Back

パンデミック以降のジャパニーズ・インディー/オルタナの美学【スーパーカーの遺伝子 vol. 3】

20 September 2025 | By Shoya Takahashi / Yasuyuki Ono

【vol. 0】kurayamisaka、なるぎれ、新世代インディー/オルタナから再考する対談連載

【vol. 1】「青の系譜」とYUMEGIWAの話

【vol. 2】そもそもの話、「下北系」を考えなおす



Talk Session with Yasuyuki Ono and Shoya Takahashi (TURN editorial team)

▼目次

1.身体に沁み込んだシューゲイザー(的要素)?
2.MUISHIKI IDENSHI、もしくはOMOIDE IN MY HEAD
3.パンデミック以降のジャパニーズ・インディー/オルタナの美学(aesthetic)と未来
4.あとがき
 「スーパーカーの遺伝子」を考えるためのプレイリスト




身体に沁み込んだシューゲイザー(的要素)?

尾野泰幸(以下、尾):今回が第三回となりますね。まず《TURN》の記事の話から始めていきたいと思います。先日、ライターとしても活動している京都のレコード店「Meditations」のスタッフ/バイヤー、門脇綱生さんに先日《TURN》へ『J-POPの音楽的冒険 レアグルーヴ感覚で楽しむ日本のメジャーポップス』書評記事を寄稿いただきました。そのなかで偶然にも、門脇さんが下北系ギターロックのリバイバルに関して言及していました。門脇さんとしては「オブスキュアやニューエイジ、シティ・ポップに続く、新たなキーワードとしての“邦楽ロック・リバイバル”」という視点で、00年代のギターロック・バンドをとらえなおしている様子です。

個人的にもkurayamisakaやyubioriといった、人気を高めている現行のインディー/オルタナ・バンドたちが、たとえばASIAN KUNG-FU GENERATIONをこぞってリスペクトしている様子からも00年代ギターロック・バンドの影響力が高まっている様子を感じています。一方でこれはあくまで個人的な知識不足によるものなのですが、現在、“シューゲイザー”においてどのようなバンドがリバイバルし、どう影響を与えているのか、あまり思い浮かばないんですよね。

髙橋翔哉(以下、髙):そうなんですよ! 門脇さんの書評では、kurayamisakaをはじめとする日本のインディー・バンドの盛り上がりや、シューゲイザーのリバイバル、さらにsyrup16gやART-SCHOOLを代表とする“鬱ロック”など、私たちが今まさに見直し/これから観測していこうとしているシーンへの眼差しが感じられましたよね。

シューゲイザーのリバイバルについて、それこそ門脇さんが作成している影響力があるプレイリスト《遠泳音楽》を挙げてみます。このプレイリストはエイフェックス・ツインやパソコン音楽クラブなど、いわゆるシューゲイザーやギターロックの枠を大きく超えた音楽まで“Angelic Post-Shoegaze”というタームのもとで再定義しようという試みだと思います。シューゲイザーというジャンルはいまやある意味で普遍化した概念や美学(aesthetic)として、多くのバンドが内面化しているのだと思います。だからこそ、特定のバンドや曲を影響元として指摘するのが難しいのかも。

尾:なるほど。宇宙ネコ子、Parannoul、iVy…とこれまで言及してきたバンドたちと繋がる音楽もピックアップされていますね。シューゲイザーという、大別すればオルナタティヴ・ロックを構成するサブジャンルが下北系や00年代ギターロックでは一般化された音楽的要素としてそれぞれのバンドのなかに意識的にしろ、無意識的にしろ取り込まれているからこそ、形式やコンセプトとしてそれを代表するようなバンドがいないというのは納得感があります。

その視点をうけて、改めて門脇さんのプレイリストを参照してみると、下北系や00年代ギターロックのみならず、Every Little Thingや、初音ミクをフィーチャリングした楽曲、和氣あず未などもセレクトされています。セレクトされた膨大な数の楽曲を眺めるとシューゲイザー的な美学、概念というものはメインストリームのJ-POPや、ボカロ、声優ソング、もしくはアニソンといった00年代以降に育った少年少女たちの多くが思春期に触れてきたであろう音楽ジャンルに通底していた要素だったのでは、とすら感じてしまいます。かなりの飛躍を承知のうえですが、そうだとすればいま20代から30代前半のバンドたちからシューゲイザー的な要素が表出しているのは、必然であるようにも思えてきますね。サウンドだけでなくアートワークやリリックを含めた世界観全体として。




