音楽的なルーツとそこからの進化の過程が今の音楽シーンを予見していた~ 10年ぶりの活動再開と旧作再発に沸くステレオラブの魅力を今こそ探る
ステレオラブが今年の《Primavela Sound》(5月30日~6月1日開催)にヘッドライナー級で出演することは注目すべきトピックだと言っていいだろう。日本からも、少年ナイフ、水曜日のカンパネラ、CHAIらの出演が決定しているこのスペインの人気フェスは、今年であればエリカ・バドゥ、ソランジュ、ジェイムス・ブレイク、カーディB、テーム・インパラ、そして約3年ぶりの新曲を公開したばかりのFKAツイッグスなど毎年旬なアーティストが勢揃いし、現在の音楽シーンの動きを俯瞰してみることができる重要な場。そこに10年ぶりの活動再開を発表したステレオラブが登場することは、フライング・ロータス、サンダーキャット、ブラッド・オレンジ、あるいはブルーノ・ペルナーダスやクルアンビンなどが評価を集める現在だからこそ、の必然もあるのではないだろうか。もちろん彼らのレーベル《Duophonic》と《WARP》とがタッグを組んで旧作7タイトルをリイシューすることが決定していることとも無関係ではない。リイシューの第一弾は5月3日にリリースされたセカンド『Transient Random-Noise Bursts With Announcements』とサード『Mars Audiac Quintet』。このあと夏に向けて順次タイトルが揃えられていくそうなので、90年代当時の活躍を知らない世代にもぜひチェックしてみてほしいと思う。
そこで、《TURN》ではまだ20代の若手筆者3人に今ステレオラブを聴くなら?今の時代とどういうところがシンクロする?といったテーマでいくつかの質問に回答してもらった。90年代を知らないからこそのフレッシュな解釈をぜひ読んでいただきたい。(質問作成:岡村詩野)
Interview with Nami Igusa, Koki Kato, Daiki Takaku
――ステレオラブというバンドのことを知ったのはいつのことでしたか? また、そのきっかけは?
井草七海(以下、井草):名前自体はだいぶ前から知っていましたが、今まで素通りしてきてしまっていました。実際に聴き始めたのは2年ほど前で、いかにも現代っ子な見つけ方ですが、Spotifyのレコメンドに現れたのがきっかけです。
加藤孔紀(以下、加藤): 今回のこの記事をきっかけに聴きました。
高久大輝(以下、高久):「ロックの歴史を遡ろう」と思う時期がこれまでの人生に何度かあったのですが(ほとんど途中で脱線してしまうのですが)、その3度目くらいのタイミングだったと思います。時期的には今から6~7年前とかですね。リスナーとして誠実ではないと思うのですが、某巨大動画投稿サイトを漁っていたときに出会いました。
――最初に聴いたステレオラブのアルバムはどれでしたか? そしてその時の印象は?
井草:『Emperor Tomato Ketchup』(1996年)です。フレンチ・ポップ風のストリングスがまずは印象的ではありましたが、よく聴いてみると、リズムの反復を軸に据えた構造、シューゲイザーを思わせるノイジーなギター・サウンド、そして作品を貫くリラックスしたヴォーカルとポップなメロディが、ある意味ごった煮のように共存しており、ポスト・パンク→シューゲイザー→ブリット・ポップというイギリスのロック・ミュージックの流れを1つの作品にパックしたかのような作品だと感じさせられました。
加藤:『Mars Audiac Quintet』(1994年)です。一つの作品の中にロック、ポップ、ネオアコ、電子音楽と複数の音楽が集合していて風景がぱらぱらと切り替わっていくような印象でした。例えば「Des Etoiles Electroniques」のような楽曲が直前までの流れを変えるように挿し込まれ、アルバムの風景を軽やかに変えていく。また、アルバム通してオルガンが鳴っていることで、風景が切り替わる中にもバンドのキャラクターが一貫している印象も受けました。
高久:おそらく曲は「Diagonals」だったので、アルバムでいうと『Dots And Loops』(1997年)ですね。今思うと彼らの評価を決定づけたといわれる『Mars~』から聴かなかったのはなぜかわかりません(笑)。最初の印象は、恥ずかしながら「いろんな音がするな」という漠然としたものでした。当時の自分の感覚だと、もっと歌に抑揚というか、エモーショナルなものを求めていた部分が強かったんですよね。ただその数年後聴き直したとき、すごくフレッシュに聴こえたんです。なにより音響的に楽しめて。偉大と言われる過去のバンドを聴くとき、ある程度そのときの音楽シーンを想像して楽しむことも多いですが、ステレオラブはそういったことを考えずに聴けるなとも思いました。これは結局、現在進行形のプロダクションに引けを取っていない、ということかと思います。
