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ASUNAが描く「音楽という所作、食卓という演奏」

03 September 2022 | By Minoru Hatanaka

ASUNAというアーティストをご存知だろうか。これまでに数多くの国際的なアート・フェスティヴァルからの招待を受け世界各地でパフォーマンス展示をしてきた、おそらく日本国内以上に海外で高く評価されている石川県出身、在住の電子音楽家。そのキャリアは実に20年以上になる。と、紹介すると何やら敷居の高さが強調されてしまうのだが、それをよりカジュアルに、チャーミングに、ウィットや愛嬌を覗かせながら聞かせてくれるのがASUNAの魅力。私がASUNAに最初に出会った時も、彼は楽器や機材をまるでオモチャのように楽しそうに扱っていて、まるでパスカル・コムラードやクリンペライのようだな、とワクワクした。実際に、彼は《aotoao》というレーベルを自ら運営し、彼自身多くを収集しているカシオトーンを用いた曲のコンピレーション・シリーズを多くリリースしてきている。これまでにこのコンピに参加したアーティストは、英国即興シーンのレジェンドであるスティーヴ・ベレスフォード、ザ・シー・アンド・ケイクのサム・プレコップ、タウン・アンド・カントリーのベン・ヴァイダ、イノヤマランド、AKI TSUYUKO、ゑでぃまぁこん、Gofish、ラッキーオールドサンら実に多彩。この秋には第10弾となる新作も予定されていて、そこにはヨ・ラ・テンゴのジェームス・マクニュー、リチャード・ヤングスらが参加するのだという。柔軟な想像力と豊富なアイデアに基づいた演奏とアレンジを武器に、だが決して学究的に走ることなく自らその作品やパフォーマンスを遊戯のように楽しむASUNA。そこで、カシオトーン・コンピレーションVol.10の発売も控えるそんなASUNAがこの5月に開催した新作パフォーマンス『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』を改めて振り返っておこうと思う。執筆するのは当日、会場である《SCOOL》で鑑賞したNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)主任学芸員の畠中実氏。現在アーカイヴ配信が可能になっているので(詳細は下記)ぜひチェックしてみてほしいと思う。(岡村詩野)



Text by Minoru Hatanaka


一般的にテニスはスポーツであり、ダンスでも音楽でもないが、テニスをすることが、ダンスや音楽になるということはある。いきなりなんだと思われるかもしれない。1966年に、米国のアーティスト、ロバート・ラウシェンバーグによって上演された作品《Open Score》は、そのような、テニスをプレイすることがダンスや音楽をプレイすることになる、という作品だった。それは、E.A.T. (Experiments in Art Technology)によるイヴェント《九つの夕べ——演劇とエンジニアリング(9 Evenings: Theatre and Engineering)》において上演されたもので、会場となったニューヨークの第69連隊アーモリー(兵器廠/兵士訓練センター)の広い会場には、テニスコートがあり、そこに2人のプレイヤーが登場すると、テニスの打ち合いをはじめる。ラケットのフレームには、コンタクト・マイクが装着されており、ボールの打撃音がコンタクト・マイクで拾われると、ラケットのフレームに巻かれた送信アンテナとグリップの中に仕込まれた送信機によってFM受信機に送られて、会場のPAシステムから流される仕組みになっていた。そのため観客は、テニスの試合を見ていると同時に、ボールが打ち返されるたびに、それを音響的に聴くことにもなるというわけだ。さらには、プレイヤーの動きをムーヴメントとして眺めれば、即興的なダンスと見ることもできる。そこでは、テニスの試合が、普通にテニスでありながら、一方で、音楽の演奏、あるいはダンスでもあるというように、まったく異なる要素が、同時に両義的な行為として顕現していたのである。

その時代には、インターメディアと呼ばれたそのような表現は、映像、音響、あるいはダンス、演劇などが複合的に組み合わされ、さらにテクノロジーを介することによって、各々が別のメディアに変換されながら、その中間領域にあるような作品を標榜したものである。ディック・ヒギンズは、その著書『インターメディアの詩学』(国書刊行会、引用の章は庄野泰子の訳による)の中の一章「童話 フルクサス物語」の冒頭で、のちにフルクサスと名乗るようになったアーティストたちについて「すてきなことをしたいと思っていた人々が、自分たちのまわりの世界を(その人たちにとっては)新しい仕方で見始め」た、と書いている。60年代から70年代にかけてアメリカ、ヨーロッパ、そして日本など世界各地のアーティストが参加して展開された前衛芸術運動、フルクサスは、音楽、美術、詩、映画などの多様なジャンルからアーティストが集まり、それら複数のメディアの中間領域としてのインターメディアを模索した。また、芸術を日常的な営為にまで降ろし、日常の中に芸術を見いだすことで、日常生活と芸術の同化という思考のもと、あらゆるものがアートになり、誰でもがアートを作ることができるという考えを実践し、活動を行なった。

