Back

Another Story Of Bob Dylan
ディランに捧げる断章とマルジナリア

27 March 2020 | By Takuro Okada

新型コロナウイルスの感染拡大で、多くの音楽イベントが中止や延期をせざるえない状況が続いている中、ボブ・ディランの来日公演も取りやめとなってしまった。これまで、私たち人類が何百、何千年と時代を経て築き上げてきた素晴らしく洗練されていたはずの今日も、新型のウィルス1つでここまで混乱をもたらす、というのは、なんだかSFの世界の話のような、現実味のない話に思える。いっぽうで、素早く情報が伝達する今日のSNSのようなタイムラインを覗けば、気も滅入るような現実を目にしないわけにもいかない。

このエッセイはもともと、ボブ・ディランの来日公演に合わせて書き上げたものだったが、ライヴは中止になってしまった。とはいえ、せっかく出来上がっている文章なので記事は上げてくれるとのこと。目的地を定めずボブ・ディランについて連想出来ることを、つらつらと書き進めた文章。どうも外出も気乗りしない日々が続いてる方も多いかと思うので、そんな人の暇つぶしの1つになれば幸い。

ボブ・ディランという名前は、アメリカから遠く離れたここ日本でも、老若男女の誰しも名前を知っていて、ある程度の音楽ファンであれば(そうでなくても)「Like a Rolling Stone」、「Blowin' in the Wind」といった代表曲はいつかどこかできっと耳にしているはずだ。2016年には、ノーベル賞授賞式に出る出ないの騒ぎ立てが注目された。 “気難しく、ミステリアスで、人を食ったような”長年語られてきたボブ・ディランという人物像に改めてスポットが当てられたのも記憶に新しい。1962年にリリースされたセルフ・タイトル・アルバム(オリジナル・アルバムであるが、師であるウディ・ガスリーへ捧げられた「Song to Woody」、「Talkin' New York」以外はトラディショナル・カヴァー)が、リリースされてから半世紀を越えた今尚、かつてのヒット曲メドレーのような芸者振る舞いをせずに、アーティストとしてのある種の神聖さのようなものを常に保ち続けたミュージシャンは、そう多くはないはずだ。誰かに聴く音楽を押し付けるようなことはしたくないが、ボブ・ディランは間違いなく多くの人に、新しい世代にも、これからも聴き続けられるべき音楽と言い たい。

ただ、その知名度の反面、これからボブ・ディランを聴く人が、彼自身の長いキャリアを包括的に把握するのは困難を極める。それこそ、彼のアルバムを1枚通して聴くような機会はあまり無いのではないだろうか。名前こそ知れているが、時代毎の変遷とその作品の多さで、一見さんを寄せ付けない2大アーティストといえば、マイルス・デイヴィス、そしてボブ・ディランである。サブスクリプションの登場で、私たちは過去の多くの音楽を自由に、そして手軽に行き来することが出来るようになった反面、この音楽ライブラリーの宇宙から、聴くべき音楽を見出すのが困難である。そういった困難さの手引きとして本屋の面だしのような役割を補うため各サブスクリプションが運営するようなプレイリストも多く存在するが、そこにコンパイルされた“代表曲”から“1枚のアルバム”への接続は、聴き放題の膨大なライブラリーを誇るサブスクゆえの困難さを感じないだろうか。すなわち、ボブ・ディランはこれまで以上にその名前は多くの人が目にしているはずだが、彼の『John Wesley Harding』や、『Time Out of Mind』といった代表作でないにしても素晴らしい作品の多くに辿り着くのはよっぽど稀なケースではないだろうか。

