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2018年はここにフォーカスせよ!
今年注目のアーティスト、シーン、エリアを紹介 Vol.2

08 February 2018 | By Daiki Takaku / Kohei Ueno

《TURN》筆者による今年2018年の注目を紹介する企画、第二弾は上野功平、高久大輝の“フォーカス”をお届けする。今回紹介するのはいわゆるメイン・ストリームとは異なるアナザー・アプローチ。今改めて着目したい次なるラウンドに入った新時代エモ、国内は沖縄のヒップホップ/ラップ・シーンについてを紹介する。

第一弾、山本大地による【ストームジーやJハスに続くか⁈ 進化と多様性の拡大を象徴するUKラップ】、坂内優太による【「ポスト・トラップ」のシーンに帰還するカニエ・ウェスト】はこちら→http://turntokyo.com/features/features-2018


分業制ポップに反旗を翻す、「エモ」のDIY精神

最近、周回遅れで「エモ」にハマっている。もちろん、フォール・アウト・ボーイやマイ・ケミカル・ロマンスなんかはリアルタイムで通っていたし、ゲット・アップ・キッズやアメリカン・フットボールの再結成ライヴにも足を運んではきたが、かつてエモ・キッズだったであろうオーディエンスが嗚咽を漏らしながらシンガロングする光景を、どこか一歩引いた目で見ている自分がいた。しかし、ジュリアン・ベイカーの音楽に出会い、彼女がインタビューで嬉々としてエモやハードコア・バンドに対する愛を語り、あのジョーブレイカーの「Accident Prone」を美しいピアノ・アレンジでカヴァーしてみせる姿を見て、今度こそエモに対する評価を改めねばならないと感じているのだ。

ブラック・ミュージックの聖地としても知られる、米メンフィスで生まれ育ったジュリアン。カトリック信者で同性愛者という複雑なアイデンティティーを持つ彼女は、最新作『Turn Out The Lights』を出した名門《マタドール》に移籍するよりも前に、《6131 Records》からデビュー・アルバム『Sprained Unkle』(2015年)を一度リリースしている。《6131》はアンダーグラウンドのハードコアやパンク、メタルなどを数多く世に送り出してきたカリフォルニアの小さなレーベルだが、オーナーのショーン・ローレルは、ジュリアンの曲を200回聴いて、200回目にクルマの中で泣いたと語っている。そこには、いまやすっかり使い古されてしまった「エモい」なんて言葉では到底語り切れない、アーティストと聴き手の特別な関係性が築かれている。

『Sprained Unkle』におけるジュリアンの歌詞は、薬物依存や信仰の喪失、あるいは交通事故による臨死体験を生々しく綴ったものだが、彼女がテレキャスターで爪弾くメロディはどこまでも優しく心を浄化してくれる。とりわけ、己の痛みも弱さもすべてさらけ出すヴォーカルは鬼気迫るものがあり、エリオット・スミスやジェフ・バックリィの再来と絶賛するファンも少なくなかった。事実、ジュリアンはエリオットのトリビュート・アルバム『Say Yes!』(2016年)に参加し、「Ballad of Big Nothing」の素晴らしいカヴァーを披露。エリオットはいわゆるエモの人ではないが、過去にThe Star Killers(後にForristerと改名)というエモ/パンク・バンドでヴォーカルを務めていたジュリアンにとって、ヒートマイザーからソロへと転身していくつもの名曲を生み出したエリオットの生き様は、音楽家としても、共にフラジャイルな声を持つヴォーカリストとしても、理想的なロールモデルのひとりだったに違いない。そんなジュリアンの音楽もまた、昨年「エモの『アビー・ロード』だ」と評された傑作『Science Fiction』を発表したブラン・ニューや、2015年に再結成したダッシュボード・コンフェッショナルを率いるクリス・キャラバによってカヴァーされており、エモの重鎮からもお墨付きを与えられたことになる。

ジュリアンの音楽に心を突き動かされた読者であれば、彼女の親友でもあるフィービー・ブリジャーズの『Stranger In The Alps』(2017年)もチェック済みだろう。アルバムにはコナー・オバースト(ブライト・アイズ)が客演した「Would You Rather」が収録されているが、コナーもまた、かつてデサパレシドスというバンドでゴリゴリのエモ/ポスト・ハードコアに接近していた当事者である。最小限の楽器やサポート・メンバーだけを頼りに自身の闇や葛藤と向き合うジュリアンと、ジョニ・ミッチェルやエイミー・マンのような正統派シンガー・ソングライターの系譜に連なるフィービーという作家性の違いはあれど、彼女たちのソングライティングの背景に、エモの影がチラつくのは非常に興味深い。

