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【ベックの新作から音楽の過去と未来を考える #1】
カタカナの先にある光を見るには~beipanaが紐解く『Hyperspace』

22 November 2019 | By Youhei Nishioka / beipana

かつてオルタナ代表、MTV世代の代表と形容されていたベックは、前作『Colors』で新しい挑戦を試みた。ポップスの価値を見直し、4年の歳月をかけて試行錯誤を繰り返し、華やかで多くの要素が絡み合うラジオフレンドリーな音像を作り上げ、CMタイアップなどの大々的なプロモーションを行い「できるだけ世界の大勢の人とエンゲージする」という精神性を反映した作品に仕上げたのだ。

新作『Hyperspace』はどうか。音数は少なく展開はミニマル。曲名もリリックも内省的で暗い。まるでダウナーな時期に戻ってしまったようにも聴こえる。しかし、実は本作も『Colors』とは異なる方法で世界と繋がり、共振できるように作られている。

ベックの14枚目のアルバム『Hyperspace』は、かねてから親交のあったファレル・ウィリアムスを共作および共同プロデューサーに起用している。今作の内省的な音楽性やリリックはファレルが要因だという。

ファレルには「君はシンガーソングライター的な役割をしてくれ」って言われたんだ。だから音源制作は、ファレルのプロダクションと自分のシンガーソングライター的なものとの間の”何か”を見つけるような作業だった。だから内省的な質感があるんだよね。

   引用:Beck on Being a Fashion Icon, Working with Pharrell, and Living in the Information Age(https://consequenceofsound.net/2019/11/kyle-meredith-with-beck

音数が少なくミニマリスティックな展開のトラック、そして内省的な歌モノが多いのは、本人が意図したのではなくファレルがけん引した結果のようだ。事実、ベックは「最初は(スヌープ・ドッグの)“Drop It Like It’s Hot”みたいな音に仕上がるのを想像してたんだけど。」と語ってもいる。冗談か本気かはわからないが。

ただし『Hyperspace』は、『Sea Change』や『Morning Phase』などの過去の内省的な作品とは方向性が異なる。過去作は、失恋や世間への絶望など個人的な内省が反映されたものだったが、新作の内省性には「世界が反映されている」とベックは語る。

今って、世界中が内省している時期だよね。文化的にも、政治的にも、個人的にもみんな自分探しをしてて。よくわからないけど、ここ数年はそういう時期だと思ってる。それが作品に反映されていると思う。

引用:Beck on Being a Fashion Icon, Working with Pharrell, and Living in the Information Age(https://consequenceofsound.net/2019/11/kyle-meredith-with-beck

“世界中が内省している”という表現からは、近年の≪WOKEカルチャー≫が連想される。≪WOKEカルチャー≫とは、2010年代中頃からソーシャルメディアを中心に広まったアクティビズムの俗称のひとつといったところか。”Stay Woke” = “目覚めよ”という呼びかけの意味で用いられ≪Black Lives Matter≫やロシアのプッシー・ライオットの活動によって拡散された。

これが近年SNSで更に加熱し、著名人たちの過去の悪行(差別行為など)を晒して本人に謝罪させるような、アクティビズムからやや逸脱した状況にもなりつつある。ここ1~2年に至っては、政治家やコメディアンが自ら進んで過去の過ちを告白する流れまで生まれている。まさに政治的にも文化的にも世界中が内省している時代。こうしたムードの一端も作品に反映されたということだろう。

制作の過程でこうして生まれた「内省性」は、音像やリリックだけでなく、アルバムのコンセプトにも反映されている。内省とは過去を振り返る行為だ。過去の振り返り、つまりノスタルジアを示すために、アルバムのタイトルは1979年に登場したビデオゲーム『Asteroids』から引用された。タイトルの『Hyperspace』とは、同ゲームに登場する別次元にワープするためのボタンの名前だ。

「音楽もハイパースペース・ボタンのように、様々な問題を抱える現実世界からどこか異なる世界に連れ去ってくれる力がある」と語るベックは、自身のアルバムも誰かにとってのワープボタンになることを願ったのだろう。

内省、ノスタルジア、そして異なる世界というコンセプトは、ミュージックビデオとアートワークでより一層わかりやすく表現されている。

「Uneventful Days」のミュージックビデオでは、過去のベックのミュージックビデオの衣装を纏った女性たちが次々と登場する。このノスタルジックでパラレルワールド的なアウトプットについて語るベックの発言からは、映像作品に対するより詳細な内省も垣間見えた。

自分のこれまでの映像作品は、ほとんど台本も計算もない自然発生的なものだった。一方で、自分と同時代の最も優れた映像作品を作ったアーティストはビョークだと思っていて。思慮深くあらゆるものに注意を払っていて、映像もとてもアイコニックだしね。

映像って音楽にとって重要だよね。プリンスやビートルズみたいな映像作品を残してこなかった自分に後悔しているのかもしれない。

引用:Beck on Being a Fashion Icon, Working with Pharrell, and Living in the Information Age(https://consequenceofsound.net/2019/11/kyle-meredith-with-beck