便利で手軽と言うことが急速に早まったこの10年、頭の固い物言いをするならば、私たちはいくつの“急がば回れ”を、忘れてしまったのだろうか。例えば、旅先でなんでもかんでも近道してしまい、もしかしたらその回り道で一生心に残るような出来事があったかもしれないのに、家に帰ったら疲労感だけが残っている、というのもよくある話かもしれない。子供の頃は、なにも手に持たず、ただただ寝転びながら天井を見つめたり、河原でぼんやり水がただただ流れていくのを眺めながらいろんな事を思っていたが、この10年間、そんな時間はどれだけあっただろうか。即効的な享楽や人々への過剰な煽動がこれまで以上に求められる今日のポップ・ミュージックの世界で“めんどくささ”の頂点を極めるであろうボブ・ディランの音楽について、2020年代という新しい時代の始めに改めて考えてみたくなった。ディランをまだ聴いた事がなく、これから聴きたいという人の手引きになれば幸い。これまでディランに親しんできた方にはご理解頂けると思うが、誰しもディランにハマれば、圧倒的主観でディランの事を語りたくなってしまう。ディランの音楽の捉え方は、多くのディラン本が存在するようにあまりに様々。このエッセイのようなものも、そういったディラン・ファンの1人の圧倒的主観と思って楽しんで貰えれば幸いである。

僕が初めてボブ・ディランを聴いたのは12歳の頃。小学校6年生の夏休み。詳細な時期を覚えているのはこんな経緯を覚えているからだ。その夏、父がギターをはじめたばかりで熱中している僕のために『ギター・マガジン 2003年 8月号』を買ってきてくれた。その号は「スライド・ギター特集」。「指の短い子供でもこれなら難しいコードを押さえずにギターをもっと楽しめる!」という父の思いがあったかどうかは分からないが、ともかくFやBといった煩わしいコードを気にせず自由に弾けるスライド・ギターに夢中になった。そこで紹介されていたのがマイク・ブルームフィールドで、彼の名演が聴ける作品としてボブ・ディラン『Highway 61 Revisited』が掲載されていて、すぐ近所のCD屋に駆け込んだ。

その時一緒に雑誌で紹介されていて買ったのがデレク&ザ・ドミノス『レイラ』。エリック・クラプトンやデュアン・オールマンのプレイはピッチ感も良いしフレージングも洗練されている。いまこの歳になっての言葉を使うなら、翻訳されたブルースだ。それに対して、それまでテレビやラジオで聴いてきたJ-Popにも、はたまたビートルズのレコードにも、クラプトンのようなギターが聴けることはあってもブルームフィールドのような無垢で荒々しいギターを聴いたことが無かった。そしてディランのような音楽もまた然り。『Layla』も10代の頃に聴き込んだアルバムの1枚だが、その当時の僕を引きつけたのは圧倒的未知なる魅力を秘めた『Highway 61 Revisited』だった。これは余談だが、その後『Highway 61 Revisited』に枝分かれしていくマイク・ブルームフィールド、アル・クーパー『The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper』、ザ・バンド『Music From The Big Pink』、ポール・バターフィールド『The Paul Butterfield Blues Band』、そしてエルモア・ジェイムズ、マディ・ウォーターズ…子供の頃、芋づる式に音楽が脈々と繋がっていく様をレコード越しにとても分かりやすい形で無意識に感じる事が出来たのはあまりに幸福な事だった。例えばザ・バンドに影響されたデレク&ザ・ドミノスという構図を『Music From The Big Pink』のライナー片手に発見したときはとても興奮した!



話を『Highway 61 Revisited』に戻そう。このある意味、様式化されたパンクやヘヴィー・メタルよりもよっぽど荒々しくてけたたましい音楽に引きつけられたのは、11、12歳頃の子供たち誰しもが自我の芽生えとともに持つ、「誰も知らない事を知りたい」、「同じ世代の誰もが知らない音楽を聴いていたい」、「やってはいけないことをやらかしたい」という誰でもない自分自身であるという欲求に対して素直に従った結果だったのだと今改めて思う。歌詞の和訳を読んでも楽曲の全体像は見えてはこない。ニューポート・フォーク・フェスティヴァルの一件はライナー越しに読んだが、その当時はそこに横たわる時代の背景も文脈も分からないからピンとこなかったし、エド・サリヴァン・ショーのキャンセルも、もちろん知らなかったが、「Like A Rolling Stone」の「How does it feel?」や「Ballad Of a Thin Man」の「Do you, Mr.Jones?」というヴァースの終わりの皮肉めいた一言に子供ながら痺れるものがあった。その当時はもちろん、そして今もディランの良さを誰か他人に伝えるのは、人が生きる理由を誰かに伝える事と同等に困難を極める。そういった意味で自分自身での選択が凝り固まる前の12歳頃に『Highway 61 Revisited』を聴けたのはこれもまた幸運であった、と今になって思えるし、こうした感覚が僕自身のその後のリスニングという行為においてベーシックになっていると思える。



