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ブリアル約15年ぶりとなる長編作品到着
憑在論からのテイクオフ──抹消されたビートと語り部としての声

21 January 2022 | By Miru Shinoda

故マーク・フィッシャーは2006年のブリアルのデビュー・アルバム『Burial』を興奮気味に「私が何年も夢見ていたようなアルバム」だと形容している。それはマーク・フイッシャーがうつ病と闘いながら、自身のブログや無数の著作に書き殴り続けた批評の核心を体現する存在がブリアルであったからだ。『資本主義リアリズム』『憑在論』といったマーク・フィッシャーの批評にとっての鍵概念は2000年代後半を通じて練り上げられていったが、それとちょうど同時期に、どこからともなく現れてカルト的なステータスを獲得したのがブリアルであった。2000年代において、マーク・フィッシャーが閉塞的な状況に対しての絶望と脱出への淡い期待を書き殴ったように、ブリアルも同様の感慨をクラックル・ノイズの海の中から浮かび上がらせようとした。

『Antidawn』はブリアルにとって『Untrue』以来の15年ぶりとなる長編作品だ。従来的なブリアルの諸作品が持つキャッチーさを期待していたならば肩透かしを食らうような内容だ。ビートは水面下にまで沈められ、一聴してわかるような確固とした構造がないまま歌やシンセパッドやオルガンのフレーズの断片が現れては消える。古典的な意味での楽曲を形作るものは与えられず、つかみどころがないまま43分は過ぎ去っていく。もちろんこのようなブリアルの手つきは近年の断片的なリリース、例えば「Beachfires」(2017年) 「State Forest」(2019年)「Dolphinz」(2021年)などでもすでに見られたものだ。しかし『Antidawn』を理解するには、この手法が全編において透徹された、実に15年ぶりの長編作品として届けられたということ自体を問うていく必要があるだろう。

ありったけの悪夢が現実化していった2010年代を超えて姿をあらわしたこの作品を理解するには、2000年代においてブリアルが描いてきたことをその代弁者であるマーク・フィッシャーと照応させて再確認する必要がある。そのうえで、そこからの距離を測ることで『Antidawn』のブリアルのこれまでの作品とは異なる啓示的な作用を聴き取ることができるはずだ。



ブリアルのサウンド論──クラックル・ノイズ、情動の織物としての声、ハードコア連続体──

『Untrue』において一旦完成を見たブリアルの美学およびその意味論的な射程をサウンドの面から説明するならば、それは以下の3点にまとめることができる。

第一に、クラックル・ノイズの前景化。レコードという相対的に古い音響メディアに固有のノイズであるチリチリ、バチバチといった雑音を強調することは、過去を暗示することにつながる。ただし、ブリアルにおけるクラックル・ノイズは時間的な負荷だけでなく、空間的な負荷も帯びている。それはサンプリングされた雨音や空電の雑音のようなものと不可分に鳴り響くことによって、失意の雨に濡れるロンドンの空間性を想起させる作用を持っているのだ。

第二に、ピッチ変調やタイム・ストレッチ、ダブ処理などによって記名性を剥ぎ取れたヴォーカル・サンプリング。You tubeに転がっているアカペラ動画や往年のR&Bなどからサンプリングされたヴォーカルはそれが本来もっていた固有性から引き剥がされ、変調されたピッチによって両性具有的な天使の声として再配置される。あるいは、マーク・フィッシャーが敬愛する音楽批評家イアン・ペンマンが書いたように、ダブ処理は声の所有権を放棄させ、録音装置の回路を介したスタジオにおける「再」所有物へと声を変換する。要するに、これらの処理を経たブリアル作品における声は、本来の文脈から解き放たれた嘆きと切望の織物として機能するのだ。また、このようなヴォーカルのあり方は、ブリアルが自らを位置付けようとするジャングルや2ステップなどのジャンルにおける「ヴォーカル・サイエンス」の系譜に連なるものでもあった。

第三に、サイモン・レイノルズが「ハードコア連続体」と呼んだUK固有のダンスミュージックの系譜に連なるリズム・セクション。これはブリアルが特別な思いをよせてきたUKガラージや2ステップやダブステップなどに対する憧憬を具象化するものであり、その集団的な記憶であるレイヴ・カルチャーの黄金期とのブリアルの距離を指し示すものでもある。ブリアル本人はマーク・フィッシャーに以下のように語る。

