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This is Lorelei: The Singer in My Band

2026 / Matador / Beatink
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カントリーは誰もが気軽に歌いたくなる音楽でもある、という真実

24 September 2026 | By Shino Okamura

ディス・イズ・ローレライはウォーター・フロム・ユア・アイズの一員としても知られるネイト・エイモスのソロ・プロジェクトだ。その歴史はウォーター~より古く、2010年代初頭に遡る。20代前半で移り住んだシカゴで宅録音源を次々と生み出したが、それらは積極的に売り込まれることもなく、長く一部の仲間内だけで共有される存在だった。

ディスコグラフィを辿ると、ジミー・バフェットの名を冠したテープ(『Jimmy Buffett Tape』)、『Stop Making Music』という皮肉めいた題のEPなど、浮かんだ着想を即座に形にしてきた跡が伺える。音楽性も結構バラバラで、ディス・イズ・ローレライとは、完成品を並べる場所というより、ネイトの頭の中をそのまま開け放った実験室のようなものだった。

そういう、“開け放ったまま”でゲリラ的に作品を発表するアーティストは昔から一定数いる。だが、ネイト・エイモスが少なくとも音源投稿サイト世代以降の同系と少し異なっていたのは、バラバラな中にも明確なルーツが割と最初から見えていて、そこに抗うのか、受け入れるのか、その間を行き来しているように聴こえたことだ。明確なルーツ、それはカントリー・ミュージックである。

ネイトの父、ボブ・エイモスは長いキャリアを持つアメリカーナ/カントリー系ミュージシャンで、現在は彼の娘、つまりネイトの妹であるサラ・エイモスとデュオで活動することが多い。ネイトはディス・イズ・ローレライと名乗って活動し始めた初期からボブ、サラとも共演しており、音源にも参加させている。だが、全ての曲でストレートにカントリー・ミュージックへの愛着を見せていたわけではなく、時にはハイパーポップさながらのエレクトロなども交えて積極的に壊してもきた。まるで彼自身の中にも流れているカントリーの血を撹拌させているかのように。

そのためらいが薄れていったのは、ニューヨークへ拠点を移したのちの2024年6月に発表された『Box for Buddy, Box for Star』前後くらいだろうか。リリース後にじわじわと支持を広げ、現在に至るまでに既に2度アップデート盤が発売になっている。注目はそのたびに他アーティストによるカヴァー曲がボーナスとして追加されたことだ。2025年4月のデラックス・エディションには、MJ・レンダーマン、スネイル・メイル、そしてエイモスの父と妹のボブ&サラ・エイモスによるヴァージョンが収録。一年後の今年2026年4月には2枚組仕様でスーパー・デラックス・エディションが出て、そこにはジェフ・トゥイーディ、ヘイリー・ウィリアムズ、ティム・ハイデッカーらが参加したカヴァーがさらに加わった。

ここからわかるのは、ネイトは“同業者”たちがこぞって歌いたがるソングライターということだ。それが彼に少なからず自信をもたらしたことは言うまでもなく、それと前後する形で2025年末にリリースされた『Holo Boy』では、膨大な数の自身の旧作から選んだ曲を新たに録音し直している。新しい聴き手を膨大な過去の作品群へ導くと同時に、自らの実験室の棚卸しをすることで、自分の中のカントリー・ミュージックを見つめ直す作業をしていたかに見えた。ネイトにとってのカントリー・ミュージックのルーツ、それはソングライターとして誰もが歌いたくなる曲を書くための原動力なのかもしれない。

ウォーター・フロム・ユア・アイズをリリースしている《Matador》にこちらも移籍しての本作は、そこに確証を持ったネイトのステイトメントのようなアルバムだ。ここでは大衆音楽としてのカントリー音楽の語法が作品全体の軸に据えられている。『Box~』にもアコースティックやスライド・ギターが重要なカギを握るような曲はあったが、本作では点在していた要素がアルバムの背骨になった印象がある。タイトル曲では父、ボブ・エイモスがバンジョーを弾き、妹のサラとパートナーのアル・ナルドも参加。カーター・ファミリーやマクギャリグル姉妹ではないが、カントリーやフォークの伝統的なファミリー・トラディションを思わせる状態が出来上がっている。しかも、かつてのようなルーツへの迷いや躊躇はほとんどない。

本作の曲の多くは、二つのバンドのツアーで移動する車中で少しずつ形を成していったのだという。参加している家族以外の演奏、録音、プロデュースはすべてネイトひとりの手によるものだし、仕上げはヴァーモント州セント・ジョンズベリーの実家で行われているが、ネイト自身“ロード・アルバム”として本作を捉えているようだ。何もかもが手元に揃った状態ではなく、移動の車中、記憶に留めておけるのは旋律と言葉だけという不自由な環境で作った曲は、しかしながら誰もが唱和できるシンガロングなものばかりになった。それは譜面も録音もなく人から人へ歌い継がれてきたフォークロア・ミュージックの在り方と重なる。歌詞も饒舌だった『Box~』とは対照的に、言葉を削ぎ、少ない要素で確実に届くことを目指したかのようだ。サラ、ジュヌヴィエーヴ、ジョーイと、名前を持った登場人物たちが曲ごとに入れ替わり、アルバム全体がひとつの町の群像劇のように描かれていることも大きな彩となっている。

という見方からすると、ネイト・エイモスは新世代のカントリー系ルーツのある若手インディー・ロック・ミュージシャンの中でも、時間をかけて、そして結果として、極めて正統派の感覚を身につけてきたことにも気づく。多様で膨大な作品を次々と発表してきたことから異端児のように思われてきたが、MJ・レンダーマンやワクサハッチーらがインディー・ロックの側から、あるいは自らの土地の記憶として真摯にカントリーへ向き合ってきたのに対し、ネイトはカントリー・ミュージシャンの家に生まれ、最初から内側にいた。だからこそ迷いもあったのかもしれない。だが、彼はもっとカジュアルに、大衆的に、まるでカラオケでマイクを握るかのように軽やかに歌うことに振り切ってみようとしたのではないか。

この世の終わりを題材にした「Watching Heaven Fall」のような曲も、どこかとぼけた視線で朗らかに歌っているのは、確かにある側面では不気味ではある。けれど、不気味だろうが怖かろうが、これは歌いたくなる音楽なのだ、ということをいみじくも伝えているように思えてならない。カントリーは誰もが気軽に歌いたくなる音楽でもある、という彼のひとまずの到達点。それがこれからも続くのかどうかはわからないし、ネイトの飛び散る好奇心がこれで落ち着くとは正直思えないけど、今はそれでいい。そのくらいの身軽さがここにはある。(岡村詩野)



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