Kim Gordon『PLAY ME』
クロス・レヴュー
枯れ・金属・未来最高!!
1曲目「PLAY ME」でホーンがゆるく鳴りだすと、煙たい空気がたちこめる。キック&スネアは、金属加工場のトンカチのようにせっせと曲を進める。「DIRTY TECH」では、トラップのビートに乗る上物はカラッと乾いている。音数は減っている。前作『The Collective』(2024年)がある意味で年齢を感じさせないバキバキなサウンドだったのにくらべると、72歳(現在は73歳)のキム・ゴードンにも一応の“枯れ”が見えてきた。枯山水のような侘び寂びが。
このアルバムでいちばん気持ちいいのは、やはりビートだ。前作『The Collective』も、打ち込みのトラップやインダストリアルのノイジーなビートに、ファズギターのノイズを上塗りし、電子音とギターの音が渾然一体となっていた。今作『PLAY ME』もまたトラップがビートの主軸になっているものの、生ドラムらしき音もよく鳴り、音数が少ないからエレクトリック・ギターの歪みも輪郭がはっきりして見える。「BUSY BEE」ではデイヴ・グロールが叩いている(よく聴くとイントロでニルヴァーナ「Sifting」(1989年)のフレーズが叩かれているのに気づくが、ここにはチャド・チャニング期の曲をグロールが引用している、という捻れがあるのだろうか?)。また、ポストインダストリアル〜インダストリアルラップの要素が強かった前2作にくらべると、ソニック・ユースらしさすら感じる。それも初期の、ノー・ウェイブやポストパンクの色が濃かったころのソニック・ユース。たとえばかつて「The Burning Spear」(1982年)にあった軽金属的なドラムスは、先述の「PLAY ME」の金槌ビートに受け継がれている。サーストン・ムーアとリー・ラナルドがグレン・ブランカ門下から持ち帰った不協和なギターが生み出す音響は、不穏なサンプルやエディットされたギターノイズの重ねがけによって再現されている。
そんなビートの上に、キムの声はつぶやきや独り言のように乗っている。「BYEBYE25!」ではトランプ政権が禁止したとされる単語を並べる。「DIRTY TECH」はRCサクセション「ボスしけてるぜ」の近未来版というか、AIの上司に洗脳された部下が「ボス、へいボス/揺るぎない手つきで仕留めてよ/私がほしいなら持ち上げてよ」と、性的倒錯めいた言葉を投げかける。ちなみに「BLACK OUT」も、“AI”という単語がコーラスを埋め尽くすようなリリックだ。タイトル曲「PLAY ME」のリリックではSpotifyのムード別プレイリストの名前を並べている。そういえば2022年の《Pitchfork》の特集では、①Spotifyのムード系プレイリストでBen Seretan『Cicada Waves』は約50万回再生されても半年分の分配金は数百ドルだった、②存在しない架空アーティストに低い使用料で作らせた無名曲をプレイリストに入れているという説がある(Spotifyは否定している)、と複数の視点からアンビエント/ムード系プレイリストに対する批判を提示している。作曲する生成AIが台頭したいま、事態はより複雑になっているだろう。あるいは、ともに夜を過ごすパートナーがいないのなら、AIコンパニオンや音声会話とセックスすればいいんじゃないかな。あなたも試してみる? アートワークに写る「PLAY ME」(私を流して/私を弄んで)とペインティングされた両脚は、あなたがもっとも魅力的に想う相手の足音で近づいてくる。
前作も今作も、わたしのリスニングの癖(へき)を見抜いている。キムの音は身体に近い。イヤホンで聴けば、銅線なり電波をつうじて、耳元で金属をこすり合わせるような不快さがあり、その不快さがそのまま快感に変わる。アンビエントとか聴いてる場合じゃないぞ。電気自動車とか乗ってる場合じゃないぞ。細かな音のテクスチャーとか、心音や生活音やエンジン音や近所の工場騒音でかき消されて聞こえないからな。なんてけたたましいんだ。臓物ぶちまけろ!と意味もわからず叫びたくなる。
それでも前作には届かない。『The Collective』はわたしの大好きなアルバムだ。キックの一つひとつから、ギター、ノイズ、効果音まですべての音が、給油したてのガソリン車のように、あるいは過電圧をかけた電化玩具のように、マキシマムで強力だった。トラップ、ノイズロック、インダストリアル、メタルとばらばらな楽曲の方向性を、桃紫色のアートワークのような一貫したムードが覆っていた。聴くたびに、小学校の帰り道、悪天候の日に高圧電線が鳴らしていたバリバリという雑音や、子どものころ家の前の鉄工所で散っていた火花のサイケデリアを思い出す。わたしが知っている音の記憶。今作は方向性がさらにばらばらで、30分足らずの尺もふくめて、ミックステープのような“抜け”がある。
