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“去来” と “交差” をたどる、一筆書きの戦後音楽史

16 November 2021 | By Ken Kato


青木深
『めぐりあうものたちの群像――戦後日本の米軍基地と音楽 1945-1958』

名著であり、大著であり、奇書である。

この『めぐりあうものたちの群像――戦後日本の米軍基地と音楽 1945-1958』は、文化人類学者の青木深が12年の歳月をかけて完成させた調査研究である。戦後日本のポピュラー音楽史を紐解くうえで、好むと好まざるとにかかわらず(ひとつの) 起点として考えられる、米軍基地“文化” なるもの——この問題をめぐっては、ここ20年ほどの間に優れた研究が複数発表されているが(*1) 、なかでも本書は調査密度や徹底度において突出しており、現在に至るまで比類なき存在感を保ち続けている。

1945年8月28日に始まる連合国の対日占領政策の中で、全国各地の軍事施設や民間施設等は接収され、駐日将兵のための施設へと作り替えられた。旧陸軍多摩飛行場(東京都) は横田空軍基地へ、旧海軍呉鎮守府(広島県) は英連邦軍司令部へ、東京宝塚劇場はアーニー・パイル劇場へと転換された。こうした軍関係施設は、朝鮮戦争(1950〜1953) においてはアメリカを主とする国連軍の前線基地として用いられたほか、1952年のサンフランシスコ平和条約発効によって日本“本土” 占領が幕を閉じたのちも、冷戦・安保構造のなかで米軍関連施設は長く残置され続けてきた。(*2) 本書が扱う1945年から58年という期間はこのような進駐政策のピークにあたり、およそ数百万人の米軍関係者が日本を訪れ、また去っていったのである。

主として米軍による占領・進駐構造は、日本のポピュラー音楽史にも決定的な影響を与えた。基地内や周辺の米軍将兵向けクラブやダンスホールでは慰問のショーが行われ、敗戦後の日本人ミュージシャンにとってはきわめて割りの良い職場となった(こうした施設の建設・維持費やギャラは日本政府の負担であった) 。守安祥太郎、原信夫、秋吉(穐吉) 敏子、ハナ肇、中村八大、渡辺貞夫をはじめとするジャズ・プレイヤーや、のちにホリプロを設立する堀威夫、ナベプロを設立する渡辺美佐・渡辺晋夫妻などが、こうした基地関連の仕事を足掛かりとしてキャリアを築き上げていった。また、米軍基地関係者向けに放送されていたラジオ放送であるWVTR(1952年以降はFEN=Far East Network) からはアメリカのヒットチャートがいち早く放送されており、基地周辺に居住する音楽好きの日本人にとっては長らく重要な情報源であり続けた(*3) 。団塊世代をはじめ、終戦直後に生まれ育った音楽関係者の多くが、FENに聴き入っていたという回想を残している。その後、1960年代以降になると基地の影響力は相対的に低下していくが、福生、横須賀、狭山、岩国、佐世保、本土復帰した沖縄といった“基地の街” においては、その後も長きにわたって独自のサブカルチャーが形成されていくこととなる。もちろん、戦後ポピュラー音楽史のすべてを“アメリカ/日本” の二項対立によって説明するのは全く不正確なことであるが、ひとつの大きな影響源として、米軍の基地戦略が日本に及ぼした諸影響を知っておく必要性はあるだろう。

そうした重要なテーマを扱った研究として、本書を“比類のない” ものとしている要素をごく簡単に整理すれば、①調査それ自体の質の高さと充実度、②“去来” と “交差” を一筆書きで辿り続ける独自の記述スタイル、という2点に集約される。

まず①について。本書の調査密度は、これまでに発表されてきたポピュラー音楽研究書の中でも最高レベルと断言して差し支えない。研究書籍や論文、人物評伝、郷土史、新聞、雑誌、パンフレットにフライヤー、そして総勢150人以上(!) にも及ぶインタビューを元に「米国内外の各地から入隊した米軍将兵(駐留した将兵、朝鮮戦争の帰休兵、入院中の将兵ほか) 、米軍将兵の家族、彼らの恋人やダンス相手、「買春相手」、米軍からの慰問団、日本人バンド(ジャズ、カントリー&ウエスタン、ハワイアン、ラテンほか) 、フロアショーの芸人(曲芸、奇術、アクロバットほか)や斡旋業者、米軍クラブやキャバレーの従業員、楽器、楽譜、レコード、土産物、写真」 (*4) をめぐる膨大なエピソードが収録されている(*5) 。とりわけ既存の研究では手付かずの領域となっていた、米軍サイドの記録や証言へ網羅的な調査を行っていることは大きな学術的貢献であり、なかでも極東地域に滞在する米軍関係者向けに発行されている英字日刊紙「Pacific Stars and Stripes(S&S)」は本書の重要な参照元となっている(*6) 。また600頁以上にわたる大著でありながら、史料批判やトライアンギュレーション(複数のデータに基づいて裏取りを行うこと) などアカデミック・ライティングの基礎が徹底されており、正確性が担保されている。

