ある音楽が“開かれている”ということへの覚書
穏健な知性派の黒人女性による、ピースフルなリベラル・ミュージック風である。正直、こうした音楽は“良い人”ウケがいい。もっと言うと、良い人ぶりたい割にはあえて波風を立てるほどの勇気はなく、けれども一度主張に攻撃性が垣間見えるなり“そういう人の音楽”と距離をとるような人たち。安全圏の内側で道義心に浸っていたい、“そうした人たち”の自己正当化に使われるのも多分にこうした音楽である。
しかし初めにはっきり言っておきたいのは、ターシャの音楽はその対極にある、ラディカルな思想に基づいたものだということだ。
ジャンルで言えば“インディー・フォーク”だろう。アンビエントな質感も多少混入している。だがその手のジャンルの多くは、深く狭いパーソナルな語りを掘り下げるあまり、抽象的すぎたり具体的すぎたりして聴き手に疎外感を抱かせることもしばしばだろう。無論なんらかの社会の空気と呼応することはあれど、現実的な変革をラディカルに促すかといえばそこには大きな間隙がある、とも感じてしまう。だが、ターシャの音楽は、アウトプットこそ穏健でパーソナルだが、立脚している地点は真逆と言っていいほど大きく離れている。
彼女については現状、国内での言及があまり多くないようなので、本人のバックグラウンドをまずはさらっておこう。シカゴ出身のターシャ(本名 Tasha Viets-VanLear)の表現のスタート地点は、シンガーソングライターではなくアクティヴィストであった。
彼女は2010年代半ば、トレイヴォン・マーティン殺害事件の判決を機に設立された青年団体BYP100(ブラック・ユース・プロジェクト100)に参加。警察暴力や人種的不平等に対する抗議活動や組織運営に身を投じていたそうだ。大学時代にはダンスを専攻し「黒人パフォーマーのダンスに現れるラディカリズムや政治性」を研究していたとのことなので、BYP100への参画は黒人の身体の自由に対する危機意識に導かれてのことだろうが、まずこうした政治活動の実践に身を置いていたこと自体が彼女の気風をよく表していると思う。
その後、音楽活動を始めた彼女が触発されたのが、歴史家ロビン・D・G・ケリーの著書『Freedom Dreams: Black Radical Imagination』(2002年)だ。同書は黒人解放の歴史を紐解き、現状の改善の域を超え、黒人が安全に暮らせる“そもそも違う社会”を想像すること自体が政治思想を生むと論じており、ターシャはこの考えを自身の音楽で再現していると語る。つまり、一見穏健な彼女の音楽性は、社会変革のための政治活動と両輪をなす軸であり、闘争の中でいかに生き、愛し、回復するかを掘り下げた結果なのだ。彼女を単なるシンガーソングライターと呼べない理由は、まさにここにある。
つまり、黒人の身体が制度的暴力によって傷つけられている社会で、その身体を自分自身が大切にすることはラディカルな行為であり、穏やかな世界──脆弱でいてもいい世界、自分の身体を大切にできる世界、疲れたら安心して休める世界──を夢想することは、政治的であるというメッセージが、彼女の音楽の根底にはある、というわけだ。
前置きが長くなったが、本作はそうした活動の中で届けられた4作目のアルバムだ。こうした背景を踏まえると、冒頭曲「Spring」に同郷シカゴのジャミーラ・ウッズとL’Rain(タジャ・チーク)がアカペラで参加しているのも自然な共鳴と言える。ユーフォリックなハーモニーで春の息吹を歌い、それを「まるで自由(Like Freedom)」と表現する彼女たちは、恐れがなく生命が生かされる世界を意思持って想像する力を鮮やかに宣言してみせる。続く「Clarion」でも「冬が姿を消すのを見つめる」と歌い、あらゆる生命が安心して顔を出せる世界を、彼女は「春」と定義して、想像する。