キム・ゴードンのソロ・キャリアは作品ごとに質の高いものを仕上げ、そのたびに音も変えてきた。キムが現在のわたしと同い年だったときソニック・ユースはデビューEPと最初のアルバムを出したばかりだった。長いキャリアのまだ入口。それでいて、70代の現在に何度めかのキャリアのピークを迎えている。「オレはまだキム・ゴードンになれる」。未来!!最高!! 『チェンソーマン』の未来の悪魔のように、快哉を叫びたい。(髙橋翔哉)
更新し続けるオルタナティヴ キム・ゴードンが問う「人間であるということ」
上の世代にとって、若い世代がやっていることは、ときに煩わしく感じられる。新しい表現が、自分たちの価値観を否定しているように見えるからかもしれない。しかし、それは本当に否定なのだろうか。文化は更新され続けるものであり、むしろ過去を反復し続けることは停滞なのかもしれない。
ソニック・ユースの最大の功績は、“ノイズ”という概念をポップ・ミュージックの中に持ち込んだことだったと思う。それまでアンダーグラウンドの文脈にあったノイズの美学を、より広い場所へと引き出した。ギターのフィードバック音から成り立つ楽曲を聴けば、多くの人がそれを“ノイズ”と認識する。いまでは当たり前の感覚だが、かつてそれは“ただの雑音”だったのかもしれない。
しかしキム・ゴードンの近年の作品では、ソニック・ユースのレガシーはほとんど参照されていない。少なくとも表面上は、そう聴こえるだろう。ヒップホップの影響を色濃く映した楽曲群では、かつてのバンドサウンドはほぼ姿を消し、代わりにインダストリアルなビートが前面に出ている。
多くのレジェンドが自分の過去を繰り返すなかで、キム・ゴードンはそのやり方を選ばなかった。しかし同時に、その姿勢こそがとてもソニック・ユース的でもある。彼女が更新しているのは、前衛であり続けるという態度そのものだからだ。自分自身の過去に対してさえ、オルタナティヴであり続けている。彼女にとって音楽は、社会の摩擦や歪みを映し出す装置のようなものなのではないだろうか。
前置きが長くなったが、ここからが今作『PLAY ME』の内容になる。僕は音楽評論家ではない。キム・ゴードンに、そしてソニック・ユースに憧れた、数えきれないギターキッズのうちの一人。だからこのアルバムについても、その立場から書いてみたいと思う。
まず印象に残るのはリリックだ。多くの曲で言葉がコラージュのように断片的に並んでいる。彼女の歌詞は昔から抽象的で断片的なものが多かった。しかし今回は、もう少し露骨に情報そのものが並べられているように感じる。ニュース、SNS、AI、アルゴリズム。そうした言葉がニュースの見出しのように断片的に並び、タイムラインをスクロールするように流れていく。情報は次々と現れ、意味は断片化し、すぐ別の情報に置き換わっていく。曲が全体的に短いのも、そうした時代のスピードに対する皮肉のように聞こえる。
もうひとつ印象的なのは、「GIRL WITH A LOOK」や「NOT TODAY」に見られるクラウトロックの影響だ。規則的に前へ進み続けるモトリックビートと、その上で揺れるギターノイズ。そこには、管理社会やアルゴリズムのようなシステムと、人間の身体が持つ揺らぎとの対比のようなものを感じて、個人的にはとてもグッときた。
そう考えるとアートワークも素晴らしい! 娘のココによって「PLAY ME」とペイントされたキムの脚。そこにははっきりと身体の感覚が刻まれている。歪んだギターが、剥き出しの感情を爆発させていた頃のロックが、体現してきた身体性や人間讃歌、あるいは不完全さへの肯定のような。そんな感覚が妙に腑に落ちた。
いま僕らが生きているこの時代には、どこか説明しづらい違和感がある。多くの人が同じ感覚を抱いているのではないだろうか。そのなかで「人間にしかできないことは何なのか」と考える。このアルバムは、そんなシンプルな問いと不思議なくらい響き合っているように感じる。
キム・ゴードンが描いてきたのは、いつもノイズだった。それは単なる音の話ではない。社会のノイズ、文化のノイズ、秩序からはみ出すもの、システムに回収されないもの。そしてこのアルバムで描かれているのは、資本主義が揺らぎ始めた風景の中で、もがいている人間の声なのではないだろうか。
遠くから、こんな声が聞こえてくる。
PLAY ME.