  俺は祝祭的なパーティーも、野外でのレイヴも、でかいウェアハウス・パーティーも、
  非合法なパーティーも経験していない。いつもクラブとか、屋内のどこかで曲をかけていただけなんだ。
  そういう話は聞いてるし、いまでも夢見ているけどね。



ハードコア連続体を間接的に伝聞することしかできない過去として経験し、その到来を切望するブリアルにとっては、そのビートは黄金期との距離を示すものとなる。ブリアルのビートがダンス・ミュージックのもつ機能性においてどこか欠落していることからもわかるように、それは身体をダンスにむけて駆動させることよりもむしろ、レイヴの残骸を拾い集めることを志向している。ブリアルが楽曲制作において用いているのは、ダンス・ミュージック制作者たちに愛好されるAbleton LiveやFL StudioのようなDAWではなく、波形編集ソフトのSOUND FORGEである。一般的なDAW上でのビート・メイキングがきっちりと小節や拍によって整序されたグリッド上にリズムを打ち込んでいく作業である一方で、小節や拍に基づく時間性を志向しない波形編集ソフトにおけるそれは録音物をコラージュしていく作業である。ブリアル自身が、波形編集ソフト上にならんだ音の断片が持つ視覚的な特徴を、半ば露悪的に「魚の骨」と形容したように、それは切り刻んだ残骸と戯れるネクロマンシー的な実践なのだ。

以上のようなブリアルのサウンド上の美学によって描かれてきたことを乱暴に定式化してしまうならば次のようになるだろう。失われてしまった過去を嘆き悲しむ喪の感覚と、訪れない未来を待ち焦がれるもどかしい切望の情、その二者の間にロンドンという都市空間の傷ついた現在を定位してしまうこと。輝かしいレイヴの季節に間に合わなかった絶望と、その狂騒の中でエクスタシーの啓示が垣間見せた共同性と連帯による変革の可能性を、新自由主義の勝利が全面化してしまった2000年代のロンドンの中に幻視すること。この時間的に屈折したブリアルの美学こそ、マーク・フィッシャーが「憑在論(Hauntology)」と呼んだものとぴったり重なるものであった。



憑在論と資本主義リアリズム

「憑在論(Hauntology)」は元々『マルクスの亡霊たち』のなかでジャック・デリダが考案した概念である。これは「存在論(Ontology)」に 「憑りつくこと(Haunting)」を組み合わせた半ば言葉遊び的な概念であり、1989年にソ連が崩壊しフランシス・フクヤマが軽率にも「歴史の終わり」を宣言するような状況に対するデリダなりの介入でもあった。共産主義が死に絶えリベラル民主主義と資本主義こそが唯一の選択肢となったように見える状況下において、古典的な存在論の外部から、すなわち、存在せずとも幾度も回帰して潜勢的に働きかける亡霊のようなもの、としてマルクスとその思想を位置付け直そうとした試みが憑在論であった。

このような出自を持つ憑在論がポピュラー・カルチャーを論じるためのツールとして再文脈化されたのは、2005年末から2006年初頭にかけてのマーク・フィッシャー、サイモン・レイノルズ、マイク・パウエルらのブログ空間での議論においてであった。ザ・フォーカス・グループ『Hey Let Loose Your Love』などに代表される《Ghost Box》の作品群、ウィリアム・バシンスキ『Disintegration Loops』、アリエル・ピンク『House Arrest』、ザ・ケアテイカーの諸作品などが共有する一連の傾向を──サウンド・コラージュ的な手法、テープやレコードなどがその特性上有しているノイズの強調、「幽霊(Ghost)」に関わる用語の多用、などを共通した美学として持っていた──理解するための議論のなかで浮上したのが憑在論であった。

憑在論的な音楽は古い音響テクノロジーが孕んでしまうノイズを強調することによって、過去の亡霊たちを呼び寄せようとする。ジョナサン・スターンやフリードリヒ・キットラーが指摘してきたように、音響再生産技術それ自体はその起源からして死者の声を書き取ること──フォノグラフという呼称は音(Phono)を書き取ること(graph)に由来する──と不可分な関係にあった。音楽のデジタル化が──それはシグナル・ノイズ比を最小化せよというミッションによって駆動される——生産・消費・流通の全局面において浸透した2000年代において、このような実践は音響再生産技術が持つ死せる者との根源的な関係性を、抹消されたはずのノイズを強調することによって暴き出そうとしたのだ。