――なぜ、ステレオラブというグループは当時のイギリスのムーヴメントと無縁のまま、音楽的に冒険をし、その存在感を徐々に発揮できるようになったと思いますか? 彼らの具体的なその音楽的進化や冒険を例に出してその理由を推察してください。
井草:今回リイシューされる2作品に続くアルバムである『Emperor Tomato Ketchup』の段階での彼らは、ポスト・パンク→(マンチェスター・ムーヴメント)→シューゲイザー→ブリット・ポップ、と80年代から90年代のイギリスの、主にロック・ミュージックの潮流を総括するような作品を送り出したものと認識できそうです。その意味で、この当時の彼らはこれらのムーヴメントからの影響は多大に受けてはいるものの、それらを俯瞰し再構成するようなポジションにいたのではないかと思います。
ただ、そこではフランス人であるレティシア・サディエールの存在が影響してかフレンチ・ポップ的なアレンジが聴けたのも事実ですし、さらにその後の作品『Dots And Loops』(1997年)『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night (ミルキー・ナイト)』(1999年)などでは、ボサノヴァ~ブラジル音楽的な要素が強く顕れるようになっています。ポスト・パンク(ザ・スミスのような)からブリット・ポップ期に至るまでのイギリス国内のバンドは、その内容には幅があれどやはり“イギリス的”な音楽スタイル、イデオロギー、表現を何かしらのかたちで追究してきた部分があったと感じさせられますが、ステレオラブは早くから“イギリス的”なものから逸脱、あるいは前述のような国外の音楽の要素をブレンドさせていったことで、その後のガレージ・ロック・リバイバルとその収束以降の時代にあっても、独自の存在感を発揮することができたのではないでしょうか。
ちなみに、『Emperor Tomato Ketchup』が、当時『Millions Now Living Will Never Die』(1996年)というトータスの出世作を同年にリリースしたジョン・マッケンタイアのプロデュースであり、以降の数作についても彼が関わっていることも象徴的です。シカゴ音響派らしく、意図的に空白を残し空間を意識させるようなサウンド・デザインの追究に、彼らの視点がシフト・チェンジしていったことでますます当時のイギリスのシーンとは一線を画す存在になったのだと思われます。
加藤:ステレオラブのアルバムをリリース順に聴いていくと『Mars Audiac Quintet』までは一定のビートにギターとオルガン、シンセが重なっていくサウンドが印象的でしたが、『Emperor Tomato Ketchup』以降は大きく変化していくと感じました。例えばビートに関して、『Dots And Loop』ではジャズやハウスのようなリズムが一枚のアルバムに共存していたり、『Cobra And Phases Group Play Voltage in The Milky Night』ではブラジル音楽的、ときにはモータウンのようなファンキーなベースラインも聞こえてくるように、様々なリズムアプローチに挑戦しているように思います。また、この二作品に関しては様々なビートを取り入れながらも、ヴィブラフォンなどの楽器を使うことで例えばマーティン・デニーのようなエキゾチックを彷彿とさせるサウンド、そこに電子音楽を融合させている点もステレオラブのサウンドとして特筆していると感じました。そして、そういった彼らの進化が顕著なのは、寺山修司の作品から名づけられたと言われていたサード・アルバム『Emperor Tomato Ketchup』。トータスのジョン・マッケンタイアがプロデュースし、その手腕によって前作までのミドル・テンポなリズムやオルガンのサウンドは維持しながらも電子音楽を存分に取り入れ、ビートに比重を置いたサウンドになった。マッケンタイアが本格的にプロデュース、エンジニアリング、ミキシングを手がけたのが英国のステレオラブだったことはアメリカとイギリス、国を越えて両者に親交があったことを想像させました。