(中野道)
70年代後半と現在のニューヨークから“No!”を込めて
キム・ゴードンは、前作に続いてリズムに重点を置いた曲作りをしている。それでも前作は、甲高い金属音やギターのフィードバック・ノイズの重なりが充満していて、シューゲイザーのように曖昧な音像で埋め尽くされていたと思う。そうした前作と比較すると、本作は随分とメロディアスで聴きやすい印象だ。空間系のエフェクトを絞ったから? ビートを前面に出しているから? いや、これは彼女が70年代後半のニューヨーク・パンクから生まれた、ノー・ウェイブからの影響を反映しているからだろう。
彼女はソニック・ユースで活動していた頃から、既存の音楽よりも新しい音楽に興味があった。それはアート・リンゼイのいたDNA、Marsなど誰もがミュージシャンになれる即興性、実験性を重視したように『PLAY ME』はノー・ウェイブとの共通項がある。「簡潔さをモットーに制作を進めた」と話すように、全編を通して楽曲は2、3分間という長さに収められているし、「NOT TODAY」でクラウトロックのハンマービートを取り入れる試みは、キム・ゴードンにとって新規性の象徴である。加えて「NAIL BITER」では、フォーリー(foley)と呼ばれる映像に合わせて動作音を同期させる手法を起用。イントロのチリチリとした摩擦音、鈍い中低音のキックと、やたら立体的に聴こえるのはこうした音響効果によるものだ。
しかし一方で、本作の歌詞は現実的で重い。Spotifyのプレイリスト名を並べる「PLAY ME」、トランプ政権で消えゆく言葉「トランスジェンダー/多様性/女性」を連ねた「BYEBYE25!」、「家は『住まい』じゃない/ただの夢だ/くそ」と怒りを露わにする「SUBCON」、セックスワーカーの描写のような「NOT TODAY」などなど。どの歌詞もアメリカ市民であるキム・ゴードンが見る、今のアメリカ社会を映し出す。自らを「文章を書くビジュアルアーティストだと考えています」と語る彼女は、本作の歌詞を書き上げた後で、一貫したテーマがあると気づいたそうだ。それは、PC(ポリティカル・コレクトネス)のことではないだろうか。トランプ大統領の文化をキャンセルしようとする動き、レトリック戦略に対する批判だと感じずにはいられない。まさか、PC運動の発端である左派のユーモアだと思うのは考えすぎか。
話を戻すと、ノー・ウェイブの反企業性然り、リディア・ランチが発言した当時のライターやメディアに対する“No!”という拒絶は、『PLAY ME』での主張と重なり合う。ノー・ウェイブのアーティストたちが自分たちの音楽をカテゴライズされることに“No!”と突きつけたように、本作で綴られるレッテルは──トランプ政権が排除しようとする人々──の“No!”という反抗の声に他ならない。(吉澤奈々)
Text By Shoya TakahashiNana YoshizawaMichi Nakano
Kim Gordon
『PLAY ME』
LABEL : Matador / BEAT
RELEASE DATE : 2026.3.13
購入はこちら
Tower Records
/
HMV
/
Amazon
/
Apple Music
Kim Gordon 単独来日公演
rockinʼon sonic extra
大阪 2027/1/6(水) Yogibo Meta Valley
開場・開演:OPEN 18:00 / START 19:00
チケット:オールスタンディング ¥9,000-(税込/1Drink別)
東京 2027/1/7(木) 神田スクエアホール
開場・開演:OPEN 18:00 / START 19:00
チケット:オールスタンディング ¥9,000-(税込/1Drink別)
企画・制作・招聘:クリエイティブマンプロダクション
協力:ビートインク
詳細はこちら
https://www.creativeman.co.jp/event/kim-gordon_rosonicextra/
