多様なスタンダードを手放さずに
──プレイボーイ・カーティ『MUSIC』の巨大さ
走る車のボンネットに乗っかったりしながら夜の街を回るプレイボーイ・カーティ「FOMDJ」(『MUSIC』のデラックス版『MUSIC – SORRY 4 DA WAIT』収録)のMVを見た時、極めてシームレスな感覚で、彼の代表曲「Magnolia」のMVがフラッシュバックした。当時リリースされたこのビデオは、ただでさえ中毒性の高いこの曲の再生をさらに加速させた。享楽的でスリリングなアトランタのライフスタイル。インターネットとストリートの間を折衷する引力。こういった彼の音楽を表象するイメージを人々に鮮烈に植え付ける映像に、私も虜になったのを覚えている。
ただし、彼の音楽を、単一的な存在に集約させることは無謀な試みだ。すっかり今の彼は、USラップ・シーンにおいて唯一無二の存在で、“プレイボーイ”という名に恥じないくらいには私たちを弄んでくれる。ニュー・アルバム『MUSIC』のリリース日程を当初のアナウンスから延期しまくり、ファンを半ば煽るように焦らした結果、ファンの間では同作がそれだけ待つ価値のあるものだったか、様々に議論が交わされている。
たしかに、作品を通して統一感を保ちながらコンセプチュアルに形作っていたこれまでの作品に比べると、最も華やかなアルバムだと言うことができる。ケンドリック・ラマー、フューチャー、ザ・ウィークエンド、タイ・ダラー・サイン、ジェネイ・アイコなど豪華なゲスト陣はもちろん、過去作と比較したときに際立つサウンドや曲のヴァリュエーションの多様さも備わっている。
一方で、今でも彼のベースにあるのは、十分にオルタナティヴな感覚あふれる姿勢だと感じる。もしあなたが『MUSIC』からそれを感じ取ることができなければ、それはすでに、彼がラップ・シーンの景色を彼の色に塗り替えてしまったからに他ならないだろう。
セルフタイトルのミックステープ『Playboi Carti』(2017年)と続くファースト・アルバム『Die Lit』(2018年)において、盟友と呼べるプロデューサー、Pi’erre Bourne(彼はゲーム・ミュージックからの強い影響を公言している)によるシンセベースの浮遊感と軽妙さのあるサウンド・プロダクションで自らのサウンド・スタイルを構築し、カニエ・ウエストやF1LTHYの主なプロダクションで完成させたパンキッシュなコンセプトに包まれた『Whole Lotta Red』(2020年)によって、トリッピー・レッド「Miss The Rage (feat. Playboi Carti)」から連なるレイジという一代トレンドの基盤を築く。というのが、大まかにここ数年のUSラップ・シーンにおいて、彼が描いた一つの物語だ。彼は2019年に、地元のアトランタを拠点とする《Opium》を設立し、ケン・カーソンなど自らのスタイルに連なっていくような若手アーティストを世に送り出してもいる。
一方で、彼は様々なアイデンティティの持ち主でもある。伝統的なアトランタのヒップホップの地図にその名を刻むラッパー、ロックスター、もちろん、ジョーダン・テレル・カーターという一人の青年。
例えば、『Playboi Carti』に収録されている「wokeuplikethis* (feat. Lil Uzi Vert)」からすでに漂わせるロックスターという概念は抽象的なものであり、彼の音楽のサウンドに具現性を持って落とし込まれているものではない。過去の《Interview Magazine》でのキッド・カディとの対談では、シド・ヴィシャスへの憧れを語るが、それはあくまで彼のファッションや生き様に対してだった。そう、上にパンキッシュなコンセプトと記した『Whole Lotta Red』に至ってですら、わかりやすいパンク・ロックの要素というのは見えづらく、むしろ既存のアトランタのトラップ・サウンド(具体的に言えばヤング・サグ『1017 thug』やグッチ・メイン『Trap House』シリーズなどの、トラップをダークで捻った音色にしたような)を、独特の音楽性に昇華したもののように聞こえる。