先述したロレインの曲に括弧付けで表記されていた「Stay On It」(73年)で、ミニマル・ミュージックとポピュラー音楽を結び付けたこの作品には、スフィアン・スティーヴンスを先駆けたような斬新な響きがある。この曲は彼の代表作として愛され、プロからアマチュアまで繰り返し取り上げられている。

*1 選曲はデヴ・ハインズ(ブラッド・オレンジ)によるもの

『Building Something Beautiful For Me』も、大きく見ればこうした再評価の流れのなかに位置づけられることができる。イギリスの音楽レーベル《Phantom Limb》とイーストマンの遺族の協力のもと、彼の作品を扱ったプロジェクトは進められた。ロレインはレーベルからこのプロジェクトをもちかけられた時点ではイーストマンのことを知らなかったというが、同じくクィアのアフリカ系ミュージシャンとしてかつて黒人の現代音楽家がいたことに驚くとともに、その“歴史から消された“音楽家のエネルギー溢れる作品に惹きつけられていったという。

……とはいうものの実際に聴いてみると、ジュリアス・イーストマンの作品と『Building Something Beautiful For Me』にはそれほど直接的な類似があるわけではない。たとえば用いられている楽器もまったく異なり、イーストマンにおいてストリングスとピアノ、パーカッションから構成されていたものは、ロレインにおいてはリズムマシンとモジュラー・シンセに変わっている。そう考えると、あくまでもこの作品はロレイン・ジェイムズというアーティストの個性が強く刻まれたものであり、そこに描かれているのはロレインによって再想像/再構築されたイーストマンだと考えた方がいいのかもしれない。

しかし、さらにもう一度ひっくり返すならば、こうした相違にもかかわらず、たしかにそこにはイーストマンの音楽のコアが換骨奪胎されているようにも感じられる。たとえば、まずイーストマンが74年に発表した70分の大曲「Femenine」を聴いてみよう。それは管弦とパーカッション、ピアノのポリリズミックなアンサンブルによってシンプルなメロディが反復される作品で、そのなかで各楽器は即興を挟みながら躍動するのだが、一方でその即興はアンサンブル全体では調和し、静的な印象を残す。そこには、静と動、ミニマル・ミュージックと即興演奏という一見相反する要素が入れ子になったような、二項対立が無化されたようなサウンドが展開されているといえるだろう。(*2)

*2 このような各楽器の自由な運動とその関連のなかで生成される音楽をイーストマンは“オーガニック・ミュージック”と呼んだ

一方で、この「Femenine」を題したロレインの「Choose To Be Gay(Femenine)」においては、ロレインのつぶやくようなヴォーカル、ドローンのようなシンセがニューエイジ/アンビエント的な雰囲気を生みつつも、そのシンセ・フレーズは裏拍から食って入ってトラックを躍動させ、中盤ではアンビエントな雰囲気は変わらないまでも、裏拍と表拍をひっくり返しながら進むフレーズがトリッキーな印象を与える。そして、その後からは跳ねた8分のフレーズが新たに現われ、トラックに細かく揺さぶっている。「The Perception Of Me(Crazy Ni**er)」でも浮遊感のあるモジュラー・シンセの響きからトラックは始まるが、中盤以降にはその静的なサウンドから跳ねた3拍子が生成していくという“動き“が際立っていくのだ。

こうしたトラックに見られる、静的なものと動的なもの、幾何学的な端正さとフィジカルな身体性…という両極端な要素が一体のものとして展開していくような二重性は、ロレイン・ジェイムズが自らの活動と同時並行的に、アンビエント寄りのサウンドを特徴とする“Whatever The Weather”というプロジェクトを展開していることと繋がっているようにも思える(*3)。こうした二重性を持った表現に魅了されたあとでもう一度「Femenine」を聴き直すとき、あなたはロレイン・ジェイムズの感覚をとおしてジュリアス・イーストマンを捉えなおすことができるだろう。

*3 ロレインの来日公演も、ロレイン・ジェイムズ/Whatever The Weatherでの“交互”日程でのパフォーマンスだった

『Building Something Beautiful For Me』は、1970年代のニューヨークで活動した現代音楽家の忠実な再現ではなく、あくまでIDMやダブステップ、ドリルに影響を受けた2020年代のアーティストによる、2020年代のスタイルによって作られた作品だ。しかし、なおかつ、それは半世紀前の作品と現代の作品とのつながりを示し、過去の作品を新たな新鮮さをもって読み替えさせる。そこで提示されるのは、ある種の分裂を保ったまま聴く者をダンスさせるような“二重性“の地平ということができると思うが、いまやその作品同士の間にも、時を越えて互いが互いを含み合うような構造が生じている。

この重なり合ったイメージのなかで、あなたはロレイン・ジェイムズを通してジュリアス・イーストマンを聴くことができ、ジュリアス・イーストマンを通してロレイン・ジェイムズを聴くこともできるだろう。過去の作品への優れた解釈は往々にしてこのように二重露光するイメージを生み出すものだが、インタビューで「忠実な再現ではなく“再発明”によってイーストマンに敬意を払いたかった」と語るロレイン・ジェイムズの試みは、ここにおいては一定以上の成功をおさめているように思える。(吸い雲)


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