高久:今回リイシューされる彼らの初期作品のアナログ・シンセによるドローンとバッキング・ギターが混在する旋律は当時は実験的な試みだったのだと思います。だからこそクラウト・ロックと一言で回収されてしまうこともあるのだと思うのですが、そのサウンドはストーン・ローゼスやブラーといったロック・バンドのムーヴメントとは同調しきらない、かつアシッド・ハウスなどのレイヴ・カルチャーとも重なり切らないながら、バンド・サウンドとダンス・ミュージック、両方の成分を含んでもいます。それは彼らがフラットな位置で音楽を聴いていたことによって、もしくは(彼らは「シュルレアリスム(=超現実主義)」に影響を受けたらしいですが)目の前の音に対してとことん真正面から向き合っていたがため、結果的にそうなったのかもしれません。『Emperor Tomato Ketchup』や、私と彼らの出会いでもあった『Dots And Loops』でジョン・マッケンタイアと組み、ループ・ミュージックへと歩みを進めたのも、その後の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』でマッケンタイアとジム・オルークに交互にプロデュースを任せ、ラテン音楽の要素などを吸収していったことも、その姿勢はどれだけ音楽の方向性が変わっていったとしても崩れなかったことがわかります。あるいはリリックに対してマルクス主義的という人がいるように、彼らは商業的な成功を第一とはしなかったからこそともいえるのではないでしょうか。
――今回リイシューされる最初の2タイトルはセカンドとサードです。このあと彼らはより洗練された作品作りへと向かい、ブラジル音楽やフリー・ジャズなどの影響も受けていきますが、まず最初のこの2タイトルを改めて聴いてみて、歴史的にステレオラブを位置付けするならどういう系譜の上に置かれるべきだと思いますか? 具体的な先達(アーティスト名、バンド名)を出して、彼らの先輩格にあたるような存在、その道筋を自由に描いてみてください。
井草:ドアーズ~ソフト・マシーン / カン~クラフトワーク~ジョイ・ディヴィジョン / マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン。
規則的なビートを生かした、という点では、クラウト・ロック~ジャーマン・テクノ、そこを通過したジョイ・ディヴィジョンのようなポスト・パンクのアーティストの影響は無視できません。ですが、さらに遡るならば、60年代にはドアーズやソフト・マシーン(のファースト・アルバム)がすでに無機質なビートにオルガンの音色を組み合わせたような楽曲を生み出していて、今改めて聴くとステレオラブと共通する部分も多いように感じられます。カオス的なレイヤーがもたらす”うねり”をウワモノに乗せながらも、無機質さを崩すことのないステレオラブの初期作品のあり方は、これらの規則的なビートとうねりを伴ったサウンドという2つの要素がぶつかり合うことで生まれる、サイケデリックな化学反応を探究する実験性を持ったアーティストの系譜に位置付けられると思います。ちなみにそういう視点で考えてみると、淡々としたリズム・セクションに、空間を捻じ曲げるかのように、歪み、うねるギター・サウンドを重ねて独自の音像を作り上げた、あのマイブラもまた、(ステレオラブより若干先に活動を始めているものの実質同世代ではありますが)同じ系譜の、いわば“いとこ”のような存在と言えるかもしれません。
加藤:ロウファイなバンド・サウンドとレティシアの素朴でかつ憂いのある歌声の組み合わせは、ポストパンクのようなジャンルや既存の価値観を飛び越え刷新を行うことの延長線上にあったと思います。特にこの2作には、例えばヤング・マーブル・ジャイアンツがそれまでのパンクになかった静けさと一定の熱量をうまく共存させながらロウファイなサウンドを生み出したことに近いものがある。また、レティシアの歌声を聴いたときに真っ先に浮かんだのは、彼女の少し先輩にあたるエブリシング・バット・ザ・ガールのトレイシー・ソーンのことでした。パンクを好みながらも、ジャズやボサノバ、エレクトロニカなど様々な音楽を取り入れEBTGで思考錯誤するトレイシーの姿は、ステレオラブ(レティシア)の実験、刷新ともリンクしてくると思いました。
高久:彼らはイギリスのバンドながらヴォーカルはフランス人であるレティシアが務めており、今回リイシューされるファースト、そしてセカンドは特にそのキャリアの中でも抑揚が少なく、サウンドを際立たせながら流れるようにリリックを届けています。「特異なサウンドに対してどのようにアプローチしていくのか」そんな歌のあり方に立ち向かった先駆者として同じフランス人でもあるブリジット・フォンテーヌを挙げたいです。彼女はレティシアと比較すると歌自体にも実験的な要素を持ち込んでいたと感じますが、音楽的な探究の日々やその後共作することも含めて重なる部分も多いと思います。
――中期から後期にかけてのステレオラブは、ジャズ、R&B、ヒップホップ、エレクトロなどを横断する今日のアーティストたち(ロバート・グラスパー、サンダーキャット、フランク・オーシャン、ジェイムス・ブレイクなど)のルーツに置いてもおかしくないようなところが出てきますが、まだ初期の段階ではどちらかといえばニュー・ウェイヴ、ノイズの要素が強い印象です。ステレオラブのその後の系譜を、現在のアーティストたちになぞらえて、文章交えて辿ってみてください。彼らの後輩世代をどのように配置しますか?
