「もう死んじゃったミュージシャンとかこの世にはないバンドとか。そういう蜃気楼のような存在に憧れる」
海外でも注目の”発見”された秘宝・浅井直樹
33年目の新作と知られざる過去を語る
少女にも少年にも見えるセピア色のポートレートが摩訶不思議な郷愁と面妖な哀感を伝えるジャケットのその作品『アバ・ハイジ』。1988年に自主制作盤としてリリースされていたこのアルバムが、30年もの年月を経て再び日の目をみることになるとは……おそらく本人が一番驚いていることだろう。なぜなら、当時はあまりにも儚く市場の中で埋没、ほぼ黙殺されていたからだ。
だが、このインタビューを読むとわかるが、彼はずっと“表現活動”を続けていた。もちろん、まとまったアルバムという形では、1988年に自主制作盤としてリリースされたファースト『アバ・ハイジ』以降なく、確かに傍目には“沈黙”していたことになる。だが、彼は曲を作り続け、断続的にライヴも行い、ある時期にはボーカロイドで作った曲を公開もしていた。一部の熱心な海外のブロガーが先鞭をつけるかのように『アバ・ハイジ』への思いを綴ったことをきっかけに、2019年にようやく実現したリイシュー。そしてそこから33年目のセカンド・アルバム『ギタリシア』の発売へ──。『ギタリシア』には『アバ・ハイジ』にも参加していた旧友の芳賀紀夫(ベース)の他に、1983などで活動する高橋三太(トランペット)、宅録作家のtamao ninomiya(ヴォーカル)、ジャミーメローのMEMIcream(ヴォーカル)ら若い世代のミュージシャンも参加している。そして、マスタリングは《PEACE MUSIC》の中村宗一郎が担当。そんな新作『ギタリシア』が、細野晴臣の海外リイシューやオムニバス『Kankyo Ongaku』など日本の音楽の再発でも知られる米《Light in the Attic》からリリースされた、80年代ジャパニーズ・ニューウェイヴ・コンピレーション・アルバム『Somewhere Between』とほぼ同じタイミングで届けられたことも実に示唆的と言えるだろう。そう、今年2月に出たそのコンピにも『アバ・ハイジ』からの曲「夜間飛行」が収録されている。
しかし、33年という年月が嘘のように、新作『ギタリシア』は『アバ・ハイジ』と地続きだ。澁澤龍彦、四谷シモン、ルイス・キャロル、ペイル・ファウンテンズ、R.E.M.、ザ・スミス、あがた森魚、早川義夫、友部正人……『アバ・ハイジ』を聴いて思い浮かべたいくつものキーパースンが、まるで無菌室の中で時間の経過を忘れてそのまま佇んでいたかのように、『ギタリシア』にもぼんやりとした記憶のまどろみの中で呼吸をしている。歌ありきのポップ・ミュージックでユーモラスなタッチの曲も多いのに、どこかヴェールに包まれている歌と言葉……。生と死の境目を優美に音でたゆたう幻想小説家のようなシンガー・ソングライター・浅井直樹、その最新ロング・インタビューをお届けする。
(インタビュー・文/岡村詩野)
今年3月21日に東京・三鷹《おんがくのじかん》で行われたライヴから
Interview with Naoki Asai
――今回のアルバム『ギタリシア』は浅井さんにとっての“セカンド・アルバム”という扱いでいいのでしょうか?