自身の過去を内省的にオマージュしてコラージュした結果、ベックが女性に入れ替わっているのは、異なる世界を表現すると同時にビョークへの羨望も含まれているのかもしれない。

そしてアルバムのアートワークだ。自身が所有する日産のヴィンテージ車の前にたたずむベック。上部にはタイトルがカタカナで表記されており、パッと見でシティポップ的なノリが感じられる。これまで説明したコンセプト、タイトルの意味やミュージックビデオを踏まえると、日本語が、シティポップ的なアートワークが、異なる世界であると同時に過去・ノスタルジアのわかりやすい象徴として起用されたと考えて良いはずだ。

日本語が「異なる世界」だということはわかるが、なぜ「ノスタルジアのわかりやすい象徴」なのか。その疑問を解決するヒントは、シカゴのDJヴァン・ポーガムのインタビューから見つけられる。ポーガムは日本産シティポップのミックスをオンラインにアップし続けており、近年のシティポップ・リバイバルの貢献者のひとりでもある。

アメリカは、70年代と80年代を今もなお延々と商品化することで飽和させてしまっているため、若い世代は、当時が実際にどういった雰囲気だったかをイメージすることさえできない。
日本のシティポップは、手つかずと思えるほどに西洋から影響を受けており、かつて我々が持っていた文化の汚染されていないバージョンでもあり、過渡にコマーシャライズもされていない。
シティポップによって自分たちのものではない時間や場所を思い出せてしまうこと、それらにノスタルジーを感じられることは、多くの人にとって新しい体験なんだ。

引用:City Pop, the optimistic disco of 1980s Japan, finds a new young crowd in the West(https://www.chicagoreader.com/Bleader/archives/2019/01/11/city-pop-the-optimistic-disco-of-1980s-japan-finds-a-new-young-crowd-in-the-west

終わらない映画リバイバル、バンドの再結成…、アメリカ人は自分たちのアーカイブを毎日浴びながら暮らしている。そんな彼らが日本語のシティポップへ関心を寄せ始めているのは、自分たちのポップカルチャーの絶え間ないリサイクルにより、過去の懐かしさを感じなくなったことが原因の一部であるとポーガムは考える。現代のアメリカにおいては、本国の80年代の文化よりも異国の80年代の文化の方が、アイロニーを感じずに純粋にノスタルジーに浸れるというわけだ。まさに『Hyperspace』にふさわしいアートワークなのだろう。

ということで、ベックの新作『Hyperspace』は、音源が持つムード、タイトル、映像、アートワークによって、彼が提示したコンセプトへとても明快にリスナーを導いてくれている。しかし世界と共振するために用いた「懐かしくてオブスキュア」な日本語は、今を生きる日本人にとっては効果的なアートワークとは言い難い。普段から周りにあるものだし意味もはっきり理解できるためだ。むしろ「音楽における世界にとってわかりやすい日本の価値って、結局過去のノスタルジーなのか…」と少し落胆すらしてしまう。

しかしベックは「内省の時代の先の世界」について以下のようにも述べている。

(内省の時代だと感じると同時に)去年あたりから何かを待ってるような気分でもあるんだよね。災害を止めてくれたり救出してくれる何かを待っている気分。それが何かは明確にわからないけど。今って、各々が現状から別の場所に向かう中間地点にいるんだと思う。

収録曲の「Saw Lightning」では、その明確な筋道を指しているわけじゃないんだけど、なんというか、その瞬間のムードが表現されてるんじゃないかな。

引用:Beck on Being a Fashion Icon, Working with Pharrell, and Living in the Information Age(https://consequenceofsound.net/2019/11/kyle-meredith-with-beck

“シェルターはもうない
太陽はもうない
そんな時、僕を襲った閃光
シカモアの木の傍で、夜のしじまに
たまらなく長かったあの日のとどめに
降る雨に打たれる、
この上なく厳しい冬に
僕は稲妻を見た

主よ、僕を連れて光へと導いてください
主よ、僕を迎えに来て、光の中へと”

(「Saw Lightning」)

だとすると、カタカナのタイトルも「世界と共振するノスタルジアの象徴」だけでなく、「内省と希望のはざまの象徴」でもあるのかもしれない。象徴でなくとも、かすかなしるしくらいの意味合いはあるのではないか。そう考えると少しは明るい気持ちにもなる。ただし、その希望が見出される対象は「現代の日本」ではなく「無菌状態の80年代の日本文化」であることに変わりはない。つまりわたしのような現代の日本人が、ベックと同じ希望の光を「日本のアーカイブ的質感」から感じ取るためには、ベック=世界と同じパースペクティブを獲得し、維持するところから始めなければならない。

「ハイパースペース」というカタカナを、読まずにじっと見つめながら、そんなことを考えた。(西岡洋平/beipana)

Photo by Peter Hapak

Text By Youhei Nishioka / beipana


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