別の生に
中世のゴシック様式の大聖堂(たとえば北フランスのノートルダム大聖堂、ドイツのケルン大聖堂、イギリスのグロスター大聖堂)は、欲望や正義を正当なものにしたい人々の思惑と、救われたいという必死な願望とが、無秩序で過剰で曖昧に混交した建築物だ。力の勾配からいかに利潤を生み出し、多く所有するかが目下重大な関心事とされるなか、多種多様な美学が可視化され入り乱れる昨今の状態は、そのあり方に似ている。ディスコ、アシッド、ジャズ、ダブなどと合わさったフォー・オン・ザ・フロアの機能的な曲も奇妙な曲も、さびしさも妖しさも多幸感も包摂したこのアルバムは、そうした制御されない理不尽な力の最中に滲み出てしまうなにか、いうなれば根源的な生のきらめきのようなものを明滅させている。
アルバムに収録された楽曲はどれもビートがあり、じっくりと展開し、ミックスを想定し、踊ることを念頭に置いた紛れもないダンス・ミュージックである。そのリズム、人懐っこいメロディーラインとフレーズは、聴く人がどこにいても的確に目配せをしダンスフロアへ誘う。
ここ数年、とくに昨年、ダンスやダンスに関する言葉をたびたび見かけた(竹中優子『ダンス』、向坂くじら『踊れ、愛より痛いほうへ』、「TOPコレクション トランスフィジカル」、「日常のコレオ」、『aftersun/アフターサン』など)。いくつかは、困難に対処するメタファーとして使われているようだった。偶々とも必然ともいえるように、自分が自分であるから立ち現れる問題に翻弄され、あるいは身を任せ、あるいは乗りこなす──それはたしかに踊っているようでもあるし、なによりも、総じて体の動きは経験の蓄積であるから、そうしたメタファーになりうるのだろう。展示で見た、ダンスでまとめられたセクションの写真や映像は、キュレーションの妙でもあるだろうが、時代も作家もばらばらの作品たちがどれも霊性を帯びているようだった。ならば、困難に対処していたように思えた人たちは、もっと大きなものと対峙していたのかもしれない。
今作のミュージック・ビデオにはどこか生成AIっぽさがある。生成AIっぽいという感覚は、画面に映るテクスチャ(=想像される触覚)と、実感してきた触覚とのずれだと予想している。ホレス・ウォルポールがほとんど寝ていない状態で、シュルレアリスム的な自動記述のように書いたらしいゴシック小説『オトラント城』は、書いたというより生成したと言ったほうが適切なのかもしれない。世界を実感し解釈した経験を記憶した体が理性から距離を置いて筆を走らせることと、身体をもたず膨大なデータを読み込んだAIが確率的な処理をおこなうことは、まったく異なる出来事だとすっきりとは言い切れない。AIを、人間が思いつかないものをもたらす存在と見なすにせよ、それっぽくふるまうドッペルゲンガーと見なすにせよ、言語とのかかわりや、作るという行為の意味合いなどにおいて、人のあり方に変化を起こしているのは確かである。
ゴシック建築の天を目指す先端や、自然を模した内部のキメラのような彫刻は、酒井健『ゴシックとは何か』の言葉を借りれば「生物の完結した形態」を「笑い飛ば」している。たとえば、音の余韻を燻らし(「Lucky」)、かと思えば急にディスコのような祝祭的なムードへ引き入れ、さらには蝶がキックに合わせて羽根をパタパタと動かす(「Waiting So Long」)のに、同じように完結した生へのからかいを幻視する。ダンスフロアでわたしたちが踊るとき、その体たちは暗がりに溶けながら、暗がりを取り込んでいる。このアルバムが招き入れているのは、オーセンティシティに収まらない、別の生に開かれた形態である。(佐藤遥)