憑在論は、マーク・フィッシャーの批評にとっての「資本主義リアリズム」とならぶ鍵概念でもあった。資本主義リアリズムが資本主義しか選択肢はないという信念が浸透している状況を指し示す概念であるのに対して、憑在論はそのような絶望的な状況に対する拒絶の身ぶりを問題化する文化論的な視座である。マーク・フィッシャーの理解によれば憑在論は「もはやないもの」と「いまだ起こっていないもの」という二つの効果を伴う。それは資本主義リアリズム的な状況を、失われた過去と未来への想像力を通じて拒絶する実践を名付けるものであったのだ。



反夜明けの啓示──抹消されたビート、語り部としての声、既知のものが訪れること──

『Antidawn』とブリアルのこれまでの長編2作品を決定的に分かつ、もっとも明確な特徴はビートに関するものだ。ビートが不在なのではない。注意深く聞けばわかることだが、それはボリュームを極限まで絞るミックスによって種々のレイヤーの彼方に沈められている。『Antidawn』はビートを微かな痕跡へと留めてしまうことによって、ブリアルの諸作品が持っていたロンドンやUKの刻印を消し去ろうとする。これまでの作品に埋め込まれてきた2ステップやUKガラージやダブステップに由来するビートはブリアルのハードコア連続体への忠誠を示すものであり、それは彼が切望してやまない失われたレイヴとエクスタシーのユートピアに対する羨望の証であった。『Antidawn』においてブリアルがビートを沈めてしまったことは、明らかにブリアルがレイヴの亡霊と距離を置こうとしていることと関係があるはずだ。

ビートがクラックル・ノイズやフィールド・レコーディングと区別不可能なほどの痕跡へと後退した『Antidawn』のサウンド・スケープにおいて、これまでの手つきとは明らかに別の機能を持って立ち現れるのが、ヴォーカル・サンプリングだ。《Hyperdub》から公式に出された作品説明にもあるように、そこでは「歌詞が歌よりも優先され」ているのだ。『Antidawn』において、切り刻まれてコラージュされた歌は、歌詞を通じた語り部としての役目を背負っているのだ。Burial本人は先述の『Untrue』期におけるマーク・フィッシャーによるインタビューで以下のように語っている。



  声を下支えしている音と、うねるようなドラム、そしてヴォーカルが一緒になって耳にされると、なにかが起こるんだよ。
  曲作りをはじめたとき、機材もなくて、ふつうはどうやって作るかもわかってなかったから、ドラムやベースのサウンドを重くすることができなかった。
  だけどそんな状態でも、そこにすこし歌声をいれてやると、曲のほかの部分も聞くにたえるようなものになったんだ。



この発言からもわかるように、ブリアル作品における声の導入はそもそも補完的な意図をもっていた。それはドラムやベースだけでは不十分な情動を楽曲に獲得するために導入されたレイヤーであった。それはブリアルの着想源となるハードコア連続体におけるヴォーカル・サイエンス同様、リズム・セクションを主として、そのリズム上に情動の織物として配置されることによってはじめて機能するものであった。しかしながら『Antidawn』において、従来の声とビートの関係性は明らかに転倒している。ビートがアンビエンスの一要素にまで後退し、声が主として振舞っているのだ。したがって『Antidawn』においては、声が語っていることが決定的に重要となる。声が語っていることとの関係性においてトラックの他の要素を解釈することでBurialの意図が立ち上がってくるはずだ。

わざわざ指摘するまでもなく『Antidawn』はその題名が示す通り、夜や暗闇について語ろうとしている。それは行くあてもなく“Nowhere to go”、孤独に近所をさまよい歩くような夜のことだ(1曲目「Strange Neighbourhood」)。そのような夜において、訪れる「何か」について“Tonight, I know it’s coming”、ブリアルは語ろうとする(2曲目「Antidawn」)。訪れを表す“Come”という表現は、EP全体を通じて何度も立ち現れる。とりわけ4曲目「New Love」においては、“Come up, come up to me”というフレーズが連呼される。どこか聖性を帯びたオルガンやシンセパッドやクワイアなどによってその訪れは演出されるわけだが、では、その訪れる「何か」とは何を指すのか。“You came around my way”“Let me hold you for awhile”“All I want is you”などのフレーズにおける“you”という二人称の多用、あるいは“Come up to me, my love”“New Love”“In your loving arms”における“Love”。このようなラブロマンスとのアナロジーを通じて表現されるその「何か」は、“I still want you”“You came my way what used to be”“I miss ya”というフレーズからもわかるように、未知のものではなく既に経験されたことのある「何か」である。