この頃に感じ取った「世の中のメインストリームに同化出来ない、あるいは同化することの空しさ」のようなものは、28歳にもなった僕自身(幸いにも音楽でも続けることが出来ている)でも、恥ずかしながら事ある毎に思い起こす。

話は少し断線する。高校生、大学生の頃が、人生でもっとも本を読んだ時期であった。その時期に読んだジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』やジャック・ロンドンの『荒野にて』では、身分証にもコミュニティにも何にも縛られない自由さとそれ故の代償を目の当たりにし、アレン・ギンズバーグ『吠える』は肥大化する資本主義の片隅に確かに存在した薄汚れた裏路地のリアルを、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』はそうしたメインストリームを牛耳る側の空しさを感じた。ここで現代思想『ボブ・ディラン特集』にて掲載された、吉岡忍氏の言葉を借りたい。「(アレン・ギンズバーグやレイモンド・チャンドラーを引き合いに)ボブ・ディランが引き継いだのは世の中のメインストリームに同化出来ない、あるいは同化することの無意味さに気づいたこうした細々とした表現の水脈、しかし、そこで表現されなければ壊れてしまいそうな人間とその感受を描くスタイルだった」。

ディランが歌を書き始めたのは、第二次世界大戦で大いなる一人勝ちを成したアメリカが、“アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ”に絶対的な自身を持っていた時期。しかし同時に朝鮮戦争は泥沼化し、人々もマスメディアもそうした事態には目を背けていた。赤狩りのピークは過ぎていたが、アメリカ的価値観に対して疑うような言動や表現は、とりわけポップ・カルチャーのシーンでは慎重に排除されていた。ピート・シーガーは赤狩りの格好の餌食となっていた。その中でもそれぞれの形での意思表明をしたのが、ジャック・ケルアックであり、レイモンド・チャンドラー、アレン・ギンズバーグであり、ディランはその系譜を受け継いだ存在である。

彼らの意見は、大声でアジテートすることもなく、作品から滲み出る詩情として今日まで残された。詩情のもつ比喩性は、時代時代のそしてあらゆる文化圏で、そこで起こる困難の言葉に置き換えることが可能だ。彼らの言葉は、現代にも意味を持つものが多い。音楽が持つこうした詩情が、現代の情報スピードに全く追いつけず、こうしたスタンスはときに牧歌的と捉えられることも少なくないが、今こういった時代だからこそ、ディランの音楽について考えてみたくなった。



ディランの社会に対する視線を描いた作品で、代表曲「Blowin’ in the Wind」と肩を並べる傑作、「Only a Pawn in Their Game」(1964年『The Times They Are a-Changin’』に収録)をここで取り上げてみようと思う。



The deputy sheriffs, the soldiers, the governors get paid
And the marshals and cops get the same
But the poor white man's used in the hands of them all like a tool
He's taught in his school
From the start by the rule
That the laws are with him
To protect his white skin
To keep up his hate
So he never thinks straight
‘Bout the shape that he’s in
But it ain’t him to blame
He’s only a pawn in their game