しかし、本書を決定的に特徴づけているのは②の記述スタイルである。青木は、前述した調査記録を項目・時系列順に整理するのではなく、いわば“一筆書き” の連想ゲームのように、トピックを連鎖的に記述していくのである。少し長くなってしまうが、本書の雰囲気を掴んでいただくために、ある箇所を抜粋してみよう。

私は、1952~53年に「ハット・メス」で勤務した人物、ジャック・メリック(p) から当時の回想をEメールで送ってもらった。彼の父方の祖先は、1730年頃にドイツで宗教迫害を受けて渡米した一家であり、ジャックはこのメリック家の来米から9世代目にあたる。5歳でピアノを始めた彼は、オベリン音楽院卒業後の1951年夏に徴兵され、52年1月に来日、当初は朝鮮戦争に送られる予定であった。しかし、キャンプ・ドレイク(*7) でのプロセス(*8) 中に入隊前の経験が着目され、横浜R&Rセンター(*9) のスペシャル・サービス局への配属に変更された。彼の音楽経験を考慮し、軍当局は慰問業務の適任者と判断したものと思われる。(中略) ジャック・メリックは、米国人コメディアンのジム・マックジョージ、タップダンスの小林シスターズやナンシー梅木らと共にショーを編成し、各地の基地にも出演した。巡演した米軍基地としては、三沢、立川、横田、座間、神戸、岩国、別府などを彼は記憶している。横浜でも「ハット・メス」だけで演奏したわけではない。たとえば伊勢佐木町のサービス・クラブにも出演した。このクラブは、不二家伊勢佐木町店を接収して「ヨコハマ・クラブ(サービス・クラブ15) 」と命名したものをさしている。戦後の横浜をフィルムに収め続けた人物、奥村泰宏はこのクラブの写真も撮っているが、その写真ではガラス張りの2階から伊勢佐木町通りを眺める白人兵の姿が写っている。奥村はまた、マンドリンをかき鳴らしながら「ラバウル小唄」を歌っていた女性の姿も撮影している。彼女は「ラバウルばあさん」とも「マンドリンばあさん」とも呼ばれ、戦後の横浜を語った文章や座談会ではたびたび回想されている。奥村の写真では、破れた着物を着用し、弦が半分ほど失われたマンドリンを弾き歌う瞬間がフィルムに焼きつけられている。東野伝吉はこう回想している。米兵たちは、飛び跳ねながら弾き歌う彼女に向かって「喜んでお金を投げた」。私が取材した元・米軍将兵のうち、横浜を去来した人物は約20名にのぼる。しかし、「ラバウルばあさん」のことを回想したものはいなかった。(*10)

本書における青木の記述スタイルはきわめて独特であり、少なくとも日本のポピュラー音楽研究においては類似例が見当たらない(本文中では、触発された先行研究として鶴見良行の『ナマコの眼』(1993) や山口昌男の『「敗者」三部作』(1995~2001) が挙げられている) 。人名、地名、店名、経歴、大小を問わない様々なエピソード……通常の論文であれば脚注に入れるか、あるいは省いてしまう情報や固有名詞を、青木は偏執的なほど仔細に書き連ねていく。逆に戦後史/音楽史のどちらにおいても、“大文字の歴史” へ言及する箇所は、冒頭の概説を除いてほぼ存在しない。まるで個々の物語が、そこに回収されることを恐れるかのように。

こうした特異な記述スタイルを選択した理由として、青木は“去来” と “交差” という2つのキーワードを提示する。“去来” とは文字通り人や事物が“来ては去っていく” 移動/軌跡のことであり、“交差” とはそれらが“すれ違う” ことを指す(片方だけが相手を認識していたケースや、あるいは双方とも意識していなかったケースも含まれる) 。つまり誰かが、どこかの場所へ移動して、他の誰かと、ある一瞬において“すれ違う” こと——、これが“去来” と“交差” である。