浅井直樹(以下、A):はい、33年目のセカンド・アルバムです(笑)。『アバ・ハイジ』は僕が大学2年の時、1988年にリリースしたのですが、それ以来のアルバムということになります。
――時空を超えての新作、驚きました。でも、本当に素晴らしい作品ですね。
A:ありがとうございます。これまでにもCDを出そうかなと思ったことはあったんですが、ずっと出さずにきました。音楽活動はずっと続けていましたので、ウェブでは作品を公開したりしてきたのですが、ちゃんと形としてリリースすることになったのは今回が2作目なんです。
――ご出身は東京で、今も東京ですか。
A:そうです。東京から離れたことはないです。しかも、ずっと同じ吉祥寺界隈のエリアなんです。
――どのような音楽体験をされてきたのでしょうか。
A:小さい頃、兄や父がよくリビングでレコードをかけていました。それが原体験です。映画音楽やイージー・リスニングが多かったですね。ポール・モーリアとかパーシー・フェイスとか……あと父はクラシックも好きでしたので、そういうのにも自然に触れていました。映画自体も好きでしたが、そこに絡む音楽に惹かれていました。最初は作曲家の名前まで気にしていなかったのですが、次第に、あの映画とあの映画の音楽が同じ人が作っているんだなということに気づいて、それがジョン・バリーだったりエンニオ・モリコーネだったり……という感じで好きになっていった感じです。そして、そのうちにラジオのエアチェックを始めて……という感じで音楽に夢中になっていきました。それが小学3、4年の頃でした。小学5、6年頃になると日本のニュー・ミュージックを聴くようになりました。ゴダイゴとかオフ・コースとか。歌謡曲だけではない魅力的な音楽が日本にもあるんだなと気づいたんです。ゴダイゴのあのエスニックな感じは子供ながらに面白いと思いましたね。のちに、大きくなってから、60年代のサイケデリック音楽に触れてシタールとかの音を気にするようになったんですが、「そういえば昔、ゴダイゴも……」って思い出したりして……。オフ・コースだと、あの独特なメランコリックな感じ、音の陰影がやはり印象的で……その頃に自分でも楽器をやりたいと思ったんです。
――最初に手にした楽器は?
A:ギターでした。家に立てかけてあった父のクラシック・ギターです。兄も弾いていたんですけど、小学6年くらいに僕もドレミを教えてもらいつつ始めました。そのうちに、自己流でコードの位置を替えたりとかして、オリジナルの曲を作るような感じになっていきました。それが中1くらいの時ですね。曲を作るんだ、というより、ギターを弾いて、コードの響きの中から何かが出てくる感じでした。その作り方は今も同じですね。そして、その頃になるともう洋楽を聴くようになっていました。よくある話ですが、中1の時に英語の先生が授業でビートルズをかけて。その先生がカセットテープにビートルズを録ってくれたんです。今思うと、それはいわゆる赤盤と青盤だったんですけど、それを夏休みに繰り返し聴いて、それでどっぷりとハマりました。子供の頃からビートルズを聴いていたんですけど、キチンと歌詞を見たりして聴いたのはその時が最初だったんです。ただ、ビートルズを好きになって僅か数ヶ月で、その年の12月にジョン・レノンが殺害されまして。ショックでしたね……。
でも、1980年頃ってYMOがすごかった時代でもあって。僕も大好きでしたし、一方で松田聖子さんとか田原俊彦さんとか、あとビートたけしさんとか、それまで見たことも聴いたこともなかったようなアイドルやお笑い芸人が出てきた時期でした。思春期が始まる、あの1980年の時期というのは音楽との接点においてすごく鮮烈な記憶がありますね。
――ええ、今のように音楽がまだそこまで細分化されていない時期でした。松田聖子は大瀧詠一や細野晴臣の曲を、田原俊彦は筒美京平の曲を歌っていたりと、音楽と音楽の連鎖が自然に行われていた時代でしたね。
A:そうですよね。すごくいい時代だったなと思います。その一方で、中学2年くらいになるとローリング・ストーンズにどっぷりでしたし、高校に入ってからもザ・フーやキンクスを聴いていました。洋楽を多く聴くようになっていったんです。そして、高校2年生くらいの頃からオリジナル曲を作ったりすることにも積極的でした。高校2年生の時かな、ランゲージ・ラボラトリーという語学実習装置を使ってベースもリズム・ボックスによるドラムも、そして自分の歌もそこに重ねて……。そうやって一人で曲を独自に作ったりしていましたね。
──バンド活動のようなことはしていなかったのですか。
A:そうですね、周囲にはバンドをやっていた人もいたんですけど、僕は基本的にずっと部屋で作業をするような感じでした。大学に入って、それこそ『アバ・ハイジ』を出した翌年くらいにはバンドで下北沢の《屋根裏》などに出てライヴをやったりしていましたけど(笑)……あの時は60年代サイケっぽいことをやっていましたね。でも、高校時代まではそういうバンドはやってなくて、一人で曲を作って録音していたんです。
当時、下北沢《屋根裏》でのライヴの様子──その頃から日本語の曲だったのですか。