システマティックな社会に順応するよう無意識に意識を操作されてしまったレイシストも当時盛んに行われていた公民権運動によって対立させられた人々も、あるいはとある戦争で敵兵を撃ち殺した兵士の事も、誰も責めることは出来ない。彼らは“抗うことの出来ない大きな力”によって弄ばれた駒の1つに過ぎない。ある物事に対して、ある集団的行動の一面だけを持って計ることは困難だ。私たちは社会の1人である以前に、1人の人間であるはずだ。そういった意味では、既存の多くのプロテスト・ソングの体裁のように、公民権運動家のメドガー・エヴァーズに向けて引き金を引いた彼や、人種的な対立に対して反とするではなく、彼にそうさせた、こうした対立を生み出した抗うことの出来ない大きな力や仕組み、体制に反とするべきであり、そういった争いを生み出す事でいったい誰が利益を得ている?という疑問を「Only a Pawn in Their Game」では投げかけている。

ディランの辛辣さが全面に反映された本曲は、それまでの感情的で扇動的な物言いや、新聞記事的な時事をありのままに伝えるプロテスト・ソングの姿勢をみせたピート・シーガーや同世代のフィル・オクスとは、全く異なる性質のものであったとされている。1963年8月28日に行われた公民権運動ワシントン大行進で、そこに集まった2万人の前でこの曲は披露されている。同日、マーティン・ルーサー・キングが、あの有名な「I have a dream」の演説のため同じく登壇していることから、若干20歳そこそこの若いフォーク・シンガーが当時持っていた影響力が計り知れるだろう。

こうした社会派としての評価を確立するも、ディラン自身は事ある毎にプロテスト・シンガーである事を否定しているのは知られた話。そして、そこに定住するわけもなく1964年に世に送り出された次作『Another Side of Bob Dylan』からは、より抽象的詞世界へと向かっていく。

“プロテスト・シンガーと呼ばれていた時代”と『Another Side of Bob Dylan』の間には、ケネディ暗殺事件が横たわる。1963年の夏にアフリカ系住民に対する人種差別について反とする強硬な姿勢を取ったケネディへの反感が渦巻くテキサス、ダラス市内をパレード中に銃撃された。一国の大統領であってもシステムに抗えば白昼堂々と市街地で暗殺された、この一件に、当時絶大な影響力を持ったディランが震え上がったのは間違いないはずだ。と同時に、プロテスト・ソングを聴いた故に社会的な動きに関心を持つことはあり得ようか?社会に関心があるからプロテスト・ソングを聴く人は想像出来るが、その逆はあまり考えられない。自由を求めるプロテスト・ソングという枠組みも、気がつけば形が用意された自由の効かないものになってしまっていたと言えるかもしれない。アメリカではブリティッシュ・インヴェイジョン渦巻く。純粋に今までの制作に飽きて次のタームを目論んだのかもしれない。こうして文字を連ねながら、だれもが様々の勘ぐりをついついしてしまいたくなるディ ランはなんとも不思議な存在だ。ともあれ、ここで彼の楽曲のマインドは大きく方向転換することになる。自身の“Another Side”であるに相応しい「My Back Pages」、「Chimes of Freedom」など、特定の物語を語るのではなく、詩の持つ想起に委ねられた自由な詞世界がそこには広がり、ここではまだ弾き語りで演奏されるがロックのビートが確かに脈を打っている。



Half-wracked prejudice leaped forth
“Rip down all hate,” I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull. I dreamed
Romantic facts of musketeers
Foundationed deep, somehow
Ah, but I was so much older then
I’m younger than that now

とある近年のインタビューでディランがこんな発言をしているのを思い出した。たしかこんな趣旨の話。「多くのポップ・ミュージックはある事柄を1つの方向に向かって歌っているものばかりだ。もっと物事を多面的に捉えたい。そうして聴き手の意識をかく乱させるんだ。その方が退屈させずに済むだろ」。ディランに関する本が多く出版され、多くの人がディランについて語りたくなるのは、まさに彼の楽曲、詞、ときに予測不可能な行動によってしっかり意識をかき乱されているからだ。物事を表面的に捉えていただけで、それを顔の前に両手をかざしたら手そのものすら見えない。ディランの音楽を聴くことは僕自身にとって、サウンドそして詞に耳を傾け、与えられた断片的なイメージから想起したものを頭の隅に書き込んでいくような作業に思える。

