「フライローの法則」は外れずともドラマ性がより大きくなった
アルバムを発表するごとに収録曲数が増えるという「フライローの法則」から外れることなく、『Flagrama』は何と28曲入りだ。ただし、全体の収録時間も68分と大幅に伸びているので、1曲の長さはそれほど変わらない。相変わらず1、2分台の曲が多数を占める。
ビート・ミュージックとは呼ばれるものの、フライング・ロータスの曲はいつもそんな長さで終わってしまうので、どう考えてもダンスには不向きなものだった。こんな音楽がクラブから出てきたというのも不思議に思えたが、ローエンド・セオリーのイヴェントに行ってみたら、それが彼らのスタイルなのだと解った。誰もがめったやたらに曲(というか素材)を繋いでいく。ビートもコードもどんどんうつろっていく。何とも不安定な異形の時間。ただ、フリーケンシーだけは常にスーパーローまで使って、クラブの床を震わせている。
短い曲を詰め込んだ過去のアルバムは、そういうローエンド・セオリーのスタイルから自然に発展したものと考えていいだろう。だが、今作はというと…聴いているうちに、これはちょっと違うぞと思えてきた。というのも、妙にキャッチーな素材がちらばっているのだ。こんなにコード進行だのリフレインだのを憶えてしまうフライローのアルバムなんて、過去にあっただろうか。リトル・ドラゴンをフィーチュアした「Spontaneous」などは象徴的だが、1、2分で終わらせず、きちんと3分半のポップ・ソングに仕上げて欲しくなるような曲が今作には少なくない。
それはたぶん、フィーチュアリング・ゲストの個性が際立つように狙い定めたセッションが多かったからではないかと思われる。それゆえ、あてどないジャム的なセッションの中から抽出したサウンドスケープが流れていく前作『You’re Dead!』と比べると、ジャズ的な志向はぐっと減衰した。興味深いのは、かわりにクラシックや教会音楽を思わせる和声感が空間を埋め始めたことだが、それは近年、フライローが自身で弾くピアノと向き合ってきたことと関係しているのだろう。
結果、アルバムの中を流れる時間はこれまでとかなり違う。よりドラマ性があり、映画音楽や古典的な意味でのコンセプト・アルバムに近い感触を受ける。
そういえば、最近、僕はひょんなことから、70~80年代のイエスのアルバムを聴いていた。片面1曲の大作主義になり、当時は敬遠して聴かなかった頃のものだが、面白いことに、その中の1、2分を切り取るとフライング・ロータスのように聴こえてきたりする(スティーヴ・ハウやクリス・スクワイアの高速リフはサンダーキャットのようだし)。今作のフライング・ロータスはあたかも、それを反転したかのよう。28曲を詰め込んではいるが、一編の映画のように通して聴くべき大作に思われる。(高橋健太郎)
燃え盛る炎が炙り出す“生”の輝き
様々なリズムが立体的にうねり、鼓膜を叩く。そこで抱く一抹の不安は、私にとってフライング・ロータスの新作を聴いているという実感そのものでもある。そして本作『Flamagra』の炎は、その不安が私自身に何を伝えているのかを鮮明に炙り出してくれた。
彼の過去作品の中でも“死”は重要なファクターだった。祖母の死へと向き合った『Cosmogramma』、タイトルからもそれが明らかな『You’re Dead!』。本作中でも2曲は2013年の楽曲「S.D.S」での共作、そして友人でもある昨年亡くなったマック・ミラーへと捧げられている。また本作ではタイトル、曲名そしてアートワークやMVまで“炎”が大々的なモチーフとなっている。中でも現在放送中のTVアニメ『キャロル&チューズデイ』(ロータスも劇中で演奏される曲のコンポーズで参加)でも総監督を務める渡辺信一郎が手掛けた「More(feat.Anderson.Paak)」のMVでは、人の内側から何かが吹き出し、ついには人を飲み込み常に発火している大木のようなものへと変態。それはまるで人の本質を噴出させたかのようであり、それが永遠に残っていくかのようでもある。MV鑑賞後にミラーへと捧げられた曲を聴けば…ビート・セクションを抑えた「Find Your Own Way Home」は人間の連なった歴史に宿る大木のような悠久さを想起させ、静と動のコントラストが美しくもダイナミックに鳴る「Thank U Malcolm」はそんな歴史の中で燃え続ける人の情熱を想起させもするのだ。彼は“死”と向き合うことによって、“生”の痕跡を見出そうとしているのかもしれない。
ロータスは言う。「このアルバムは痛みの逃げ場になっていて、その痛みから精一杯何かを得ようとした結果でもある」と。彼の生み出すジャンルを横断し、複雑に入り組んだ音のレイヤーは実にカオスで、それを浴びた私が覚える不安は、おそらくわからないものへの漠然とした恐怖の発露なのだろうと自己分析していた。だが躍動する命の痕跡が絶えることのない炎のごとく燃え盛る本作を聴いていると、その漠然とした不安は“死”の存在感と非常に似ているということに、加えていつの間にか不安は高揚へと移行していることに気がつく。つまり、不安は“生”と“死”がそばにあることを、高揚は“生”の実感であることを伝える。その炎(“生”の実感)こそが、痛み(“死”)の逃げ場となっているのだ。
“生”が常に主体性を伴った行為なのかどうか、未だに私は判断がつかない。しかし人が何かを成し遂げたいと、何かを作り上げたいと、ほんの些細なことであってもそう思う瞬間、間違いなく“生”は行為となり、輝くのだと思う。本作は痛みの海の中を泳ぐようにもがき生きたマック・ミラーの生前最後のアルバム『Swimming』と対極のモチーフでありながら、そこに収められた輝きが生き続けることをも表現しているような気がしてならない。(高久大輝)
その豪腕でカオスを一つの世界に集約する
炎、魔法、そんなファンタジックな言葉で本作について話すフライング・ロータスは、前作でジャズの刷新と明確に表明したこととは反対に、まるで私たちがこの作品の混沌をどう捉えるか試しているようだ。映画監督であるデヴィット・リンチが本作に参加し創作のきっかけになったということも示唆的だ。思考がついていかず困惑するも一つの新たな世界を体感したという実感がついまたリンチの映画を思い出させるように『Flamagara』という未知で複雑な体験もまた忘れがたいものだ。
フライング・ロータスは、固定概念を刷新し未知なる創作を目指すと発言している。本作は彼の作品では最長の60分であることに加え、旧知のサンダーキャット、ミゲル・アトウッド・ファーガソンはもちろん、ジョージ・クリントンやソランジュなど様々なミュージシャンを迎え、共作や共演に力点を置くことに挑んだ作品だ。それはまるで自身の頭の中で思い描く長編映画を再現するために、要所にキャラクターを配置していくようでもある。共演が増えればより複雑化するが、長編かつ複雑なこの作品世界をを纏め上げてしまう彼のプロデューサー的な手腕が遺憾なく発揮されている。
さらに常識にとらわれない彼の豪腕が光る。例えばアンダーソン・パークをフィーチャリングした「More」では0分50秒を境に異なるリズムが展開され別の曲かと思ってしまうほどに風景を切り替わる。他の楽曲でも前半とそれ以降、それまでと後半の曲調が異なる展開をして驚くが、それは作品を纏め上げるために意図的に仕組まれたものだと感じる。楽曲同士のつなぎを意識したDJ的な感覚でもあるし、『KUSO』(2017年)で映画という様々な要素が絡み合う総合芸術を監督とした経験から得た感覚かもしれない。全てを掌握するその豪腕に磨きがかかっていることを実感せずにいられないのだ。(加藤孔紀)
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