井草:私がステレオラブのその後の作品で特に驚かされたのは『Dots And Loops』(1997年)です。組曲のような構成になっている「Refractions of the Plastic Pulse」では、ピコピコと規則的な信号(パルス)を思わせるエレクトロニックな装飾とフリージャズ的なドラムが1曲の中に代わる代わる現れ、その組み合わせの妙に惹きつけられました。リズムという観点でも彼らが確実に進化した1曲だと思いますし、それらは現代においてはフライング・ロータスや彼のレーベル《Brainfeeder》のルイス・コールへのつながりを想起させるものでもあります。
また『Sound-Dust』(2001年)以降では、ラウンジ・ミュージック~ブルーアイド・ソウル~AOR的な楽曲も増えていきますが、同時に、一貫してアナログ・シンセ風のサウンドをアイコニックに用いてスカスカとした空虚感のあるサウンドも志向しているのが印象的です。こうした手法は、直接的にはトロ・イ・モアなんかに継承されているように感じさせられますし、さらに飛躍させてみるならば、ジ・インターネット、とりわけ今や各所で引っ張りだこであるメンバー=スティーヴ・レイシーの、バウンシーでスカスカなギター・サウンドが支持されている事実にさえも相通じるかもしれません。
加藤:『Cobra And Phase Group Play Vltage In The Milky Night』を聴いたとき、昨年の来日も記憶に新しいポルトガルのミュージシャン、ブルーノ・ペルナーダスを思い出しました。ブラジル音楽などに影響を受けたリズムワークとジャズを取り入れたサウンド、時折顔を覗かせる電子音楽とミニマルなボーカルが混ざり合うスタイルは、ブルーノと共通する部分が多いです。また、優しくも時に物悲しさを感じさせる歌声、作品ごとに電子音楽を取り入れたりとスタイルを変化させるエクスペリメンタルな姿勢はスフィアン・スティーブンスとも重なります。ステレオラブの幅広い、既成概念にとらわれない創作の姿勢がこういったミュージシャンに受け継がれていると感じます。
高久:3作目以降は、トロ・イ・モアなどにも影響を与えている印象ですし、ブラッド・オレンジを聴いてもそれは感じます。ポップでありながら複雑で、特に『Cobra~』にはジャズの要素も多分に持ち込まれているので、そんな現在進行形の音楽の隣に置くことだってできると思います。ファースト、セカンドを聴いていて特に抑揚を抑えたレティシアの歌に注目すると日本のHomecomingsを横に並べても面白いんじゃないかとも思いました。
――彼らの貢献の一つに、ムーグのようなアナログ・シンセを流行らせたことが挙げられます。いわゆるストレートなギター・ロックとは異なるバンド・アンサンブル、音作りについて、どういうところが今聴いても新鮮だと感じますか?
井草:ストレートなギター・ロックと比べると、音の厚み、レイヤーの作り方が根本的に違うと感じさせられます。ギター・ロックでは、当然ながらギターをストロークでかき鳴らすことによって音の壁を作るようにして厚みをもたらすことしかできませんが、そうなると比較的のっぺりとしたアンサンブルになりがちです。他方、キーボードや、メロディ部を担えるくらい自由度の高いデジタル・シンセと比べて、アナログ・シンセはあくまで“信号”としての音を発することがメインになってきます。けれどだからこそ、バンド全体の音像そのものに余白を残したまま、その間を縫うように配置される、コラージュ的な装飾になり得ると同時に、レイヤーとしての役割も果たすことができるはずです。結果として、ストレートなギター・ロックよりも立体感が生まれるのに、全体のアンサンブルとしてはスカスカとした軽さも感じさせるサウンドになっているーーという点が新鮮だと感じます。
加藤:アナログ・シンセの一定ではない音の揺らぎや、絶妙に不安定な響きは、聴き手に良い意味で違和感を与えてくれると思います。現在にあるようなラップトップを使用して音を視覚で認識しながら端正に楽曲を作り奏でていく職人的な音楽も好きだと思う一方で、アナログ・シンセのリアルタイムで音が変化、揺らいでいくサウンドは動的でライブのような、あるいは即興のような感覚を思わせるので新鮮だと感じました。
高久:ギター・サウンドとアナログ・シンセの重なりは今聴いても新鮮だと思います。3、4作目とより洗練されていったものの方が面白く聴ける方も多いと思うのですが、ギター・サウンドがロックの象徴としてヒップホップなどに取り入れられている今、彼らが示した方法は面白く映るのではないでしょうか。もちろん、この時代の低音に関しては物足りなさを若干感じますが、それによって実験的でありながら柔らかで軽やかに仕上がっているといえるかもしれないですね。また、バンドというものがメイン・ストリームへ食い込むのが難しくなっている今の時代、どうやってアプローチしていくかのヒントにもなりそうです。