MUISHIKI IDENSHI、もしくはOMOIDE IN MY HEAD

髙:おっしゃる通りだと思います。無意識のうちに摂取せざるをえなかったカルチャーが、恣意的というよりむしろ自然な形で、それこそ遺伝子のように組み込まれているように感じます。映画『モキシー〜私たちのムーブメント〜』で主人公の女子高生が、ライオット・ガール世代の母親の影響でDIY的な活動を始めるエピソードとか、オリヴィア・ロドリゴが親の影響を通じてパラモアに触発されるエピソードとかが僕は好きなんですね。教養化されたサブカルやオタクカルチャーからの影響、もしくは社会的な決定論でもなく、家庭や個人的な事情を通じて影響が自然にDNAに組み込まれるみたいな話。

尾:確かに、特定のシーンやジャンルという存在を意識せずとも、何の気なしに自然と耳に入ってきているすりこみのような音楽聴取の在り方が集合的、無意識的に音楽のルーツを作っていることはありますよね。子どものころ、親の車のカーステレオから流れてきた松任谷由実とか(笑)。

でも、その話はすごく興味深くて、いまの若者が小さかった00年代にカーステレオで流れていた音楽の記録媒体はCDであることもあれば、レンタル店から借りたCDをダビングしたカセットテープないしMDだったとも思うんです。髙橋さんの意見とは少し相反してしまうかもしれないですが、先ほどいったような無意識的な経験はレンタル店という音楽産業の環境や、録音再生メディアの盛衰とその音響的特性によって、産業やメディアが可能にした聴取スタイルに下支えされていた。

それでいうと、“下北系ギターロック”やその背景を成していたシューゲイザーという音楽文化は、00年代に音楽にアクセスする手段のうち大きなウエイトを占めていたレンタルCDという文化と密接にかかわっていたのではないかという気すらしてきます。あと、自分の経験からいえばニコニコ動画やFLASH動画のまとめサイトで、小、中学生のころによく見ていたMAD動画に「K」や「ラフメイカー」といった初期BUMP OF CHICKENの楽曲が使われていて、みずから積極的にその音楽を選んでいたわけではないけどたまたま出会ってしまったというような感じでしたね。私にとって、たとえばBUMP OF CHICKENやGRAPEVINE、bloodthirsty butchers、ART-SCHOOL、syrup16g、NICO Touches the Wallsといったバンドはまさにニコニコ動画や、00年代に隆盛していた個人ファンのHPで知っていったバンドたちですね。

髙:能動的ではなく半受動的な受容という感じですね。レンタルCD店の話になると尾野さんらしさが出ますが(笑)、ひとつの世代の共通認識でもあるんですかね。あとスーパーカーは「98年の世代」って言いますけど、1998年はCDがいちばん売れた年でもありますよね。

私は97年生まれですが、個人のファンサイトの恩恵をあまり実感したことがないかもしれません。その話って、音楽を知る場が音楽雑誌から個人サイトへと移行していたタームだと思うんですが、それが現在ではウェブサイトからXの個人アカウントへと影響力のある場が移っている話に似ていて面白いですね。いやはや、bloodthirsty butchersからNICO Touches the Wallsまで、デビュー年代や音楽性は大きく異なりますが、共通の位相にあるバンドだと今でも思っています。そのような史観があるとは知りませんでした。

尾:そういうファンサイトって、私の観測範囲と記憶だけですが、いわゆる近年いわれているような“鬱ロック”をよくフィーチャーしていた記憶もありますね。もうサイトの名前も覚えてないのですが、私が中学生のころ頻繁に訪問していたBUMP OF CHICKENのファンサイトも、BUMPに似ている音楽としてGRAPEVINEやART-SCHOOL、the pillowsとかをピックアップして紹介していました。そこから、日本のギターロックへの興味が広がっていった記憶があります。

とくにBUMPについては、現在はYouTubeやnoteをメインに広がっているリリックや世界観の“考察”の場が、当時はそれらの個人ファンサイトやファンサイトに併設されている交流掲示板だったことから、BUMPやBUMPファンと個人ファンサイトの結びつきってすごく強かったのではないかと思っています。私が高校生になった2000年台後半ごろにはもう個人ファンサイトは下火になり、以降は髙橋さんがいうようなmixi、TwitterといったSNSのよりフォーマット化された個々人同時のつながりの場へファンが集う場所が移行していったような感覚もありますね。いずれにせよ、そのようなインターネット環境が醸成した“鬱ロック”的な音楽趣味というのはある気がしています。そして、それが髙橋さんがいうような個人にとって所与の音楽体験として自らが演奏する音楽にも取り込まれているというか。




パンデミック以降の国内インディー/オルタナの美学(aesthetic)

髙:鬱ロック……。シューゲイザーやエモの影響を受けたダウナーなJロックという印象がありますが、たとえば《Rate Your Music》などに集まる英語圏のネット民の音楽的嗜好が、大仰で長尺、ダークかつドープでサイケデリックなものに偏っているのと似ていますね。少なくとも、陽光が降り注ぐような健康的/身体的な音楽とはいえない。もちろん、エモやマスロックは十分に身体的だと思いますが……。

