「間で存在する」ための、アンビエント/フォーク・ミュージック
カリマ・ウォーカーはチュニジア移民の母を持ち、自身の故郷であるアリゾナ州ツーソンを拠点として活動するシンガー・ソングライターである。本作はウォーカーにとって約4年ぶり2枚目となるフル・アルバムであり、バック・ミーク(ビッグ・シーフ)『Two Saviors』や、昨年ウォーカーと連名でEP『Among Horses V』をリリースしたケイティー・カーヴィー『Cool Dry Place』といったカントリー、フォーク・ミュージックの良作を今年になって矢継ぎ早にリリースし、頻繁にその名前を目にするようになったテキサスはオースティンのインディー・レーベル《Keeled Scales》と、ウォーカーの前作『Hands in Our Names』(2017年 ※オリジナルは2016年にセルフ・リリース)をリリースしたシカゴの《Orindal Records》とのダブル・ネームのもとリリースされている。《Orindal Records》はジア・マーガレットによるアンビエント・フォークの快作『Mia Gargaret』(2020年)をリリースしたレーベルとしてその名を目にしたこともあるだろう。本作の制作にあたり、ウォーカーは本来であれば2019年にニューヨークで録音を予定していたのだが、自身の病気によりそれは中止となった。そして再度ニューヨークでの録音の機会を伺っていたが、新型コロナウィルス感染症によるパンデミックの影響のためその実現も難しくなる。そこで、ウォーカーは自身のホーム・タウンであるアリゾナ州ツーソンに急ごしらえで構えたホーム・スタジオにて長い時間をかけ、ほぼ一人でレコーディングやアレンジメントを行いながら本作を作り上げていった。そのような本作の特徴は《LOUD AND QUIET》のインタビュー記事にヒントをもらうならば「間で存在すること」だといえる。それは、本作に収められたサウンドとテーマを縫合するキーワードでもある。
本作をサウンド面から見ていけば、ウォーカーの音楽的ルーツたる素朴なヴォーカルとロウなアコースティック・ギターを伴ったフォーク・サウンドと、ポーリン・オリヴェロスをフェイヴァリットとしてあげることからも読み取れる瞑想的なアンビエント・サウンドやフィールド・レコーディング、テープ・ループ、ノイズ、シンセサイザーなどの組み合わせにより構築されたダークでアトモスフィックなエクスペリメンタル・サウンドを折衷的に作品中に配置し、時に一つの楽曲の中にも混在させるという構成が印象的。そのサウンド構築のバランス感覚は、前作『Hands in Our Names』から本作まで一貫しているウォーカーが生み出す音楽の最大の特徴でもある。例えば、「Reconstellated」で耳に飛び込んでいるミニマルな電子音からなるドローンと後から合流してくる物悲しそうに響くアコースティック・ギター。「Softer」での朴訥としたギター・サウンドを土台とし曲後半に表出してくる、不穏な歌声とノイズの混交。空間的なエコー処理がされたボーカルに並走するピアノとドローンがサウンド・バランスを交互に入れ替えながら展開される「Window Ⅰ」に満ちる荘厳な雰囲気は、私たちを夢想的な世界へと連れ去っていく。しかしながら同曲中盤にかけフェイドインしながらアリゾナの砂漠を吹き渡る風音のフィールド・レコーディングが登場することで、微睡みの中にあった意識は、急に現実の中へと連れ戻されていく。
