21年ぶりの新作で問いかける《アルバム》の存在意義
人びとはまだ《アルバム》というものを覚えているだろうか。2015年のグラミー賞授賞式でベスト・アルバム部門のプレゼンターとして登壇したプリンスは、スピーチの場で聴衆にそう問いかけた。アルバムという表現形態がもたらす音楽体験の重要性を説いた言葉ではあったが、では、はたして彼がその喪失を嘆いた“アルバムの重要性”とはいったい何だったのか。
今年ピーター・ガブリエルが21年ぶりにオリジナル・アルバムを発表するというニュースは、歴史的な事件としてはもちろん、その独自のリリース形式でもわたしたちを驚かせた。毎月1曲、それも2人のエンジニアによるミックス違いの二種類のバージョンを1年かけてリリースしていくという、きわめて特殊な発表方法がとられたからである。これは単なるシングルの寄せ集めというわけでも、またアルバム全曲を単一トラックとしたプリンスの『Lovesexy』のように、ひとつの流れとして鑑賞することを強いるようなものでもない。彼はこのひさしぶりの新作を、新しい音楽体験とともに提供することを望んだのである。
そこには、昨今の加速する消費社会への反動もあったのかもしれない。ストリーミングサービスが主流となった今、音楽への接し方も以前とは変わりつつある。それは聴く側に限らず、音楽制作の現場においても「イントロが長い曲は飛ばされる」などといった噂話がミュージシャンやスタッフの間でまことしやかに囁かれたりするなど、少なからぬ影響を及ぼしているようにみえる。
しかしながら今回のピーター・ガブリエルの新作『i/o』は、そうした昨今の流行に対して、迎合するでも殊更抗ってみせるでもなく、ほとんど「無視」に近い姿勢をとっている。収録曲の大半が5分を超え、イントロに1分近く費やしている曲も少なくないが、そこに冗長な瞬間などありはしない。繊細に配置された音のひとつひとつが緊張感を持続させ、聴いている間「時間」への意識を心地よく忘れさせてくれるからだ。
それは、「短いから良い・悪い」などといった短絡的な価値基準を彼がいっさい持ち合わせていないことの証明でもある。音楽家はひとえに表現したいものを追求するというごく当たり前であるはずの理念は、この目まぐるしい現代社会において曖昧なものになりつつあるのは無理もないことなのかもしれない。「作ること」と「聴くこと」は、絶えず相互関係にあるからである。だがピーター・ガブリエルは、そうした時代の只中にあっても自身の音楽から意識を逸らすことなく、今風でも昔風でもない「ピーター・ガブリエルの音楽」を達成することにのみエネルギーを注いでいる。それは、彼の持ち前の貴族的な自由さによる特権ともいうべきものなのかもしれない。
たとえば、収録曲「Playing for Time」の原型となる楽曲は、10年前のツアーでもその作曲途中の状態のまま、スキャット混じりによる演奏で披露されていた。そこから納得のいく展開を思いつくまでに10年の歳月を費やしたと彼は言うが、時勢に急がされるまま作品を世に送り出すことはしたくないという彼の意思がそこにもあらわれているだろう。
切迫したヴォーカルに引き込まれる冒頭曲「Panopticom」、マヌ・カチェのドラムスが生々しい「The Court」、今作の主題ともいえる《I’m just a part of everything》──これは《アルバム》という概念にも直結する──というメッセージを前向きに歌った表題曲「i/o」など、聴きどころは枚挙にいとまがないが、とりわけ本作を締め括る最終曲「Live and Let Live」の、総括的でありながら未来を前向きにとらえることを優しく肯定するような力強さが印象深い。
ちなみにタイトルの『i/o』とは《インプット/アウトプット》の意味であり、彼は20年以上も前からこのテーマを仄めかしてきた。そこには、自身の創作活動への言及はもちろん、とめどない消費社会そのものを示唆する側面もあるのだろう。音楽を《聴く/作る》行為は、時代とともにその速度感を増すばかりだが、そうしたスピードと引き換えに、ある種の緊張感が失われることをわたしたちは何よりも恐れなければいけない。時間芸術であるところの音楽、ひいては一枚のアルバムがもたらす音楽体験の贅沢さを、ピーター・ガブリエルの『i/o』はひさしぶりに思い出させてくれる。(佐藤優介)
※上記フィジカルの購入リンクは国内盤SHM-CDのもの。
関連記事
【FEATURE】
ピーター・ガブリエルの帰還
《i/o The Tour》ロンドン公演レポート
http://turntokyo.com/features/peter-gabriel-live-in-london-report/