A:なぜかそうだったんですよね。僕は基本的に“遠くにあるもの”が好きなんです。海の向こうの音楽とか、もう死んじゃったミュージシャンとか、解散しちゃったバンドとか、もうこの世にはないバンドとか。そういう蜃気楼のような存在に憧れちゃうんですよね。だから、日本の音楽も好きだったんですけどやっぱり洋楽が好きで。英語でもよく聞き取れないような歌詞がいいなと思ったりしていたんです。なのに、自分が作って歌うとなると、どうしても日本語がいいと思っていました。英語で歌うつもりは逆に全然なかったですね。ですから、モデルとしての日本のミュージシャンがなかったんです。あくまで洋楽をモデルにして、そこに日本語の言葉を乗っけるというようなやり方です。だから時々「これ、歌詞っぽくないよ」って言われたりします。勝手に日本語を乗っけちゃってるからなんですよね。
──なるほど。洋楽がお好きなのも、音楽性とは別に、100%理解が及ばない、よくわからないところがあるから……なんですね。“遠くにあるもの”が好きというのはそういう意味でもあると。浅井さんの作品に独特の幻想性があるのも、そうした謎めいたものへの思慕の表れなのでしょうか。お好きで影響されたというルイス・キャロル(『鏡の国のアリス』や『不思議の国のアリス』など)の作品も幻想怪奇小説です。
A:まさにおっしゃる通りかと思います。ルイス・キャロルももう亡くなっている方ですし、想像して楽しむしかないじゃないですか。もちろん、作品の内容も幻想的ですけれど。
──それは、浅井さんの死生観にも関わってきますか?
A:そうですね、それはあるかもしれません。
――その頃の欧米にはネオ・サイケという呼び名で紹介されるバンドも多くいましたよね。何らかの形で「死」や「闇」をオブスキュアな形で表現するバンドたち……浅井さんはそうした音楽ともシンクロしていたのですね。
A:そうですね。私もその頃、エコー&ザ・バニーメンやR.E.M.、レイン・パレード、ドリーム・シンジケートとか聴いていました。
──ただ、そうした美学はこの33年目にしてのセカンド・アルバムにも通底していると思えました。音作り自体はもちろん進化しているのですが、むしろ言葉/歌詞などは人生経験を経て、一見穏やかな目線かもしれないですが、根っこにあるものは研ぎ澄まされているようにさえ思えます。生きていることと、生きていないこととの境目が曖昧になっているような。
A:嬉しいです。ありがとうございます。何でしょうね……自分は本当に生きているんだろうかというのは昔から感じてきたんです。思考実験じゃないですけれども自分が本当に生きているのか、実は死んでるんじゃないかとか……そういう感覚ですよね。逆に言えば、生きていても死んでいてもなんかそんなに変わりはないのかもしれないとか、なんかすごい言い方になっちゃいますけど、でも、そういうのはどこかに今もありますね。割とそういう感覚は結構子供の頃からあったかもしれないです。
──そうした意識はどこから生まれたものなのでしょうか。
A:何でしょうね……小学校低学年の頃ですけど、お風呂入ってる時、シャワーで目に当てたりすると、目を瞑った瞬間だけ周りはなんか全然違うことになってるんじゃないかとかいうこととかはよくかんがえていました。自分が今この瞬間にお風呂にいるってこと自体、実は違うんじゃないかとか。そもそも本当は今、夏じゃないんじゃないか、とか……なんか子供の時はそういうことを考えてはいましたね。
──まさにサイケデリックですね。幻覚、幻想スレスレの想像力。
A:そうですね、うん。サイケデリックですし、あとなんかこう空っぽな感じっていうか空虚な感じっていうのもありますよね。
──なるほど。『アバ・ハイジ』を聴いた時、ちょっとジャックスを思い出したりしたのは、そうしたサイケデリアで空虚さを伝えようとしている側面が近いと感じたからなのかもしれないです。あるいは、少年性のある歌い方などはあがた森魚さんに近い印象も受けました。
A:ああ、『赤色エレジー』は好きです。確かにジャックスには文字通り「からっぽの世界」という曲もありますね。
──ですから、浅井さんの作品は確かにファンタジーではあるんですけれども、ちょっと不気味さもある。つまり、ルイス・キャロル。あるいは、澁澤龍彦や四谷シモンの世界観ともリンクします。
A:そうですね。恐怖もあるみたいな感じです。自分の中の何かがこういう作品を作らせたのかってことなんですかね。澁澤龍彦に関しては、大学で多摩美に入り、そこで友達が本を貸してくれたりしました。四谷シモンもその頃には好きでしたね。だから、『アバ・ハイジ』を作る頃には、もうかなりそういうイメージが頭の片隅にどっかにあったと思いますね。
──例えば、『アバ・ハイジ』の裏ジャケットではお人形を持っている女の子が一緒に写っていますよね。そもそもジャケットでは浅井さん自身が女の子のような大きな丸襟の洋服を着ています。これ、実際に右上の女性服を着用されていますよね。
A:そうなんです。なんか、こう、ジャケット写真も、ガラスケースに入っているような感じがしますよね。
──ええ、無菌室の中にいる感じさえします。ある種、何にも汚されていない何かの象徴のような。これは、浅井さん自身が当時、国としてはどんどん豊かになってはいたものの、一方で生きにくい社会になっていると感じていたことの表れなのでしょうか?