季節の移ろいと美しさを映し出したリリックと音像は「Summer」なるナンバーへと続き、作中の季節もゆっくりと下っていく。きらめく海、自分勝手なチューニングのギター、ポーチで傾けるシャンパン。『君の名前で僕を呼んで』の夏のイタリアの田舎を想像してしまうのは、スフィアン・スティーヴンスの熱心なフォロワーであり、2024年には『Illinois』を舞台化した作品にも出演した彼女の背景も手伝ってだろうか。
ソング・ライティングはどこかニール・ヤング的、しかし、ギターの弦がビビる音もそのままに残しながらさらにいくつかのギターを重ね、オケやパーカッションを音響的に用いて(クラリネットは今回、自身が新たに習得したものだそう)室内楽的でありながら開放的な音像として増幅させていく手捌きには、ガスター・デル・ソル~シカゴ音響派からの影響を思う。本作のサウンドメイクは、グレゴリー・ユールマン(サム・ウィルクスとのトリオやパフューム・ジーニアス作品等に参加)を共同制作者に迎え、ヴォーカルエンジニアのジェイソン・エンジェル(キャロラインやサーペント・ウィズ・フィート)、ミキシング&マスタリングのデイヴ・ヴェッタライノ(マカヤ・マクレイヴン等)、そしてターシャ本人の4人タッグが主軸を担う。ローファイなギターの歪みでぶつぶつと割れながら過剰に膨張するような質感には、ユールマンが関わったパフューム・ジーニアスに通じる音作りと見て取れる。
前述の中盤の“夏” 以降のパートは、“安心”の先にある“幸福”を深掘りしていく構成だろう。音像も、アシッド・フォーク的、というか最早サイケデリックな“多幸感”に呑み込まれていく。パルスのようなドローン音が、知らぬ間に海へ誘う風のように揺らめき反復する「Promise」、またどのように人生が終わるのかを夢想する「Ending」では、教会の讃美歌にも似た永遠に谺するハーモニーのなかで、弦楽や木管楽器が自由にトリルして舞い溢れんばかりの恍惚感を充満させる。ラストの「Quick!」では潰れた歌やドラムにドローンが重なりがら、爆発のような光の乱反射を撒き散らし……。こうしたナンバー群は、さながら陽だまりの中の午睡、そしてその最中にふと白昼夢の彼方へ連れていかれそうになるような感覚を引き起こす。近年、彼女はシカゴからニューヨークへの移住したのだそうだが、偶然の一致か、途中の不安定な和音はグリズリー・ベアの『Veckatimest』(2009年)のあの音、前衛フォーク爛熟期のブルックリンの音にも接近する瞬間もあると言えるかもしれない。
そんなサウンドに包まれている時、私たちはこの地上の一切合切、何にも縛られていない……ように、想像できる。あらゆる重荷や足枷を解かれ、羽が生えたように自由を享受しているかのような感覚に、束の間浸らせ、夢想させてくれる。文字通りの、桃源郷、ユートピア。こんな理想的な幸福の絶頂に満たされながら天に召されたら、嗚呼、どんなにいいだろうか。
でもそれは前述のように、あくまで「黒人やブラウンの人々の人生や世界が、こうあればいい」という祈りや想像の力が生み出した、ユートピアだ。自由という多幸感が溢れるほどに、それは抵抗の形であり、ラディカルな表現となる。「私をスペシャルと呼んで/他の誰にも似たくないの」(「Special」)などというフレーズも、少なくとも第一義的には、それは特権的な立場の人種の自己実現を歌ったわけではないのだと思う。
音響の作り込みも目を見張るし、誰もが脅かされずにいられる空間を本作が提供しているのは確かだ。文脈なんか知らなくてもいいのかもしれない、音楽を聴くための文脈を知っておくべきだと押し付けるリベラル知識人的な上から目線も好ましくはないだろう。だが同時に、この音楽が純粋で柔らかな陽だまりのようであればあるほど、それが“善良ぶった無関心”に都合よく消費されてよいのかという葛藤も残る。誰にでも開かれていてほしい気持ちと、背景が無実化される懸念との板挟み──その葛藤自体を刻み込んでおきたくて、こんなテキストを書かせていただいた次第です。(井草七海)