さきほど言及した対談においても、アトランタの先達たちのリスペクトと共に、自らの軸をそこにおいているように、彼のオルタナティヴな作品スタイルのベースには、常に地元のアトランタのトラップ・カルチャー、もしくはミックステープ・カルチャーがあると語っている。そこに加わる独特な感覚は、やはり初期の2枚におけるPi’erre Bourneとのマジックに起因しているだろう(一方でPi’erre Bourne自身については、ヤング・ナーディーとのコラボ・アルバムでも、その多様でありながらも記名性の強いサウンドを披露している)。こういった複数の人格の同居こそが、彼らしさでもある。
ラップ・スタイルについても同様のことが言えるだろう。例えば、ここ最近の客演曲を並べてみよう。ザ・ウィークエンド&マドンナ「Popular」、カミラ・カベロ「I LUV IT」(この曲はグッチ・メイン「Lemonade」をサンプリングしている)、Latto「Blick Sum」。彼の発声、フロウ、声質に至るまでそれぞれ違いが確認できる。まるで彼が何人もいるようだ。
一つ指摘しておくと、プレイボーイ・カーティの音楽における、多様なフロウの中に含まれる、同じ言葉の反復や唸り声や叫び声のような形をなしていない言葉の洪水は、感情に寄った生々しさがそのまま刻まれているとも言えるかもしれない。
例えば、フェイス・A・ペニック著『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』によると、ディアンジェロの“マンブリング”と括られるような輪郭のはっきりしない発声、言葉の聞き取りづらい歌い方について本人は「たとえはっきりしゃべってなくても、俺は最初に口から出てきた言葉を残したい、それがありのままの魂だから」と語っているとのことが、そういった生々しさはプレイボーイ・カーティのラップ・スタイルにも当てはまるだろう。自身のスタイルについてディアンジェロが発言した“魂”という言葉は、カーティの音楽の一心不乱な感覚を表すのにも適した言葉だ。『Die Lit』や『Whole Lotta Red』が、亡くなった友人や兄の存在が徐々に浮かび上がってくる構成であったように、彼の音楽における死や痛みの存在は重要であり、享楽的なパーティーやセックス、ドラッグの描写と並列に存在していることは、彼のリアルの反映とも受け取れる。そういった感情の同居は、例えば、ケンドリック・ラマーの作品に通じるような、人間的な生々しさとも言えるかもしれない。
こういった形で、様々なスタンダードやリアルを同時に存在させる彼の音楽は、主体性を手放さないからこそエキサイティングだ。断っておくと、私自身、『MUSIC』を完璧な作品とは思っていない。「WE NEED ALL DA VIBES」や「TWIN TRIM」など、その曲における彼の、もしくは彼のアルバムでその曲を聴くことの必要性を感じない曲だってたしかにある。しかし、様々に変化していく変幻自在なカーティのラップやサウンドのパッケージは、彼の作品でしか得ることの出来ないオルタナティヴな感覚に溢れている。『Whole Lotta Red』のどの曲よりもパンクに聞こえる開幕曲「POP OUT」から、メインストリームのR&Bラップのような『RATHER LIE』など、その姿形は曲調や音像に至るまで、どこまでも変わり続ける。もちろん「I SEEEEEE YOU BABY BOI」や「SOUTH ATLANTA BABY」の恍惚は、初期の作品を思い起こさせるような、彼の美学の真骨頂だろう。
『MUSIC』の達成は、自ら築き上げたトレンドを、極めて彼らしい鋭さで更新しているところにある。多様なスタンダードを手放さないことで、彼は真に巨大な存在になった。大きな流れに飲み込まれるのではなく、飲み込んだ。考えれば考えるほど、『MUSIC』という大仰なタイトルは、これ以外ないと思うほど相応しい。(市川タツキ)
Text By Tatsuki Ichikawa