前述してきたようにブリアルがこれまで切望してきたのは、レイヴ・カルチャーとその共同性や連帯の夢であった。それはブリアルにとって間に合わずに過ぎ去ってしまったものであり、失われた未来の亡霊でもあった。つまりそれはブリアルにとっては経験されることのないものであった。しかしながら『Antidawn』において切望されその到来が描かれるのは、ブリアル自身にも既に経験されたことのある「何か」である。その「何か」は、孤独な夜において知覚されるどこか聖性を帯びた啓示のようなものなのだ。レイヴ・カルチャーとその共同性は、時間的・空間的に特定の社会集団における集合的な記憶であり夢であったが、ブリアルはその固有性から離陸して、極端に個人的な経験であるがゆえに普遍的な、孤独な夜における啓示めいた「何か」をおぼろげに掴み取ろうとしているのだ。



「Upstairs Flat」の普遍性と共同性に向けて

ブリアルが『Antidawn』で試みたように、時間的・空間的に特定の社会集団における集合的な記憶に背をむけることは、憑在論の負の側面と一定の距離をあけることでもある。「もはやないもの」と「いまだ起こっていないもの」の亡霊を現在において取り憑かせてしまうことは、資本主義リアリズム的な状況に対する抵抗的な身ぶりでもある一方で、醜悪な保守主義の腐臭が漂うノスタルジーの物語に絡め取られてしまう危険性を常に帯びているからだ。例えば、憑在論が音楽において適用され始めた時期においてその重要な考察対象であったアリエル・ピンクの取り憑かれた者としての軌跡(=Haunted Graffity)を辿ってみるといい。「Make America Great Again」という白人男性にとってのアメリカン・ドリームを夢想する亡霊に取り憑かれ、ホワイト・ハウス襲撃に参加するというのは考えられる限り最悪の末路だ。あるいは、戦後日本における輝かしい時代を象徴するオリンピックと万博という物語を2020年代において再演すること、これは憑在論の持っていたポテンシャルを考えられうる限り最悪の陳腐さによって転倒したものではないだろうか。いずれにせよ2010年代以降の醜悪な展開の多くは、時間的・空間的に特定の社会集団における輝かしい集合的な記憶の亡霊によって駆動されてきたはずだ。

マーク・フィッシャーが2017年にうつ病によって力尽きるそのときまで構想していた「アシッド・コミュニズム(Acid Communism)」は、この絶望的な社会のオルタナティヴを想像するために、1960年代のカウンター・カルチャーや1990年代のレイヴ・カルチャーに変革と共同性の啓示を与えたLSDやMDMAのような幻覚剤をアナロジーとして用いようとしていた。それはこの社会の外へ出るための想像力を、アシッドがもつ啓示的な作用へのアナロジーを通じてたぐりよせようとしていたのだ。アシッド・コミュニズムの全容を知ることは叶わぬ夢になってしまったが、この啓示的な感覚への志向は、『Antidawn』でブリアルが追い求めようとしていたものと同期していたはずだ。

『Antidawn』はポスト・パンデミック的な状況下においてそれぞれの寝室(=「UPSTAIRS FLAT」)に閉じ込められてしまった者たちに対する啓示的な音楽である。ダンス・ミュージックはその起源から常に連帯に関わるものであったが、『Antidawn』においてはダンス・ミュージックをダンス・ミュージックたらしめるビートをわずかな痕跡にとどめてしまうことによって、集合的な固有性の物語から離陸し、それぞれの寝室における普遍的な共同性を解き放とうとする。『Antidawn』は憑在論の美学を引き継ぎつつも、その陥穽を迂回することによって、より普遍的な可能性へとひらいていく試みである。われわれは孤独と切望の感覚において、そのような感覚に苛まれる夜に訪れる啓示のような何かにおいて、離れていてもなお共同性を獲得しうる可能性を保持している。(篠田ミル)

Text By Miru Shinoda


Burial

Antidawn

LABEL : Hyperdub / Beatink
RELEASE DATE : 2021.01.28


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