ASUNAは、リード・オルガンを音響装置へと改造した2002年の作品『each organ』や、スペインのレーベル《Lucky Kitchen》から作品をリリースするなど、国内外の実験音楽、電子音楽の領域で活動してきた。これまで、海外のアーティストやレーベルとの交流や、国外での演奏なども積極的に行なってきた。しかし、近年では、ヨーロッパでの国際芸術祭や現代音楽祭への招待参加などが相次ぎ、(本人の意図とは関係なく)よりエスタブリッシュされた場での活動が続いている。それによって、2021年には、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラス、メレディス・モンク、ローリー・アンダーソンといった、実験音楽、パフォーマンスの伝説的アーティストが公演を行なってきた、ニューヨークのパフォーミング・アーツの殿堂とも言える《Brooklyn Academy of Music(BAM)》からの招聘により、3日間の単独5公演を全てソールドアウトにしたという。

BAMでも上演された、2013年に初演された作品『100 Keyboards』は、これまでにヨーロッパを中心に世界25ヵ国以上でツアーを行なうなど、近年ますます多くの国々で上演されている。ある意味では、ASUNAのアートワールドにおける出世作でもあり、代表作ともなっている。それは、100台を超える電池駆動の大小さまざまなキーボードを用いて、ラ・モンテ・ヤングばりの、ふたつの音程をずっと伸ばし続けるという作品である。このように聞けば、ふたつの音程のみがただ持続するだけの状態が想像されるだろうか。ふたつの持続する音が、それ以外何も起こらずにただ鳴っている、と考えるとさにあらず。副題である「干渉音の分布とモアレ共鳴」が表しているように、それぞれのキーボードの持つ、個体差による音程のずれ、電池駆動による音程への影響などが、音のゆらぎとなってあらわれ、そこに多様なうなりを持っためくるめく音響空間が立ち上がるのである。おなじ鍵盤を押していても、ほんのわずかな、微妙な周波数の差異によっても、音の干渉現象が生じ、さらには、上演される空間の音響特性も影響することで、鑑賞者が会場のどの場所で聴くかによっても、顔の向きを変えただけでも、耳にする音の状態は異なって聴こえるだろう。音響現象がそのまま作品化されたような、しかし、まさにサイトスペシフィックな聴覚体験をもたらす作品である。ASUNAが1台、また1台と、次々にキーボードの電源を入れ、音を出していき、全部のキーボードの音が出終わると、今度は1台ずつ電源を切り、音を減じていき、すべての音が消えたところで終演となる。手法としては、ミニマル・ミュージックや、ドローン・ミュージックを引き継ぎながら、それが、玩具や子供用のキーボードが含まれることによって、ASUNAの言うところの「安価で音程が不安定なキーボードだからこそ作り出せる音のかたまり」が出現し、独自のゆらぎを持ったオリジナルな作品となっている。また、カラフルなキーボード群と、ASUNAの容姿によっても、どこか童話的な世界に引き込まれるような感覚がある。

今回《SCOOL》で上演された『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』は、お菓子を食べること、あるいはお菓子によって音楽を演奏する試みである。ほんとうにただお菓子を食べることが、音楽に変換される、ということでは必ずしもなく、あらゆる要素が音楽的に収斂していく、演劇的ともいえる、ASUNA的なしつらえが周到に施されたサウンド・パフォーマンスだったと言えるだろう。上演作品は、新作『Afternoon Membranophone』と『Falling Sweets』の2作品とインターリュード的な小品の3つのパートからなっている。全編を通してパフォーマーはASUNA本人と加藤りまのふたりによって上演された。今回が初演となる『Afternoon Membranophone』は、小さな丸テーブル然としたスネアとフロアタムといったドラムを共鳴媒体として使用し、オシレーターを発音源とした作品である。膜鳴楽器(タイトルになっているMembranophoneのこと)の張力や振動をコントロールしながら、ドラムスの上のいくつもの小皿に袋からスプーンで取り出したキャンディを取り分け、それを口に運びながら、共鳴とともに回転し、ぶつかりあう小皿と、ちらばった色とりどりのキャンディのざわめきとともに、音のモアレを作り出した。食べてはまた小皿にキャンディを分け、溢れ出たキャンディがドラムのヘッドを満たしていくと、だんだんと振動要素が増えていく。いくつもの振動現象が空間を満たし、ときおりメロディのようにも感じられる音のモアレが現れては消えていく。