ディランは自身の音楽をどう読み解けばよいのか、という質問に対して「僕が意図した意味と、聴き手が考える意味があって、どこかその中間点に意味があるんじゃないかな」と発言している。

ある直接的なもの言いの共感こそポップ・ミュージックの歴史であるのは疑いようのない事実であるのかもしれない。キャッチ・コピーめいた、トマト缶や洗濯洗剤の横にポップ・ミュージックは陳列されてきた。トマト缶や洗濯洗剤といった商品とは異なる聖なるものとしての音楽である事を誰しもが望みながらも、本質的にはトマト缶や洗濯洗剤を扱うように音楽から享楽を受け取ってきた。そしてある一面の絶対的正義を振りかざす直接的メッセージによって人々を煽動するプロテスト・ソングは、裏を返せばファシズム的大衆煽動の構造と何が違うと言えるのだろうか。

『Another Side of Bob Dylan』に存在する音楽と言葉は、聴き手に対して、常に連鎖的イメージのフラッシュ・バックをもたらす。あるいは、スピーカーを目の前にした途端に、あたまの上から短いセンテンスの固まりがゴロゴロと降り注ぐ感覚を覚える。

少し突飛な物言いになってしまうかもしれないが、こんな見方は出来ないだろうか。怠惰な人類にとってのもっとも根源的にプロテストな姿勢は、詩のイメージの連鎖のように、社会を構成するあらゆる物事に対して(それは政治だけに限らない、インターネットを通じてディスプレイの向こう側にいるあなた、そしてトイレットペーパー1つに対してもである)、深い感受と柔軟な思慮を促すことだ。人は宿命的に孤独な存在である。それは家族の有無にかかわらず、幸福であろうとそうではないにしても、誰も他者の胸の内を隅々まで誤差なく理解することは不可能だ。感受し慮ることの繰り返しが人間を人間たらしめるのだとしたら、人が生きること自体が詩のイメージの連鎖である。集団的な行動の力強さと、その反面をもし歴史が証明しているのであれば、圧倒的な個々人の感受と思慮こそ、次の何かへと繋がっていくはずだと、信じたくなる何かが『Another Side of Bob Dylan』、そしてそれ以降のディランの作品に散りばめられているように感じてやまない。

「この世の中のメインストリームに同化出来ない、あるいは同化することの空しさのようなものに気づいてしまった、こうした細々と続く表現の水脈。しかし、そこで表現されなければ壊れてしまいそうな感受を描くスタイルを受け継いでいる」とは、こうしたプロテスト・ソング期以降のスタイルを確立したディランを表すのによりシックリくる。

『Another Side of Bob Dylan』をリリースしたその翌年には『Bringing It All Back Home』で、それまでのフォーク・シンガーとしてのディランを期待していた多くのリスナーに対しておかまいなしのレコードA面からエレクトリック・サウンドをかき鳴らし物議を醸す。

今でこそ“フォーク・ロック”なんて言葉が使われ伝統的な音楽のひとジャンルとされるが、1960年代中盤のアメリカでは一般的に、生活や社会との結びつきとの間で生まれた伝承的な歌や感性を歌い継ぐ、ある種のインテリイズムを有した“フォーク”と、ジャック・ケルアック的な自由を纏うもう1つのアメリカの姿勢すらも巨大な産業として呑み込み、けたたましい轟き音をかき鳴らした“ロック”は、火と油の存在だった。

B面こそ、ロック・バンドのバッキングは用いず、アコースティック・ギターを主体としたフォーク・スタイルの体裁こそみせるが、詞世界はいよいよ飛躍的に自由な表現を獲得する。ここで聴ける代表曲「Mr. Tambourine Man」は、『Another Side of Bob Dylan』以降の芳醇なディランの詞世界を表した傑作である。そこには、私たちが日々感じている心の動きがあり、多くのソングで歌い継がれてきた“自由”であることが、もっとも美しい形で綴られる。