A:それはあったと思います。なんかこう生きにくい感じっていうのはまあその時に限らずななんかどっかでいつも感じているんですね。そういう窮屈で生きにくい社会に対してどこかこう自分なりの意思表明みたいなものだったのかもしれないです。周囲は確かに盛り上がったりしていたんです。学生たちも遊びに行ったり車に乗るとか……でも、そういうのに嫌悪感があって馴染めない感じがすごくあって。音楽もそうでしたよね。どこかで浮かれた感じが音にも出てるような感じになってきてて。そういうのについていけないとは感じていたんです。それが作品に現れたのかなと思いますね。
──でも、多摩美大ですと、そういうバブルの時代でもユニークな生き方をしようとしている学生が多かったのではないですか。
A:どうでしょうかね……『アバ・ハイジ』を出した後は、まあ、僕自身、音楽で食べていくということに対して、そうであればいいなという気持ちはあったとはいえ、結局、大学院に進んで別の道に行きましたからね。社会の中で足場を固めなきゃいけないのかって気持ちもありましたし……それで他の大学の院に進んで社会学、心理学を改めて学んだりしました。ただ、音楽を続けてやっていきたいとか、働きながらでも音楽をやっていこうという気持ちはずっとあって。だから、結局そこで終わらなくて、細々とですけども音楽は続けていくことになるんです。だから、時間をみつけて音楽は続けてました。
──ちなみに、当時、『アバ・ハイジ』を聴かれたご家族の方はどういう感想でしたか?
A:まあ、なんか「聞いたよ」っていう感じでしたね(笑)。あと、今でもすごく覚えてるんですけども、5歳上に兄が……その兄がこれがまたバブリーな感じの兄だったんですけど(笑)、「なんかお前レコードを作ったそうだな」って言ってレコードを隣の部屋でかけたんですよ。でも、バブリーな兄ですから『アバ・ハイジ』をかけても始まってだいたい30秒ぐらいで針があがったんですよね(笑)。で、「もっとノリのいい曲作れよ」って返されて(笑)。
──悲しい……。
A:そんなもんでしたよ、当時は。実際本当に売れなかったですからね。一応、西新宿あたりのレコード屋さんに置いてもらっていたんですけど、もう全くでしたね。知り合いにプレゼントしたりしましたけど。
──実は『アバ・ハイジ』がリリースされた頃、私もしょっちゅう西新宿近辺の、おそらく『アバ・ハイジ』を扱っていただろうレコード店に通っていたんですけど、お恥ずかしいことにフシアナなのか、発見するには至らずで……。音楽誌にレビューとかも載らなかったのでしょうか。当時だと『フールズ・メイト』とか……。
A:いや、もう全然だったと思いますよ。記事とか見たことないです。
──作品が当時売れていたら何かが変わったのかな……とも思うのですが、ただ、その後の浅井さんが大学院で心理学を学ばれたというのは、音楽活動と地続きだったんだなと思うんです。『アバ・ハイジ』の持つ思想性みたいなものは、ある種の精神心理学の一つの出方だったのかもしれない、と。今こうやって目の前でお話しいただいている雰囲気も『アバ・ハイジ』を聴いている感覚ととても近いですし、穏やかで丁寧な語り口からはカウンセリングを受けているような気もします。
A:地続きというのはありますね。心理学は心理学でいろんな理論があったり面白い方も考え方もたくさんありますので、そういうものからも影響を受けていないわけないと思います。ここまでが音楽作品で、ここからはそうではない、って感じで分けるわけられるものではないというか。
──ええ、そういう意味でも、浅井さんは、アルバムこそ制作していなかったけれど、ずっと「表現」を続けてこられたと言えますね。
A:ほんとにそうかもしれないです。その後も曲を書いてライヴとかはやっていたんですけど、境目のようなものはあまり気にしたことがなかったです。
当時のオフショット──ちなみに近年ではライヴはどういう場所で?