本書における青木の狙いは、個々の事象を大きな歴史の流れへと場所づけることではない。先述した引用部でいえば、ドイツ系移民の家系に生まれた米軍将兵のジャック・メリックが、1950年代初頭において日本の横浜のサービス・クラブに(あるいは、巡演で出向いた他の都市に) “去来” し、任務であるショーや自由時間のなかで日本人パフォーマーやラバウルばあさんと “交差” した、その一瞬の、濃密な“生きられた時間” へ限りなく迫ること。著者である青木自身もまた、調査という行為の中でその瞬間へと後天的に “交差”  していくこと。そして、本来であれば時の流れの中で永久に消失したであろうそれらを、文字という媒体で書き残していくこと。これこそが本書の主眼であり、根本的な執筆目的となっている。(*11)

ゆえに、本書には特有の読みづらさがある。人や場所といったリンクを介して次から次へとエピソードが跳躍していくために、少し油断しただけでも話の筋を見失ってしまう。文章の情報密度が極めて濃く、しかも省略や概念化を“意図的に” 避けているために、読者は膨大な固有名詞と真っ向から格闘しなければならない。また、当時軍楽隊として駐留していたハンプトン・ホーズ(*12)や、慰問団として来日したサッチモやオスカー・ペティフォードなどのビッグネームも一部現れはするものの、ほとんどの人名は歴史の中に埋もれていたミュージシャンや軍関係者だ。タイトルの通り、本書は有名/無名な音楽家たちが、ほとんど等価で登場する“群像” 劇なのである。(*13)

では、そこまでして追い求めようとしたものはなんだろうか? 青木は「米軍基地の音楽をめぐる調査活動を通じ、筆者は、濃密に生きられた時間/瞬間の数々が存在したことを知ってしまった」ことが、直接的な研究動機であると本書冒頭で述べている(*14) 。大文字の歴史のなかでは真っ先に捨象されてしまうであろう、無名の人物の個人的な体験。血みどろの戦闘が続く朝鮮半島から、たった5日間の休暇を得るために来日した一将兵が、基地近くのダンスホールで体験したであろう音風景。録音されることも、芸術として評価されることもなく、また何をもってしても追体験が不可能である、濃密な一瞬。青木がこの大著を通して表したかったのは、こうした幾多の瞬間の折り重なりそのものに意味を見出すことである。流れた途端に消え去ってしまう、けれども一瞬を永遠のものへと昇華してくれる“音楽” の本質的価値へ、“記述” という正反対の手法をもって迫ろうとする実験である。そこまでしなければならなかったのだ。それは生きられた時間を知ってしまった者のつとめなのである。

もちろん、青木が調査の中で得た感覚を、読者が同様に追体験することは不可能である。調査対象者と話した経験どころか、彼ら/彼女らの存在すら知らなかったのだから。しかし本書を読み進めながら日常生活を送っているうちに、この記事を書いている私もまた、彼ら/彼女らと“交差” していることに気づき始めた。

私が在籍している大阪大学豊中キャンパスは、大阪府豊中市の待兼山(まちかねやま) という小さな山の上にある。阪急宝塚本線の石橋阪大前駅で降り、阪大坂と呼ばれる長い坂を登り切ると、中山池という山上湖の向こうには豊中から伊丹市、宝塚市に至る風景が広がる。その遠望のうちに、時折ジャンボジェットの巨影が映る。すぐ目の前にある大阪国際空港(伊丹空港) へ離着陸する旅客機だ。もともと大阪第二飛行場として1939年に開港した大阪国際空港は、戦中に軍用の伊丹飛行場へと改修され、戦後には伊丹空軍基地(イタミ・エアベース) として米軍に接収された。朝鮮戦争中、この伊丹空軍基地は朝鮮半島との玄関口として用いられた。戦地から休暇のために関西方面へ来日する兵士たちは、まず伊丹空港へ降り立ったのち、大阪・奈良・神戸方面の休暇施設へ送られたのである(*15) 。伊丹空港から阪急宝塚本線蛍池駅までの区間は横文字の看板が並ぶ“テキサス大通り” へと様変わりし、にわかに歓楽街と化した通りでは“パンパン” と呼ばれた街娼たちが客を引いた。(*16) 