Hey! Mr. Tambourine Man, play a song for me
I’m not sleepy and there is no place I’m going to
Hey! Mr. Tambourine Man, play a song for me
In the jingle jangle morning I’ll come followin’ you
Though I know that evenin’s empire has returned into sand
Vanished from my hand
Left me blindly here to stand but still not sleeping
My weariness amazes me, I’m branded on my feet
I have no one to meet
And the ancient empty street’s too dead for dreaming

こうした個人の原則を守り抜いてきたディランの精神を決定的にした事件は、ここから遡る1963年。彼にとって初めての全米中継を予定していたテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』での一件と言われている。当日の本番前にリハーサルが順調に行われたが、予定していた「Talkin' John Birch Paranoid Blues」は極右団体「ジョン・バーチ・ソサエティ」を揶揄した曲とされ、CBS側に放送には相応しくないと曲の変更を求められた。ディランはそれを拒否。「Talkin' John Birch Paranoid Blues」が歌えないのなら番組には出ないと、スタジオから出て行ってしまった。これ以降、いっさい自分のルール以外に従わなくなったという意味では、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルでのエレクトリック化以上のターニング・ポイントではないだろうか。



その後は「Like a Rolling Stone」を収録した1965年『Highway 61 Revisited』、1966年『Blonde on Blonde』と、ディランのキャリアを通じて最高峰と名高い2枚のアルバムをリリースする。

ここで少しおさらい。1964年から1966年の間には、1964年『The Times They Are a-Changin'』、『Another Side of Bob Dylan』、1965年『Bringing It All Back Home』、『Highway 61 Revisited』、1966年『Blonde on Blonde』と、驚異的なペースでアルバムを作り上げている。それも、1枚毎に、その試みは強烈な革新を帯びた。その間、ほとんど休みなく、ツアーを続け、メディアにも登場、1965年のボブ・ディラン英国コンサート・ツアーの様子を記録した実験的なドキュメンタリー映画『DONT LOOK BACK』の終わりの見えない編集作業も行い、The Byrds「Mr.Tambourine Man」はじめ、カヴァー・ヒットもあり、その合間にディランは創作活動を続けた。「Like a Rolling Stone」のヒット以降、“若きフォーク・スター”は、あっという間に全世界を魅了する“世界一のポップ・スター”となった。ディランの動向は世界中から注目され、期待を寄せられ、彼はそれに答えようと、常に切迫したように転がり続けた。そして1966年7月突然の沈黙が訪れる。

3日間眠らずにオートバイを運転。これはツアー後もアフェタミンの常用が続いていた事を示していると言われている。その道中、ウッドストック近郊で事故を起こす。一時は、重傷、死亡説など流れたが、実際には幸いな事に軽症で済んだ(とは言え、首の後ろ側を剥離骨折した)。取材の約束やテレビ出演、64本のライブはキャンセルとなった。この事故は、スターである事をやめ、公衆の面前にも出るのをやめ、薬物も煙草もやめるキッカケになり、療養中は家族との時間を過ごし、聖書を読んでいた。ここからは憶測。こうした価値観の転換点として語られる、この事故であるが、ポップ・ミュージックの行き着く所まで辿り着いてしまい、そこからの先の見えなさは、彼自身が一番によく感じていたのではないだろうか。大衆の求めているものを提供し続けるポップ・スターとしての摂理に、デビュー当時から辛辣な言葉を投げかけ続けたディラン自身が敏感にならないわけがないと想像する(かといって『Highway 61 Revisited』や『Blonde on Blonde』に一切の迎合が存在していない事を誤解の無いよう改めてここで付け加えたい)。ともあれ、この時期の療養がその後の彼のキャリアにとっての転換点である事は間違いない。多くのリスナーが希求するボブ・ディランである事をやめ、時代の旗手である事をやめ、自身の追い求める作品世界へと没頭していく。それはまるで、作っても作っても永遠に充たされる事のない自分自身の創作的欲求に対して実直であることが、これからのボブ・ディランであるとの宣言のように。