A:カフェバーみたいなところにも出てたんですけど、その中では高円寺の《ペンギンハウス》とかが多かったですね。2014年くらいまでは結構ライヴをやっていたんですよ。毎週のようにやってたかな。ただ、あんまり人前に出るよりも部屋の中でじっくり曲作りとレコーディングをしたいなって思った時期がありまして。その頃から部屋にこもって曲作りの方に集中して。まったく次元が違う話ですけれども、ビートルズがコンサートをやめて録音に集中するって時期があったじゃないですか。あれなんかものすごく大きな意味があることだと思うんですよね。人前に出るんじゃなくて曲作りと録音に凝ってみたいみたいな。それで僕も実際に自分で作り始めた曲をそれまでのように自分で歌ってもよかったんですけど、いっそ自分のキャラクターを消して全くの裏方に徹してやりたいなあって思い始めたんです。そこでたどり着いたのがボーカロイドで。2017年頃からボーカロイドで作った曲をネット上に発表するようになったんです。
──ボカロの面白さに気づいたのは何がきっかけだったのですか?
A:ボカロで好きな曲があったとかそういうわけでは全くなくて。初音ミクのようなキャラクターに興味があるわけでも全くないんですけど、ただ、なんというか、生きていない人の声というのに興味があって。ある意味で、死んでいる人の声ですよね。そういうのって面白いなあと思って。あと自分で実際に入力してやってみたら思ったよりも面白かったんですよね。なんかきっと自分に合わないんだろうなと思いつつ試しにやってみたらすごく面白くて。人間っぽく歌わせようっていうのを調整できる面白さもあるんですよね。息の量とか抑揚も調整できるんです。でも、人間の声に近づけようとするよりも、機械の味を生かした方が結局は上手くいくんですね。
──なるほど。さきほど「もう死んじゃったミュージシャンとか、解散しちゃったバンドとか、もうこの世にはないバンドとかに惹かれていた」と話されてましたが、ボカロに対する興味もそこはつながっていますね。
A:ああ本当ですね! 確かに人形が好き、というのもボーカロイドに歌わせるという感覚に近いかもしれないです。実際、自分の生の声よりも、機械の声の方がなんか自分としてはしっくりきました。なので、2017年からボカロの曲をアップしていたんですけど、今度は2019年の、あれは確か5月だったんですけれども突然、(音楽ディレクターの)柴崎祐二さんからメールをいただきまして。『アバ・ハイジ』を再発したいと。もう何かの間違いじゃないかと思ったわけです。で、一昨年にリイシューされたわけですけど、去年2020年の春に今度は新作も作りましょうって話になって……もう、そうなると、自分は歌わずに死人に歌わせてとかなんとか、そういうこと言ってる場合でなくなってきたんです(笑)。決して自分の歌声が良いとは思ってないんですけども、何て言うんでしょうかね……歌声よりも歌うという行為を優先させるのであれば、もう自分が歌うしかないと思いまして。それでまた自分が歌うことになったんです。実際、『アバ・ハイジ』がリイシューされたあたりで、面白かったとか良かったとか言ってくださる方が周りにチラホラ増えてきまして。その方たちから、新作とかはないの? 作りましょうよって言われたりもしまして。自分の音楽が求められてるなという体験自体が初めてでしたから、すごく嬉しかったですね。
──そもそも、『アバ・ハイジ』にいち早く再注目したのは海外のブロガーでした。
A:当時確か僕もツイッターとかSNSとかやっていなかったので、ストックホルムの方が最初に取り上げてくださったんですけどすぐには知らなくて。友達から教えてもらったんです。「ネットに出てるよ」っていう感じで。えっと思ってみたらかなり詳しく文章を書いてあってビックリしましたね。ただ、その後は連絡もとってやりとりもしました。あのスウェーデンのブロガーの方も音楽活動をやっているんですよ。なので交流は今も続いています。
──今年に入ってからは《Light in the Attic》からリリースされた日本の80年代の音楽のコンピレーション・アルバム『Somewhere Between』にも『アバ・ハイジ』からの曲「夜間飛行」が収録されました。時間をかけて海外で評価されていくようになったことについてはどう感じていますか?