それで、近年のジャパニーズ・インディー・バンドの話に戻すと、これら直近の盛り上がりが2020年代、つまりパンデミック以降に始まったという点は、かなり重要だと思うんですよ。パンデミック以降のインドアでダウナーな雰囲気の中で、彼ら彼女たちのようなタイプの音楽が続々と登場する必然性というか。僕はギター・エフェクターの試奏動画とかを見るのが好きで、そういう動画ってエモやシューゲイザー系のフレーズや音作りをしていることが多いんですが、エフェクター界隈って本当に“ラボ感”が強くて、ザ・インドアな感じが最高なんですよね。

尾:その意味でkurayamisakaが突如Xに投稿して彼らの登場を知らしめた「farewell」という楽曲はこのシーンと時代を象徴する楽曲だったのかもしれませんね。「離別」というタイトルを付けた楽曲で、メランコリックなメロディーと儚いオルタナ・サウンドをもって、親しき人との別れを歌うリリックに髙橋さんが指摘していたパンデミック以降の空気感といったものが詰め込まれている感じもします。この一曲だけでkurayamisakaは脚光を浴びたわけで、この一曲に対して感性を揺さぶられるリスナーが多かったということでもあるし、それこそkurayamisakaが時代を掴んでいたということの象徴であるような気がします。

髙:kurayamisakaの「farewell」はそうした形で脚光を浴びたんですね。もちろんわかりやすく共感を煽るわけでなければ、明確なテーゼを提示するような楽曲でもない。それでも多くのリスナーを揺さぶった事実は、やっぱり時代の空気感のようなものをガッチリ捉えられた強さなのかもしれないですね。

ちなみに、つやちゃんさんが興味深いポストをしていました。

特定の音楽に対して「ノイジーで儚い揺らぎ、ガーリーな美学」と形容した上で“Dream Riot”という概念を提唱していて、その中でsidenerdsの名前があがっていました。この対談で話題にあげた現行のバンドの多くに共通する特徴として、女声ヴォーカルや男女混声ヴォーカルがあげられると思いますが、そういう音楽的な形式や要素にとどまらず、美学やヴィジュアルを含めた、いうなれば総合芸術としてシーンが広く醸成されつつあるという点も重要だと思います。

<完>




あとがき

本連載第0回の冒頭で髙橋さんがいったように、何気ない編集部内での雑談をきっかけに始まったこの対談は今回をもって終了となります。途中、道草を食いつつ、脇道に入ってみたり、また元の道に戻ったりをくりかえしていたら、当初目指していた目的地から外れ、いつの間にかどこか知らない場所にたどり着いてしまったという感覚があります。今になって振り返るとそのあてどのなさこそが、あちらこちらに興味を引く音楽(とそれを取り巻く現象)が転がり、潜んでいる現行のジャパニーズ・インディー/オルタナの深さと広がりを示していたのだとすら思えてきますし、対談という形式のライヴ感が導いたものだとも感じています。ふらふらと、あちらこちらを覗き見、また別の対象へと視線を向けていくなか、この対談で私が目指していたのは、“エモ”や“シューゲイザー”といった特定ジャンルやカテゴリに広義の現行インディー/オルタナの豊潤さを閉じめてしまうのではなく、その豊潤さそれ自体をそのまま、歴史的な縦軸と同時体的な横軸を意識しながらできる限り髙橋さんと二人で辿っていきたいということでもありました。スーパーカーというバンドを象徴的な存在としてタイトルに冠した連載ではありましたが、スーパーカーの話をしていない時間も多かったように思います。

ヴェイパーウェイブと“シティポップ”的表象や、Y2Kもしくは平成リバイバル以降に浸透した、“明るい未来”を相対的に信じることが可能だったあのころへの退行的ノスタルジアはわたしたちを過去へ閉じ込めようとしてきます。その力に抗い、もしくは意識もせず、あるいはひらひらと身を躱しながら、いま・ここを逞しく生き、音楽を生み出しているバンド、ミュージシャンたちを私は信じていたいと思います。およそ四半世紀前、この国の“北方”に(いや、同時に“世界の中心”として)あった青い森の中で、澄みきった空を見つめながら「スリーアウトチェンジ」と宣言し、セカイの表と裏をひっくり返した彼らのような、今の時代を生きる若者たちを。(尾野泰幸)




「スーパーカーの遺伝子」を考えるためのプレイリスト

Text By Shoya TakahashiYasuyuki Ono


関連記事
【REVIEW】
なるぎれ『Nerds Ruined Girls Legislation』
https://turntokyo.com/reviews/nerds-ruined-girls-legislation/

【REVIEW】
せだい『Underground』
https://turntokyo.com/reviews/underground/

【REVIEW】
yubiori『yubiori2』
https://turntokyo.com/reviews/yubiori2/

【REVIEW】
Various Artists『i.e』
http://turntokyo.com/reviews/i-e/

1 2 3 84