静止した世界を映したひとつの鏡
2度目の夏を迎えようとしている。昨年の夏を振り返れば、記憶は極端に痩せているようで、パッと思い出せるのは日々報じられた最悪なニュースや感染者数のカウンターが回る裏で吹き出していた血のことばかりだ。私にとってあの日に焼けることなく過ごした冷たい夏は、無論その特権を自覚するための時間ではあったが、それ以外、果たしてただの空白だったのだろうか。
ロックダウンされたロンドンで、ロレイン・ジェイムスというひとりの優秀なIDMプロデューサーもまた、冷たい夏を迎えていた。前作アルバム『For You And I』(2019年)はKode9率いるダンス・ミュージックの名門《Hyperdub》からリリースされ、完璧とすら思えるそのレーベルのカタログに恥じぬ出来で様々なメディアから軒並み高評価を獲得。翌2020年は、世界中のフロアを魅了し、狂騒へと誘うはずだった。だが、あなたの知るオリンピック以外の計画と同じように、この前途有望な音楽家にとってとても重要な期間の予定は白紙に戻されてしまう。『Reflection』という彼女にとって3作目(《Hyperdub》からは2作目)のアルバムは、そんな失意の中にあって鏡を覗き込むという、リスクに満ちた勇敢な挑戦を記録している。
『For You And I』にあった複雑ながらレイヴィーな楽しさとは打って変わって、そこに広がっているのは荒涼としたサウンド・スケープだ。グライムやダブなど様々なダンス・ミュージックの影響がありながらもジェイムスがロックダウンの中でよく聴いていたというドリルとR&Bの色は濃く、とりわけドリルの持つ雰囲気は荒んだ質感に輪をかけて殺伐とした印象を残している。一体彼女に何が起きているのか、僅かに把握できたのは8曲目のタイトル・トラックにたどり着いたころだ。冷たい音の上、自らの声で語られる苦しみの言葉。〈Anxiety, anxiety / Should probably see a therapist / As it seems like there’s no end to this(不安だ、不安なんだ / セラピストに相談した方がいいのかも / この気持ちにはまるで終わりがないみたいなんだ)〉。鏡を覗き込むこと、それは労働者階級出身のクィアな黒人女性というアイデンティティを持った自身を、この情報過多でポピュリズムの蔓延する世界でどのように位置付けるのか問い直すことであり、その困難な状況で彼女は巨大な不安と対峙していた。英Guardianに掲載されたインタビューにあるように、コロナ禍だけでなく、白人ばかりのエレクトロ・ミュージック・シーンや前作の成功によるプレッシャーもその不安を加速させたのだろう。実験的なサウンドを通して、暗澹とした感情がリスナーの耳へと流れ込んでくる。
しかし、本作は決して孤独によって黒く塗りつぶされているわけではない。「On The Lake Outside (feat. Baths)」では穏やかなサウンドに乗せてBathsの優しさに満ちた言葉が届けられ、「Insecure Behaviour and Fuckery (feat. Nova)」のNovaによる差別を批判するような淡々としたフロウの中には〈Ah, the ink on your skin / A piece of art, girl, you is like a painting(ああ、あなたの肌についたインクは / 芸術作品さ、友よ、あなたは絵画みたいだ)〉といった幾つかの美しいラインを聴き取ることもできる。ジェイムスは鏡に映る自分を見つめて、戸惑いとともに確かな希望を発見していくのだ。
ハイライトはこのアルバムのラストを飾る「We’re Building Something New (feat. Iceboy Violet)」で観測される。煌めくシンセに混じって聴こえる、マンチェスターのラッパーであるIceboy Violetの今にも泣き出しそうな声。ジョージ・フロイド氏の死によって国境を越えて再燃したBlack Lives Matterの炎について触れながら、その絶望の中にあって種は蒔かれたのだ、美しい実を結ぶまで、空に届くまでその痛みを共有するのだと歌うそれは、ジェイムスの自己探求たる本作を眩い光で包み込んでいく。──そうだ、私も鮮明に記憶しているではないか!昨年初夏の渋谷で、たくさんの人々によってBlack Lives MatterやTrans Lives Matterとモノクロで、あるいはカラフルに書かれたプラカードが高々と掲げられている光景を!──ロレイン・ジェイムスが静止した世界に置いた鏡は、世界が立ち止まっていないことを反射して、混沌とした暗がりの奥に白んだ未来の像を結んでいる。(高久大輝)
※文中の歌詞対訳は筆者による
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