そのようなサウンドを持った本作のハイライトとなるのは13分にも渡る「Horizon, Harbor Resonance」である。カオティックに加工された声とゆがみながら流れる電子音のループによってまとわされた幻想性のもとで思考の輪郭が溶け始めるような感覚を覚える前半部分の相対的に平坦な展開から、小鳥の鳴き声のフィールド・レコーディングとウォーカーのくぐもった歌が登場すると思ったとたん、耳を刺すような電子音へとスイッチングし、それが永遠を思わせるような長さで続いていく。すると、思考の雫は端から流れ出すのをやめ、意識は明晰さをとりもどしていく。さらに曲の終盤には、電子音が鋭利な輪郭を放ちつつ混濁していきながら風音のフィールド・レコーディングや録音音声が私たちの耳元へと届き、ぼやけた思考の淀みは取り払われ完全に意識が覚めていく。それに続く、本作のタイトル曲であるアコースティックなフォーク楽曲の「Waking the Dreaming Boby」でウォーカーが自身の目の前で歌う姿を見たと思えば、最終楽曲の「For Heddi」では再び瞑想的なドローンとループする電子音が現実と夢の境界をさらにぼやけさせていく。そのような複数的なサウンド・カラーと楽曲の構成をもって意識の内外を行き来していくような作品性を内包して本作は成立している。よりサウンドへと焦点化すれば、ウォーカーの音楽制作にも影響を与えたという、相対的にシンプルな(バンド・)サウンドと、13分にも及ぶノイズ楽曲にみられる前衛的なサウンドを同居させたウィルコ『Ghost Is Born』(2004年)や、盟友ジム・オルークを初めて制作陣へと迎え音響的、実験的アプローチに果敢に取り組んだ『Yankee Hotel Foxtrot』(2002年)の作品性ともつながりうる感覚が本作にもある。
間にあること。ウォーカーにとり、それは本作の壮大で瞑想的なサウンドやその素材となるフィールド・レコーディングが示すようにアリゾナで生きるウォーカーの存在条件である生活環境としての砂漠やその上に広がる星空、目の前に視界を越えて連なる山脈といった自然環境と自己との境界線がぼやけ、時には重なり、時にはその環境が耐えきれないほどの異物として自己の前へと立ちはだかる、そのただなかで自身の生を感じ取り、音を生み出していくこととしてある。ツーソンにあるウォーカーの自宅から少し離れたニューメキシコの砂漠のなかにある建物で録音された前作は、そこでウォーカーが経験した自然との触れ合いや思考の展開が同作の壮大で神秘的な雰囲気を支えていたが、ウォーカー自身が本作の《Bandcamp》に寄せたコメントにもあるようにウォーカーにとり作品制作における(自然)環境からの影響という側面は本作までを貫く大きなテーマでもあるのだ。さらに本作の意識の内外を行き来するようなサウンド構成が表現するのは一人の人間が自身の内側にある深淵へ自分を探すためにどこまでも潜り込んでいくことと、自己のなかに織り込まれ自らを構築しさえする他者=「現実」との間で、悩み、逡巡し、思考を繰り返し、想像力を膨らませていくということだと読み取ることも可能だろう。
一日中肌身離さず身につけたスマートフォンや、家の内外を問わず数多存在するインターネットへと繋がった電子機器を通じ、現代を生きる人は常に人とモノとデータとつながり続けている。そのつながりはある種の安堵感をもたらすとともに、終わりなきコミュニケーションの連続から生じる不安と束縛の感覚を与えもする。つながりの両義性がひろがるこの社会の中にあって私たちはつながりの感覚から逃れきることはできない(そこから解き放たれる瞬間は「死」でしかない)。しかしそれでもつながりを相対的に捨て去り、既存の価値観や特定の利害関係、自らを縛る日常生活を構成する集団(関係)から逃れたどこかで、つまり、つながりの間で、価値の相対化のために思考と想像力を広げることは私たちがこの社会を生き延びるための条件でもあるだろう。網の目のように張り巡らされた過剰なコミュニケーションを遍在させるメディア環境が自らを包み込むこの世界にあって、意識的にその「間にあろうとすること」。瞑想的なアンビエント/エクスペリメンタル・サウンドとロウなフォーク・サウンドを伴い、砂漠や山々、星空といった大自然のなかで自己と環境の薄れゆく境界と、逃れきれない現実感覚を、その往還のもとで感じながら制作されたであろう本作に響き渡るのは、きっとそのようなメッセージでもある。(尾野泰幸)
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