ただし、ジュリアンの課外活動におけるフットワークは軽く、トゥーシェ・アモーレとのコラボ「Skyscraper」は、彼女のルーツがエモ/ハードコアにあることを裏付ける名曲だった。この楽曲を収録したトゥーシェ・アモーレの4作目『Stage Four』(2016年)は、フロントマンのジェレミー・ボムが、2014年に癌でこの世を去った母親に捧げたアルバム。もともと交流はあった両者だが、“あなたはそこに生きている/摩天楼の光のもとで”と繰り返される「Skyscraper」に、ジュリアンの歌声が不可欠だと考えたジェレミーの気持ちが、いまなら少し理解できるかもしれない。生前の母が息子たちと最後に過ごした場所がマンハッタンだったという背景を知ると、無人の車椅子を押しながらニューヨークを歩くビデオがあまりにも切なく映る。

1月末に初のジャパン・ツアーのため来日したジュリアンに、僕は「あなたにとってエモってどんな音楽ですか?」という質問をぶつけてみた(詳しくはMikikiのインタビューを参照)。すると、「私が90年代や2000年代前半に聴いていたエモは個人的体験に紐づくエモーション(感情)や、自分のフィーリング(気持ち)をそのまま歌っていた。(中略)でも、いまのエモって原点回帰というか、再びDIYとかパンクの精神に立ち返っているような気がしてる」との答えが返ってきた。なるほど、グランジ以上に定義が曖昧な「エモ」という言葉/ジャンルではあるが、シンガー・ソングライターの本分とは、自作自演で独立独歩であること。それと、言うべきことを言い、歌うべきことを歌い続けるブレない反骨精神。乱暴に言ってしまえば、すべてのシンガー・ソングライターの表現はエモであり、その剥き出しの歌声や情念には、間違いなくリスナーの心を揺さぶる魔力があるのだ。

キャップン・ジャズやジョーブレイカーが再結成を果たし、ブラン・ニューの『Science Fiction』が自主リリースながら全米1位を獲得、日本でもジミー・イート・ワールドがMAN WITH A MISSIONと対バンを行うなど、再びシーンで存在感を放ちつつあるエモ。その本当の魅力に気づかせてくれたのがジュリアン・ベイカーだったし、現在のメインストリームで定番となった《分業制ポップ》に僕がさほど惹きつけられなかった理由が、彼女の音楽に触れてはじめてわかった気がする。そして、分断と排除が進む2018年に鳴らされる「エモ」とは、一体どんなサウンドなのだろうか? いまこそエモを断固支持だ。(上野功平)


沖縄のラッパーたちが映し出す、ローカルシーンの”その先”

誰かが言っていた。「都会でうまれた奴は勝ち組だ」って。果たして、そこに勝ち負けの概念が本当にあるのだろうか。日本の南端=沖縄から届いた曲を聴きながら、そんな想いを抱いていた。

沖縄、そこは安室奈美恵、BEGIN、Coccoといった著名なアーティストの出身地として知られている。あるいは、ゆるやかで陽気な沖縄民謡をイメージを持っている方も少なくないだろう。しかしそんなイメージとは裏腹に、昨年出版された『ルポ川崎』(著:磯部涼)に一度だけ登場する沖縄は”不良少年がどうにもならず飛ばされる場所”として描かれている。では、昨年BAD HOPが旋風を巻き起こした川崎と沖縄はどう繋がっているだろうか。

沖縄を拠点にするラッパーの一人、唾奇がライブのMCでこんなことを口にしていた。
「沖縄はいろんな揉め事起こして(起こした奴らが)、最終的に行き着く場所だからね。心の弱い人間ばっかってこと」
その言葉は『ルポ川崎』にも登場する”不良少年がどうにもならず飛ばされる場所”としての沖縄と地続きであることを示唆する。古くは独立した琉球王国として、戦時中は唯一の陸戦地として、現在はもっとも多く米軍基地を抱える地として、沖縄は様々なものと戦い、傷つきながらも受け止めてきた(現在でも基地移設問題など戦いは続いている)。沖縄のストリートはそんな歴史で育まれた、人の弱さをも受け入れる強さに根をはり、そこは川崎市南部に生まれ、社会から弾かれ、不良たちの競争から弾かれた、行き場のない少年たちをも受け入れる場所となっているのだ。