ここを大きな河のように隔て、更なる作風の展望を遂げていくため、多くのディラン・リスナーのこちら側とあちら側を隔てる点でもあると感じる。

そんな療養中に、後にザ・バンドとなる面々とともにあの有名なフェスで注目を浴びる前の片田舎ウッドストックの一軒家でレコーディングを行っており、ブート盤として出回ったそれらのトラックは1975年『The Basement Tapes』として正式にリリースされる。この話はここでは割愛。1年の沈黙を破りリリースされたのは、『John Wesley Harding』だった。



『John Wesley Harding』に関するディランの発言は、各時期で多く存在するが、1978年『ローリング・ストーン』誌の名インタビュアー、ジョナサン・コットによるインタビューでの発言を引用したい。

「『Blonde on Blonde』のときにはずっと、意識せずにやっていた。その後ある日、半分踏み出して、そして光が消えた。その時点から、ぼくはいわゆる記憶喪失になった…それまで無意識にやっていた事を意識的にやれるようになるまで、長い時間がかかった。〜中略〜それは誰にでも起こる。人が何もせずにいるか、何かを失ってそれを取り戻すか、新しいものを見つけなくてはならない時期の事を考えてみれば良い。〜中略〜『John Wesley Harding』は恐怖でいっぱいのアルバムだ。恐怖をあつかっているんだ(ここでディランは笑うそう)。恐ろしい方法で悪魔と取引していると言っていいだろう。ぼくが望んだのは、適切な言葉を選ぶことだけだった。それまでやったことがなかったから、勇気のいることだった」



1967年、時代はサイケデリック革命まっただ中。ビートルズが『Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band』、ローリング・ストーンズは『Their Satanic Majesties Request』、ビーチボーイズは前年に『Pet Sounds』をリリース。ドアーズにジミ・ヘンドリックスとこれまでレコードでは聴かれない洗練されたテクスチャーを有した録音作品が立て続けに話題を呼ぶ中、ビートルズと同様に時代を牽引し続けたポップ・スター、ディランがバイク事故からカムバック後にリリースしたのは、ナッシュヴィルで録音されたカントリーをベースとした飾りっ気のない『John Wesley Harding』だった。“John Wesley Harding”はアメリカ西部開拓時代に実在したアウトローの名。きっとリリースされた当時でさえ、ノスタルジックさを想起させたはずの『John Wesley Harding』は、しっかりビルボード・チャートで2位を獲得しているのは、“それでも”の当時のディランの影響力を窺い知れる。いま、改めて本作を聴き返すと、ギターの伴奏に、ベース&ドラムのリズム・セクション、ハーモニカ、そしてディランの歌という、その簡素なアンサンブルもあって、当然『Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band』や『Are You Experienced』を聴いた後、今日の私たちが思い浮かべる1967年というステレオ・タイプなイメージとは当然かけ離れたものと感じる。ここまで骨組みだけで転がるバンド・アンサンブルを有したレコードは、他になかなか思い浮かばない。そんな中で、チャーリー・マッコイによる、よく歌いながらもがっしり土台を支えるベース、そ して隙間を縫うように頻繁に登場するハーモニカは本盤の聴き所の1つだろう。装飾的なものを排すると時代がぼやけていくのはレコードの面白い点に思えてくる。音響面だけを切り取ってもこのレコードのユニークさが感じ取れる。そして、この音楽を聴いた後の美しさと得体の知れなさは永久に変わることはないとも感じる。「音楽における普遍的な価値観は存在し得ない。時代ごとに今という点から遠い過去から脈々と続く文脈を参照し、現在という点に対して評価を向けなくてはいけない以上、それは必ず流動的なものであるはずだ」。とはよく言われる話だが、1つ例外があるとすればボブ・ディランであり、『John Wesley Harding』は象徴的な存在だ。