A:僕自身が洋楽をずっと聴いてきたので、もしかしたらどこかで80年代のUKの音楽とか、海外の方にはインプットしやすいものがあったのかなとも思いますね。それが半分で、逆にあと半分は、そこに強引なまでにな日本語を乗せて表現している面白さがあったのかもしれないなと感じます。そのアンバランスさみたいのがかえって日本っぽいのかな、とか。音は音でテーマとか言葉とかは割と別作業なんで、音と詩の世界のちぐはく具合がかえって面白いのかもしれませんね。
──今回の新作『ギタリシア』の制作は割とすんなり進んだのでしょうか。
A:間には30年以上という時間があったんですけど、自分でも不思議なくらい自然だったんですね。どうして音楽を続けているんだろうとかどうしてギター弾き続けていて、どうして音楽活動を、細々とかもしれませんけど辞めずに続けてきたんだろう、いったいこれはなんなんだろう、みたいに考えたりもしたんですけど、もうこれは能力かなと。中二病を治しちゃったらもう僕何もできなくなっちゃって曲も作れなくなっちゃってっていうことかなと(笑)。
──だからアルバム・タイトルは“ギタリスト病”という意味の浅井さんの造語『ギタリシア』なんですね。
A:そうなんです。中二病なんですよ、今も(笑)。曲自体はおそらく半分以上がボカロでもやれそうな曲としてあった曲で、書き下ろしは2曲くらいですね。
──実際に久々に自ら歌ってみて、新たな気づきはありましたでしょうか?
A:そうですね……昔はどうすれば上手く歌えるかみたいなことを考えてたと思うんですけど、なんかこの期に及びますと、もう自分が自分の歌を、自分の歌い方で歌えばそれで良いみたいな感じになったなと思いましたね。だから、ヘンに頑張ったり背伸びしたりせずに歌いました。最初は全部朗読でもありかなって思ったりもしたんですよ。声を出して言葉を読めばいいかなって。
──生きているか死んでいるかわからないような、生死が判然としない人の歌というコンセプトは新作でも基本変わらないと思うのですが、年齢を重ねていくことで、「死」というものへのリアリティや意識はいくらか変化したのでしょうか。
A:例えば、今回のアルバムに入っている「(Let’s sing a)Singer-Songwriter’s Song」という曲は、僕の大好きなミュージシャンたちの名前がゾロゾロ出てくるんです。
──はい、ブライアン・ジョーンズからセルジュ・ゲンズブールまで。
A:ああいう歌詞はやっぱり今だから書けたのかなって思いますね。若い頃の、あのあたりのアーティストたちに埋没しちゃって夢中になって距離取れないくらい好きだった頃だったら、たぶんあんな曲書けなかったと思うんです。もう何10年も経過して博物館を歩くみたいな感じなんですよ。そういう意味ではやっぱりちょっと冷めてるんですよね。いい意味で距離をとっている。そういうのはかなりあの曲に限らずあって、おそらくそういう感覚が年齢を重ねてきたからこその気づきや意識の変化なのかなと思いますね。あと、歌い方でいえば、なるべく感情を入れないようにしたりもしました。どこか客観的に自分自身を動かしている感じというか。
2020年12月16日に東京・三鷹《おんがくのじかん》で行われたライヴから──一方で、「マジック・バス」のようなちょっと言葉遊び的な軽やかな曲もありますね。
A:そうですね。あの曲に関しては、韻を踏むようなことを考えていたというより、なんというか……言葉の音が虚しくなってくるようなところを考えたりしていました。空虚感というか空っぽな感じを表したいっていうのもあって、それで韻を踏むことをやってみたって感じです。
──歌詞に深い意味を与え過ぎないということですか。