上演中、ふたりのパフォーマーは互いに特に会話をすることもなく、アイコンタクトによって作品は進行する。演劇的しつらえと言いながらも、どこかぎこちないパフォーマーの演技は、いわゆる役者のような振る舞いとは程遠い。しかし、それゆえに、むしろお約束感のない、パフォーマーの緊張が伝わってくるようなスリリングな空気を醸すことにもなったのではないだろうか。そして、インターリュードの自動演奏パートをはさんで、後半『Falling Sweets』へとシームレスに続く。

大きめの長いテーブルの上には、カラフルなおもちゃのグロッケン、皿、シンバル、ワイングラス、小型のシンセサイザーなどが所狭しと並び、いかにも食卓を模した配置としつらえである。ふたりがテーブルの両端に着席すると、ワイングラスにスパークリング・キャンディを一袋入れ、そこに天井から吊るされた水差しで、一滴一滴と水がグラス内に注がれる。それに伴って、パチパチとキャンディが弾ける音が響く。また、天井から垂れ下る何本ものマスキングテープの接着面に、パフォーマーがアポロチョコレートやキャンディを貼り付けていくと、それらはほどなくして接着力の弱さと自重でもって落下する。そして、その真下にあるおもちゃのグロッケンやシンバル、皿、といったオブジェに命中し、そこかしこで偶発的に音が発される。それは、時間をおいて音が発されるための仕掛けを用意する行為でもあるようだ。ただし、仕掛けが何秒後に音になるのかは、ふたりにも聴衆にも予測ができない。また皿にもエフェクトが施され、時としてアンプリファイされた、変調された音が鳴り響くようになっている。そして、シンセサイザーの導電性の鍵盤の上に置かれたチョコレートのアルミホイルに、ナイフとフォークで食事をするように触れることで演奏を行なう。

食事の際にフォークやナイフの音と混ざり合う、という「食卓の音楽」のアイデアは、アンビエント・ミュージックの出発点ともなったもののひとつである。しかし、ふたりのパフォーマーは、お菓子と、それを食べる行為を、音を出す装置としてしつらえられた食卓において、それらを積極的に用いて、偶発的な要素を取り込みながら、演奏行為へと変換してみせる。その意味では、明らかに演奏の意図があってこそのしつらえであり、セッティングであり、パフォーマンス全体の構成も大枠はそのために設定されたものだと言えるだろう。『Afternoon Membranophone』は、膜鳴楽器の共鳴現象を利用した持続音による作品であり、一方、『Falling Sweets』は、パフォーマーのコントロールのおよばない、断続的な音の状態がパフォーマーの挙動を誘発する作品というように、さまざまにシリーズのように展開していくことも可能だろう。

冒頭のラウシェンバーグの作品に照らせば、ふたりのパフォーマーは、食べる行為が演奏と同義であることと同時に、あたかもそれが食事の風景として演じられることが望ましい、という難題を自らに課すことになる。しかし、それはうまく行けばいくほど、ふたりの所作はただの食事に見えなければならない。あるいはほんとうにただ食事をしていることになるだろう。デヴィッド・テュードアが、1968年にデヴィッド・バーマン、ゴードン・ムンマ、ロウエル・クロスとともに行なったパフォーマンス『Reunion』では、クロスによる電子音楽演奏装置に改造されたチェス板を用いてマルセル・デュシャンとジョン・ケージのチェスの対局が行なわれた。一方、ASUNAのパフォーマンスでは、そのような行為と結果の分離は必ずしも意図されてはおらず、むしろ行為自体が中間的であるような状態が作られていたと言えるだろうか。しかし、それでも、ASUNAの作品は「すてきなこと」をするための「新しい仕方」のあり方を提示する、フルクサス以来、脈々と受け継がれてきた方法の現在形を垣間見せるものであった。(畠中実)


Photo by Hideto Maezawa


ASUNA
『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』

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※アーカイヴ期間:9月30日(金)23:59まで
問い合せ:SCOOL


Text By Minoru Hatanaka

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