せっかくなので本盤に収録されたお気に入りの1曲「Dear Landlord」を紹介しておきたい。 ここではディランはギターを置き、ピアノで伴奏をしている。シンプルなバンド・アンサンブルはそのままであるが、ギターのストロークが無い分、アンサンブルの隙間が感じられ、ドラムのシャッフル・ビートの心地よさが存分に味わえる。



Dear landlord
Please don’t put a price on my soul
My burden is heavy
My dreams are beyond control
When that steamboat whistle blows
I’m gonna give you all I got to give
And I do hope you receive it well
Dependin’ on the way you feel that you live


ポール・ウィリアムス著の『ボブ・ディラン時の轍』で、本曲に関してこんな言及がある「(“「Dear landlord」は朝、目を覚ますとふとその一行目が浮かんだ。その後、それに何かを付け加えることが出来るはずだと書き足した“というディランのコメントから)もしそうだとしたら、ディランは「地主とはだれなのか」や「だれに向けて歌うか」を前もって想定していなかったと思われる。夢の中のように、この歌が指す人間は、いくつもの性格を持っているのかもしれないし、無意識のうちに同時に数人を表しているかもしれない、特定の人物ではなく、人間のある種の感じを表しているのかもしれない。そして、ぼくたち聴き手には、この歌を1人の地主ではなく、それぞれが人生で出会うさまざまな地主たちについてのものとして聴く自由がある」

さてさて、ここからプレイリストには入らないディランの作品が延々と続いていくことになるのだが、この先は、ネットの音楽記事にしては些か長過ぎる文章を最後まで読んでくれた方に是非とも委ねたい所。と言いつつ、次作『Nashville Skyline』は、ビックリするような歌声の変貌を遂げている。これに対してディランは「煙草をやめたら声が変わった」と発言しているが(なんじゃそりゃ!)真相はいかに…。

というわけで、最後に2016年のフランク・シナトラのカヴァー・アルバム第二弾よりお気に入りの楽曲を紹介したい。

ハリウッド畑のサックス奏者/アレンジャーのジョニー・リチャーズ作曲、本曲のヒットによりその後ブロードウェイで活動することになるキャロリン・リー作詞。1953年にフランク・シナトラが歌いヒットした名曲。



Fairy tales can come true
It can happen to you if you’re young at heart
For it’s hard, you will find
To be narrow of mind if you’re young at heart
You can go to extremes with impossible schemes
You can laugh when your dreams fall apart at the seams
And life gets more exciting with each passing day
And love is either in your heart or on it’s way


心の柔軟さというのか、自分の範疇にないものに対しても柔軟な心のゆとりこそが、この世において何よりも豊かで素敵なこと、という、当たり前と言えど、いつしか当たり前に忘れてしまう気持ちを描いた本曲をキャロリン・リーが書いたのは、彼女が25歳の時だった。そんな曲を、70歳を越えたディランが歌い、カヴァー・アルバム第二弾とはいえアルバムの冒頭にこの曲を置いているのは、とても素敵な話のように思える。そこには、“気難しく、ミステリアスで、人を食ったような”イメージは微塵も感じさせないし。けれど、それ自体もいつものようにディランがディランを演じているという煙の巻き方に思えなくもない。ただ、デビュー当初から、今日まで、多くの音楽ファンを翻弄させ続けたディランの本心がここで垣間みえるような気がしてならない。何でもない言葉が、音楽に乗ることで何か別の意味が見えてくるような気がする時、そこに音楽の詩情を感じないだろうか。(岡田拓郎)



編集部注:こちらの記事を公開した直後にボブ・ディランの新曲が届いたので追記しておきます。



岡田拓郎がセレクトしたボブ・ディラン・ソング・プレイリスト


i, i

Bob Dylan

日本のシングル集

LABEL : Sony Music Japan
RELEASE DATE : 2020.03.25

■amazon商品ページはこちら


関連記事
【FEATURE】
The Young Person’s Guide To Bob Dylan〜ディランこそ時代の革命家で歴史の継承者だ
http://turntokyo.com/features/features-bobdylan/

Text By Takuro Okada

1 2 3 62