大阪大学豊中キャンパスから、中山池を挟んで大阪国際空港方面を望んだ風景

 

今から約70年前の1952年、プエルトリコ出身の米軍将兵である24歳のマルケスは朝鮮戦争の前線で歩兵として6ヶ月従軍したのち、5日間の休暇のために伊丹空港へ到着し、のちに大阪R&Rセンター(現在の大阪メトロ淀屋橋駅周辺) へと移動した。そこで彼はキャバレーを訪れ、ボビー・サチコと名乗る日本人娼婦を“買い” 、残るすべての時間を彼女と共に過ごしたのち、ふたたび戦地へと派遣され、負傷してソウルの病院へ入院し、翌53年にプエルトリコへと帰郷した(*17) 。青木はマルケスへインタビューする中で、そこに構造的な暴力性を認識しつつも、彼の口ぶりにボビー・サチコと名乗った女性への“敬意” のようなものを感じ取ったと書き残している。また、彼はインタビューの終わり際、青木に「君は『シナの夜』を知っているか?」と聞き、その一節を口ずさんだという(*18) 。この箇所を読んだ私は大阪大学から蛍池まで歩き、そこから阪急電車と地下鉄を乗り継いで淀屋橋へと向かい、土佐堀川のほとりを歩きながら渡辺はま子の歌う「支那の夜」をSpotifyで聴いた。その瞬間、私もまたマルケスやボビー・サチコと“交差” していたのである。

奔流のような個々の記録と記憶に触れながら、私は自らが意識しないまま通り過ぎていたいくつもの“交差” のことを思う。朝鮮戦争で凍傷を負って奈良のリハビリ病院へ送られ、回復したのちに出向いた京都(かどこか) の米軍クラブで「グッドナイト・アイリーン(*19) 」に聴き入っていた米軍将兵、ウォーランド・キーシュのことを思う(*20) 。フィリピンに生まれ、抗日ゲリラとして銃を取り、軍人となって朝鮮戦争にまで赴き、つかのまの休暇中に東京のナイトクラブで「ダヒル・サヨ(*21) 」を歌った(かもしれない) フィリピン軍将兵、メルリーノ・オファガ・カラバーレのことを思う(*22) 。私もまた、彼ら/彼女らによって生きられた時間が存在したことを知ってしまったのだから。このように本書は音楽の歴史を考えるとはどういうことか、という根本的な問いを投げかけてくれる1冊である。(加藤賢)