――昨年、活動再開を発表し、今年はスペインの人気フェス《Primavela Sound》(5月30日~6月1日開催)にヘッドライナー級で出演することも発表されています。このタイミングで再結成し、彼らの全盛期を知らない世代から歓迎されているのは、ステレオラブのどういうところが評価されてのことだと推察しますか? 現在の音楽シーンの傾向や、これから求められている方向性を考慮した上で、ステレオラブの現在の再評価のポイントをズバリお答えください。
井草:ステレオラブは90年代から00年代にかけて活躍していたバンドではありますが、アナログ・シンセを用いたどこかスカスカとしたサウンドと、イギリスのロック・ミュージックを俯瞰しながらもそこにとらわれることなくフレンチ・ポップ~ボサノヴァ~AORなんかを混ぜ込んだ洒脱なアレンジに手を伸ばしていった彼らの音楽性は、ちょうど今(サンダーキャットの『Drunk』以降の傾向か)70~80年代のAORへの再評価が高まっている中においてピッタリとハマるものであるという点が、評価の1つのポイントだと考えます。また、その上で、エレクトロニックとフリージャズを組み合わせたような大胆な楽曲構造は、《Brainfeeder》勢とも相通じるところもあると言えます。だから、彼らの再評価はただの懐古趣味というのではなく、彼らの音楽的なルーツとそこからの進化の過程がまさに今の音楽シーンを予見するようなものだったからなのでしょう。
また《Primavela Sound》は白人ロック/ ポップのアーティストと、R&B~ヒップホップのアーティストがかなりバランスよく出演するのが特徴的なフェスですが、ステレオラブはその二極の架け橋にもなる存在としてちょうど位置付けられると思います。そういう意味でもこの《Primavela Sound》にヘッドライナー級で迎えられるというのは必然と言っていい出来事だと感じさせられました。
加藤:今、現在と過去が交差することによって生まれる新たな響きの音楽を求められているのではと感じています。ステレオラブのエレクトロニカ、ジャズ、エキゾチシズムなどが交差して構築された音楽はまさにそうで、再評価に繋がっている要因だと考えます。ロックサウンドが一周したようなムードとヒップホップが隆盛する中で、私たちリスナーが求めるものは現在進行形の音楽ではなく、過去を再解釈し取り入れることで一歩先に行くサウンド。ステレオラブはそういった再解釈を行いながらポップミュージックとして世に送り出していた存在だと思うんです。そしてその組み合わせの妙は今聴くと非常に新鮮です。
例えば、ステレオラブ同様《Primavela Sound》のヘッドライナーのエリカ・バドゥは近年、自身の曲をクンビア調にアレンジして演奏し直して演奏するなどR&Bとルーツ・ミュージックの交わりを探求していることも近いアプローチかもしれません。そういった過去・現在を超越して音楽同士を混ぜ合わせていく感覚で、それをバンドで演奏することが今面白いと感じます。サンプリング的に抜き出していく感覚とは違って、あくまで交わる合流点を探していく答えのないサウンドメイク。決して過去の模倣ではなく、今の音楽との合流点を見つけ昇華させ、一歩先を目指す。そういう前衛的なステレオラブの姿勢がここにきて再評価されたのではないかと思います。僕自身が今そういう音楽を聴きたいと思うからなのかもしれませんが。
高久:現在はストリーミング・サービスの普及もあり、ジャンルというもので分けて聴くリスナーは少なくなったと思いますし、今後よりそういったある種の境目は薄くなっていくのだと思っています。そんな今だからこそ、当時からジャンルに縛られず音楽を作っていた彼らが求められるのは必然に感じます。この対談のお話を受けてから爆音でファーストを聴いていたら、すごくかっこいいなと思って、時を超えてそう感じたことになんだか泣きそうになりました(笑)。当時実験的と評されたものは現在のジャンルを飛び越えて組み合わせるプロダクションと重なりもするかなと思ったりも。あと音で溢れているのに窮屈な感覚がなくて、空間が意識されているのも現代的なポップ・ミュージックと並べて聴きたくなるポイントかもしれないです。
■Stereolab Official Site
https://stereolab.ochre.store/
■ビートインク内アーティスト情報
https://www.beatink.com/products/list.php?artist_id=88
Text By Nami IgusaDaiki TakakuKoki Kato