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ピーター・ガブリエルの帰還
《i/o The Tour》ロンドン公演レポート

24 July 2023 | By Yusuke Sato

私は旅行が嫌いだ。観光というものにあまり興味をひかれたことがないし、まず長距離の移動にともなう長時間の拘束に耐えられない。その距離を、何か自分の人生における成長の尺度と勘違いしたような「自分探し」的な思考も理解不能だし、わざわざ海を越えずとも、近所のまだ知らない風景を探して歩いたり、会話を交わしたことのない隣人にふと話しかけてみたりでもしたほうが、その後の人生においてはるかに有意義な体験になる気がする。

そんな旅行嫌いの人間が、さる6月、ロンドンへ3泊5日の旅を余儀なくされた。ピーター・ガブリエルが約20年ぶりのオリジナル・アルバムを発表し、10年ぶりのコンサート・ツアーを開催するというニュースが飛びこんできたからである。

2013年の《Back to Front Tour》より「Mercy Street」


その詳細を確認するまでもなく、公演予定地のリストに日本が含まれていないだろうことは想像がついていた。1994年の《Secret World Tour》以降、彼が日本にコンサートで訪れたことは一度としてないからである。現状最後の来日公演となっている1994年の武道館公演において、予定していた舞台装置が物理的に設営できず、やむなく演出の変更を強いられたという逸話も伝え聞いてはいるが、そういった彼の表現形態の規模と、日本における集客的な需要との齟齬が現在も続いていることは事実だろう。ともかく、彼のコンサートを観るためには否が応でも海外へと渡らなくてはならないのが実情である。

1993年の《Secret World Tour》より「Blood Of Eden」


新作のリリース・ツアーとはいえ、この文章を書いている現在もアルバムは正式にはリリースされきっていない。というのも、彼の20年ぶりのオリジナル・アルバム『i/o』は、毎月1曲ずつ、それも満月と新月の日にあわせて、2人のエンジニアによるミックス違いの2ヴァージョンをリリースしていくという特殊な発表形態がとられており、まだその全貌を明らかにはしていないのである。現時点で7曲がリリースされてはいるが、ガブリエル自身、このプロジェクトが全何曲からなるものなのかを事前には決めておらず、来年まで続く可能性もあるとインタヴューで答えている。これは、配信でのリリースが主流となり消費スピードばかりが加速しつづける昨今に対する、彼なりのひとつの回答のようにも受けとれる。

新作のタイトル・トラックである「i/o (Dark-Side Mix)」


そもそもこの『i/o』というアルバムは、遡ること2002年には既にインタビューなどでその存在が仄めかされており、当時からファンの間では語り草になっていた。そして今年、長年待ち望んだ新作の正式発表に歓喜する一方で、ガブリエルがかつて仄めかしたそのタイトルを20年もの間守りつづけていたことに、ファンならば深い感慨を抱いたことだろう。

6月のロンドンは日没が遅く、21時を回っても外は真昼のように明るいので、夜が永遠にやってこないような不思議な錯覚に陥る。公演会場である《The O2 Arena》は、S字型に曲がりくねったテムズ川南岸に位置しており、2012年のロンドン・オリンピックをはじめ、コンサート以外にもさまざまなイベント会場として使用されてきた。

天井から突き出たマストが特徴的な《The O2 Arena》

開演を待つ間、現代アーティストのマールテン・バースによる手書きの時計の針が1分ごとに書き換えられていく映像作品が、ステージ上空に吊るされた巨大な円形のスクリーンに映し出される。そしてその針が開演時刻を指し示すと、会場が暗転し、ピーター・ガブリエルと、ベーシストのトニー・レヴィンの2人が舞台上に姿を現す。




ステージ中央に置かれた半月型の長椅子に向かいあうように小さく座りこむと、ピアノの弾き語りとベースのみで「Washing Of The Water」の演奏が始まった。ガブリエルの繊細なヴォーカルとピアノ(小型のキーボードを膝上に置いて演奏している)を、トニー・レヴィンがアップライト・ベースの優しい音色でサポートする。最小限だからこそ生まれ得るダイナミズムを観客は全身で実感する。曲の進行とともに他のメンバーたちも次々登場し、演奏に加わっていく。演奏が終わると、半月型の集合体は放射状に広がり、本来定められたそれぞれのポジションに収まっていく。この開幕における僅かな演出で、舞台と音楽それぞれのダイナミクスを彼らは見事に表現してみせる。

今回のツアー・メンバーには、ギターのデヴィッド・ローズ、ドラムスのマヌ・カチェといった馴染み深いメンバーの他、ヴァイオリンのマリーナ・ムーアやキーボードのドン・Eといった新顔も多く加入している。チェロとコーラスを担当するアヤナ・ウィッター・ジョンソンは「Don’t Give Up」におけるデュエットのパートナー(原曲ではケイト・ブッシュ)にも抜擢され、ガブリエル相手に一歩も引けをとらない素晴らしい歌声を披露し、ソロ・パートのたびに客席からは惜しみのない拍手が送られた。

優れたシンガーとは何か。音程が正確だとか、リズムが的確だとかの、カラオケの採点機能が数値化してみせるようなものでは決してない。むしろそういったデジタル的な尺度では計測しきれない豊かさを、自身の声が世界にただひとつだけの最高級の楽器であるという価値を心得たものだけが真のシンガーたり得るのだ。ピーター・ガブリエルとアヤナ・ウィッター・ジョンソンは、その絶対的な歌声によって観客をただただ魅了する。

「Sledgehammer」「Solsbury Hill」といった代表曲と、新曲(まだ未発表のものも含む)を入り交えながらコンサートは進行していく。ひとつハイライトを挙げるとするならば、終盤に披露された「Red Rain」の、演奏が進むにつれ激しさを増していくマヌ・カチェのフィル・インひとつひとつが忘れられない。思いがけないタイミングで起爆し、譜面として表記することも不可能に思える驚くべきフレーズの連続に、ただただ打ちのめされることしかできなかった。

1986年のジャイアンツ・スタジアム公演より「Red Rain」


MCでは、現在も様々な分野で物議を醸しているAIの使用をテーマにしたMVコンテストを開催したことでブーイングを受けた件を自虐的に話し、笑いを誘う一幕もあった。しかし、彼の表現は時代の流れとともに進化してきたものであり、そこには現状維持の姿勢は存在しない。AIについても、恐れたり戦おうとするのではなく、一緒に踊る方法を考えてみたいとガブリエルは語る。なにか代償を払うことになったとしても、彼は決して定位置にはとどまらず、自分の旅を続けてきたのである。

5月にスタートしたヨーロッパ・ツアーを終え、9月からはアメリカでの公演が予定されている。音楽の旅に再び還ってきたピーター・ガブリエルを、心から祝福したいと思う。(文・写真/佐藤優介)

Text By Yusuke Sato

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