連載
The future belongs to analogue loyalists
スティーヴ・アルビニに捧げるメモワール
Vol.4
最初に、前回の連載に少し記憶違いがあったので、訂正をしておきたい。1993年9月のZENI GEVA「苦痛志向」の録音をスティーヴの自宅にある地下スタジオ、通称The Basementで行った際、《disk union》の依頼で筆者がスティーヴにインタビューをしたという箇所で、「確か『シェラック』という新しいバンドをやり始めたという話も、その時に初めて聞かされた」という一文があると思う。これは全くの勘違いで、1991年に初めてスティーヴと出会って、「全体去勢」を録音した時には、既にシェラックの話は耳にしていたらしい。何故なら、その1993年9月より始まったZENI GEVAの「苦痛志向」録音及び、ひと月半以上に亘るUSツアー直後、今度は11月にシェラックが日本に来日していたからである。全くもって人間の記憶というのは当てにならないものだ。今後も同様のポカが発生する可能性がありますが、暫しのお付き合いをよろしくお願いします(苦笑)。
さて、そういう訳で、スティーヴ・アルビニの新バンド、シェラックは1993年11月に初来日した。この時のツアー日程は、確か東京・代々木《チョコレート・シティ》を皮切りに、京都《Muse Hall》、大阪・十三《ファンダンゴ》、再び東京・新宿《アンティノック》だったかと思う。それに《disk union》渋谷ビル内にあるイベント・スペースに於いて、《disk union》主催の無料ミニ・ライヴも行われた。この時のシェラックは、フガジのサポート・アクトとしてオーストラリアをツアーして周り、その帰りに単独で日本にやってきたのだと記憶している。来日時にメンバーがことあるたび、合言葉のようにフガジの曲を口ずさんでいたのが印象的だった。確か「俺は嘘をつかない」というような歌詞の曲だったが、残念ながらフガジの曲にはそんなに詳しくないので、何という曲なのかは今も分からない。
ネイキッド・レイガンのカミリオ・ゴンザレスが、結成当初はベースを担当していた時期もあるそうだが、それ以降不動のトリオとなるシェラックのメンバーは、スティーヴ・アルビニをはじめとして、元Volcano Sunsのボブ・ウェストン、Breaking CircusやRifle Sportといったバンドでのドラマーを経て、Brick Layer Cakeという名義でソロ活動もしていたトッド・トレイナーという面々であり、既にUSインディー・シーンのオールスター・バンド的な様相も呈していた。しかし、その当時の日本では、現在進行形的なUSオルタナティヴ・ロックの情報も、メジャー契約アーティスト以外はまだ少なく、「アルビニの新バンドが来日する」という情報くらいしか、一般の洋楽好きには行き渡っていなかったと思う。そしてツアーには、当時のシカゴ・インディー・シーンの中核を成していた《Touch & Go Records》 の社長コーリー・ラスクも、PA担当として同行していた。この時のツアーは、全てサポート・アクトを筆者が当時在籍していたZENI GEVAが務めたと記憶しているのだが、関西では地元のバンドが幾つかと、トッド・トレイナーのソロ・ユニットであるBrick Layer Cakeもサポート・アクトとして登場した。トッドがギター&ヴォーカル、コーリーがもう一本のギター、そしてボブがドラム、スティーヴがPAを担当と、ツアー・メンバーでやり繰りするという形だったと思う。
この時のBrick Layer Cakeのステージングは、基本的にトッド・トレイナーによるエレキ・ギターの弾き語りに、バンドの音が控えめに加わるような演奏だったのだが、家庭での練習用に使うようなマーシャルの電池式ミニ・アンプを持参、ギター・アンプとして使っていたことが非常に興味深かった。ライヴ前にトッドから「お客さんに対する日本語での挨拶を教えて欲しい」と頼まれ、「Brick Layer Cakeのショーへようこそ」など日本語を教えた記憶がある。トッドは物覚えがよく、すぐにその日本語を覚え、わかりやすい発音でステージから挨拶をしていた。