*1 本書は踏み込んだ内容が多いため、東谷護『進駐軍クラブから歌謡曲へ――戦後日本ポピュラー音楽の黎明期』(2005年、みすず書房)  および難波功士(編) 『米軍基地文化』(2014年、新曜社) を併読するとよい。
*2 なお、本書においては当時の政治的/社会的条件を鑑み、沖縄については研究対象から除外している(詳細は本書58-59頁を参照) 。日本本土とは前提条件が大きく異なる戦後沖縄のポピュラー音楽史については、東京藝術大学博士後期課程の澤田聖也が意欲的な研究を行なっている。
*3 WVTRは東京地域のコールサイン名。米軍の将兵や軍属、その家族向けに放送されていた英語放送であったが、電波という特質上周波数さえ合わせれば基地周辺の日本人住民でも放送を聴くことができた。インターネットなど存在せず、輸入盤レコードは希少かつ高価であった時代において、WVTR/FENで放送される音楽番組はタイムラグなく米国の最新ヒット曲を聴ける唯一無二のチャンネルであった。
*4 本書12頁。
*5 図表も豊富に収録されており、とりわけ本書冒頭18-19項に収録されている「日本「本土」の米軍基地所在図 1945-1958」は(沖縄を除く)日本全国に存在した基地関連施設の情報がまとまっているため、単体でも資料価値が高い。
*6 参考文献中の付記(本書575頁) によれば、S&S紙のアーカイブは一橋大学の附属図書館(製本新聞) と経済研究資料室(マイクロフィルム) に保管されていたものを1945年10月~1958年12月分まで参照したとのことである。この作業ひとつとっても、そこにどれほどの時間が費やされているかは論を俟たない(S&S紙をこれほど網羅的に調査した音楽研究は本書以前に存在してこなかった) 。大学院生は参考文献を見るだけで“それが価値ある研究か否か” をおおよそ判別できるようになっていくものであるが、本書の参考文献を見るたびに私は、学術がいかに地道な努力によって支えられているかを痛感させられる。
*7 埼玉県朝霞市・和光市周辺に所在した米陸軍駐屯地。朝鮮戦争に赴く将兵は、ここで装備訓練を行なってから朝鮮半島へと送られた。
*8 派兵前・派兵後に基地で行われる諸準備のこと。
*9 戦時帰休制度のこと。R&RとはRest and Recuperation(休息と保養) の略称。6ヶ月から7ヶ月従軍した陸軍将兵は、日本各地に設けられた“R&Rセンター” にて5日間の休暇を過ごすことが許された(本書61頁) 。
*10 本書117-119項
*11 ゆえに本書は、占領下の日本を扱った先行研究においては中心的に扱われているトピック、たとえば戦勝国・アメリカ/敗戦国・日本という抗いようのない不均衡や、RAA(特殊慰安施設協会) の公娼や“パンパン” のような、占領構造の中で翻弄され、搾取された女性たちの存在、あるいは朝鮮戦争の“協力者” としてのオキュパイド・ジャパンといった事柄に対する批判のトーンが薄い面もある(青木がこうした諸問題に無自覚であるということではない。詳しくは本書54頁を参照) 。しかし、このような占領構造の“負の面” を取り上げたエピソードの絶対量は多い。また、誰がいつ何をしたか、という点が余さず書かれているということは、被害/加害主体を透明化しないということでもあるだろう。
*12 1954年、横浜・伊勢佐木町のナイトクラブ“モカンボ” にて、ハンプトン・ホーズが守安祥太郎、秋吉敬子、渡辺貞夫らと共に行ったセッションは『幻の “モカンボ” セッション ’54』というタイトルで音源化されており、日本のビバップ草創期を捉えた貴重な資料となっている。なお本書においては、従軍中のハンプトン・ホーズの正の面だけでなく、負の面についても言及がなされている。
*13 インタビュー調査が中心ではあるものの、彼らの話し言葉それ自体はあまり収録されていないので、その人物へ感情移入するハードルがやや高い。これは率直に“もったいない” と感じる。本編の合間には“間奏” としていくつかのサイドストーリーが紹介されているが、こちらは話し言葉を豊富に交えつつ当事者の心情を推し量れるようなものが多く読み応えがある。
*14 本書54頁。
*15 本書61頁。
*16 周囲には“刀根山ハウス” という士官向けの米軍ハウスも建設されており、返還後にも一部が大阪大学の施設として転用されている。
*17 本書178-182頁。
*18 「支那の夜」は、もともと1938年に日本で作られた中国風歌謡(大陸歌謡) の1つであり、1940年には李香蘭(山口淑子) 主演で同名映画にもなった。戦後は渡辺はま子や胡美芳によるカヴァー・バージョンが米軍将兵の人気を集め、いわゆる進駐軍ソングを象徴する1曲となっている。これについては青木深による論文「エキゾティシズムを歌う——進駐軍ソングとしての「支那の夜」と「ジャパニーズ・ルンバ」をめぐる歴史人類学的研究」(2013) に詳しい。
*19 「グッドナイト・アイリーン(Goodnight, Irene) 」はアメリカのフォーク・スタンダード。1933年に黒人ブルースシンガーのレッドベリー(Lead Belly) によって行われたものが最初の録音であるが、朝鮮戦争期には1950年に録音されたアメリカのフォークグループ、ウィーバーズ(The Weavers) のバージョンがヒットしていた。
*20 本書272-274頁。
*21「ダヒル・サヨ(Dahil Sa Iyo) 
」はミゲール・P・ベラルデJr.によって1938年に作曲されたクンディマン(タガログ語で歌われるフィリピンのラブ・ソング) の有名曲であり、現在に至るまでフィリピン人コミュニティの間で広く愛唱されている。本書では、朝鮮戦争当時、日本人ミュージシャンが「ダヒル・サヨ」を奏でるとフィリピン兵たちが泣きよってきた、というエピソードも紹介されている。
*22 本書382-383頁。


著者:青木深

刊行年:2013

タイトル: めぐりあうものたちの群像――戦後日本の米軍基地と音楽 1945-1958
出版社:大月書店
備考:第35回サントリー学芸賞受賞作(社会・風俗部門)

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