A:そうです。最初にあった意味が聴いているうちに意味がわかんなくなってきちゃうとか、そういう感じですね。あと空虚感ということでは例えば、全く次元は違いますけど、ビートルズの『The Beatles』(ホワイト・アルバム)みたいな感じであのあっち行ったりこっち行ったりっていうようなのがすごく好きで。結局あれも何か空虚なんですよね。ハッキリとしたコンセプトがなくてあっちいったりこっちいったりして。
──ヴァリエーションがあまりにも豊かだと、空っぽな感じで最終的な意味が曖昧になっていく。
A:そうですね。そこはちょっと意識したかもしれません。ですから、本当に色々なスタイルの曲を、この30年ほどの間にどんどん蓄積されてるのかなって自分でも思いましたね。
──浅井さんとは馴染みのミュージシャンから世代の若いミュージシャンまで、参加されている方々も多様ですね。
A:そうですね。最初に私がいくらかアレンジを考えて、その後、柴崎さんと相談しながら、ストリングスを1本から2本にしたらどうでしょうかといったアドバイスをしていただいたりしながら決めました。レコーディング自体は去年の7月くらいから断続的にやっていたんですが、音の面ではやっぱり僕はリバーブとかエコーとかがどうしても好きなので、そこは使えたらなって思って。というのも、デジタルな感じっていうのではなくて、ちょっとアナログっていうか60年代的な感じというか、そういう音触りが欲しくて。それで実際に音の質感として全編に渡ってリバーブやエコーをかけているんです。
──マスタリングは《Peace Music》の中村宗一郎さんですね。これまでにもお付き合いはあったのですか?
A:いや、実は今回初めてお会いして。本当は中村さんがやってらしたホワイト・ヘヴンとか、当時は結構近いところにいらっしゃったと思うんですけども。坂本慎太郎さんも同じ多摩美で世代も近いんですけど、実は当時は全然交流がなかったんです。
──ですが、おそらく新作『ギタリシア』も当時の『アバ・ハイジ』も、その後のゆらゆら帝国~坂本慎太郎さんが好きな方や、一方で、ポスト・クラシカル、アンビエントなど様々な音楽指向の若い世代が楽しんでいると思いますよ。
A:だと嬉しいですね。どんな方が聴いてくださるんだろうと思って、ちょっと興味がありまして。どういう方の耳にに届くのかを想定はしてなかったんですけども……ただ、やっぱり、こう、マイノリティな感じを好きな方に聴いてもらえるのかなとは思っています。僕も、まあ、そういうマイノリティな感じで過ごしていましたので(笑)。
──でも、メロディ自体はとてもポップですよね。60年代付近のオールディーズっぽさもあって、それもまたある種の空虚さを伝えています。
A:ああ、それ、たぶん、僕が人に敬語を使うのと同じような感じで曲もポップにしちゃうんですよね。
──なるほど、興味深い自己考察ですね。
A:自分の中で出てくるものだけだと、これじゃあ聴かれないかな、伝わらないかな……っていうのが最初あるんですよ。だったら、より伝わりやすいようにって考えて。それでポップな感じになっちゃうのかもしれないです。そういうの、すごく考えちゃうんですよね。だから、ポップな音楽そのものが好きというより、自分でやる時に、どうしてもなんかポップであることが無意識に出てくるという感じです。普段は全然ポップでないものも大好きだしたくさん聴いたりしているので。ブライアン・イーノとかハロルド・バッドとか大好きなんです。ただ、本当に、こんなアングラなものを届けるんだから、ちゃんとポップであってほしいという気持ちはあるんですよね。
<了>
Text By Shino Okamura
浅井直樹
アバ・ハイジ
LABEL : P-Vine
RELEASE DATE : 2019.10.02 (Reissue)
購入はこちら
Tower Records / HMV / Amazon / iTunes
関連記事
【未来は懐かしい】
柴崎祐二・選 2019年リイシュー・ベスト10
http://turntokyo.com/features/serirs-bptf2019best/