さて、肝心のシェラックのライヴだが、来日公演初日である1993年11月21日代々木《チョコレート・シティ》でのライヴが、KK Nullさん主宰の《NUX Organization》より、翌年の1994年にCDとして日本でのみ限定リリースされている。マルチ・トラック録音されたその夜の演奏をスティーヴ・アルビニとボブ・ウェストンにより、後からミックスを施されたライヴ・アルバムだが、最初の3枚のシングルとファースト・アルバム『At Action Park』の次にリリースされた順番も考慮されているのか、本作には「シェラックレコード No. 5」とアルバムに明記されていた。この作品は既に廃盤だが、Youtubeにて聴くことが出来る。
改めてこの時の音源を聴くと、ファースト・アルバムである『At Action Park』録音より3ヶ月以上前のライヴにおいて、既にシェラックの演奏スタイルの基本フォーマットは、完成の域に達していたことが分かる。スティーヴとボブが両手を左右に大きく広げて飛行機を模したポーズをやるセカンド・シングルのB面曲「Wingwalker」以外は、ステージング自体も派手な動きは少なく、簡素で飾り気なくシンプルに演奏に徹している印象であった。MCも英語が通じているのかどうかなどは気にせず、気さくに観客に語りかけている感じで、こちらも普段アメリカでライヴをやっている時と変わりなしといった様子。実にリラックスした自然体のライヴだった。淡々とした必用最低限のミニマルな演奏で、最大の効果を発揮するシェラックの魅力は、まだ最初の2枚のシングルが日本にも届いたか届かないかの段階では、伝わりづらかったのかもしれない。とかくビッグ・ブラックやレイプマンの過激な印象が強かったせいか、少し戸惑った様子のお客さんも多少なりいたことは記憶している。
思えばこの時のツアーも基本的にD.I.Y.で、アーティスト同士の繋がりから生まれたものだった。ライヴ盤の日本だけの限定リリースも、K.K.NULLさんとスティーヴとの信頼関係から実現したものである。シェラック一行の宿泊に関しても、来日前のK.K.NULLさんとのやり取りの中で、スティーヴは「宿泊は日本のグーフィーなカプセル・ホテルでも何でもいいよ(スヌーピーの登場キャラクターであるグーフィー“Goofy”は「間抜け」や「訳のわからない奴や物」を意味するアメリカのスラング)」 と言っていたようだが、K.K.NULLさんの自宅の他、関西でも友人知人宅に宿泊させていただいた。所謂洋楽の外タレの来日コンサートのように、空港、ホテル、会場の往復ではなく、スティーヴが初来日した時と同じように、日本の日常にいきなり飛び込んだような体験を他のシェラックの面々もしていたと思う。その当時関わってくださった皆さんには、今でも感謝の気持ちしかない。
オフの日にZENI GEVA全員でシェラック一行を浅草へ観光案内したりもした。スティーヴは前回の初来日の時も行ったことがあるから慣れたもので、ボブやコーリーに「ここでお土産を買えばいいよ」と言っていた。「皆ショッピングしたいから自由行動にしようか。(雷門を指して)ここで1時間後に待ち合わせでいいか?」と、仲見世商店街の人混みへ消えてゆくシェラックの面々。クールなトッドはあまり日本的なお土産などに興味がなさそうだったので、その間、二人でただ散歩をしながら、プライヴェートなことまで色々なことを話したのを憶えている。その後に皆で居酒屋へ行った記憶があるのだが、シェラックの面々で酒を嗜むのは非喫煙者のボブだけで、スティーヴとコーリーがたまに手巻き煙草を吸う程度、トッドは頻繁に煙草を吸っていたが、その3人は一滴も呑まなかった。鯨の刺身がメニューにあり、「日本では鯨を食べるのか」と物珍しげに眺めていたが、誰彼ともなくイエスの「クジラに愛を」を歌い出したりといった光景もあった。(文・写真提供/田畑満 トップ写真撮影/坂本葉子)
Vol.5へ続く
左より、下・ボブ・ウェストン、上・スティーヴ・アルビニ、KK Null、下・トッド・トレイナー、上・タバタミツル、エイト(撮影/中上マサオ)

連載第1回
http://turntokyo.com/features/the-future-belongs-to-analogue-loyalists-steve-albini-1/連載第2回
http://turntokyo.com/features/the-future-belongs-to-analogue-loyalists-steve-albini-2/連載第3回
https://turntokyo.com/features/the-future-belongs-to-analogue-loyalists-steve-albini-3/Text By Mitsuru Tabata
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