例えば、姉とその彼氏の情事の声を掻き消すために流れていたキングギドラ。それを聴きヒップホップに目覚めたというラッパー、唾奇のフロウにはウチナーグチ(沖縄語)が混じっている。しかしそこから湧くイメージは透き通るような沖縄の海や青く晴れた空ではなく、雨に濡れ、ネオンの光を弾くような那覇のアンダーグラウンドだ。そして前述したMCの中でこんなことも言っていた。「お前のこと簡単に裏切ったかもしれないけど、お前ぐらいしか裏切れる奴がいないんだ。」その心の弱さを受け入れるような言葉は、ストリートに共通する勘繰りや裏切りを一歩引いたところから観る、ラフなようで優しさに満ちた沖縄のヒップホップ観が滲む。沖縄が様々な人間にそうしてきたように、まるで自らも、許され、受け入れられてきたことを自覚しているような力強い響きを持っていた。

また昨年アルバム『8』をリリース、Chaki Zulu率いるYEN TOWNに加入したラッパー/シンガーAwichも沖縄で生まれている。14歳で音楽活動を開始し、アメリカに留学、その地で結婚、出産、5パーセンターズである夫の死(アルバムタイトルでもある『8』は彼らの数秘術によると”Build or Destroy”を意味する)。壮絶な人生を歩み、沖縄に戻り活動をリスタートした。そんな彼女が自らの娘をステージに上げ、親子という世代の垣根すら飛び越え共に歌う姿は、どの地域、どの立場の人間とも対等に接することが沖縄という地で当然のように育まれていることを知らせる。

(虹はLGBTの象徴でもある)

そして前述した唾奇と同じPitch Odd Mantionに所属するMuKuRoも沖縄から現れた新星だ。唾奇、HANGとの共演作「ame。」でフックを歌う彼は流暢に英語も使いこなすバイリンガル。ラップとなればハスキーな声で畳み掛け、伸びやかな歌を聴かせる力もある、これからの活躍も楽しみなラッパーの1人だ。そして紹介する曲では愛媛のラッパー、Disryと滋賀のラッパー、蛇と共演しており、様々な地域が重なって熱さが増幅しているのがわかるだろう。受け入れ、発展してきた沖縄のストリートは他の地域のストリートとの差異すらも受け入れ、力に変えているのだ。

こちらもチェックがまだの方は是非!

紹介したアーティストの色は三者三様だが、共通する様々なジャンルのトラックを乗りこなすデリバリーの多様さ、その中でもブレない力強さは、様々な人、歴史を受け入れてきた沖縄のストリートの懐の深さを思わせる。

今年、沖縄のヒップホップシーンはかつてない盛り上がりを見せるだろう。それはすでに始まっていることでもあり、間違いないと断言してもいい。彼/彼女らが、シーンの”その先”へと繋いでくれる存在だと信じられるからだ。

言うまでもなく、ヒップホップという音楽において生まれた場所や育った環境は表現へと直結する場合が多い。つまりその地域の状況や歴史を考えることは、世界中に広がるヒップホップ全体を楽しむきっかけの一つになる。ヒップホップ後進国と言われてきた日本でも、その地域独自のシーンが形成されている。これを読んでいるあなたのそばでも、そこが都市であっても、地方であっても、必ず。まずは本稿で紹介した沖縄を背負うラッパーたちから、その地元に深く根差した魅力を感じてみて欲しい。そして可能な限り想像してみて欲しい、その境遇や、人生を。そうして(沖縄のストリートが人の弱さを受け入れるように)他者との差異を認めること、それはきっと、生まれ育った場所に優劣をつけるような価値基準に立ち向かうための、世界中の人々と共に生きていくための、一つの大きな手段になる。沖縄のラッパーたちと共に、シーンの”その先”を見にいこう。

そんなことを考えていたら、つい、さきほど、名護市長選挙の結果が出た。自民、公明、維新が推薦する新人が現職を破っての当選。“その先”とは、こうした現実とも向き合った末にあるのだ。(高久大輝)

Text By Daiki TakakuKohei Ueno

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