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「サザン・ゴシックと三島由紀夫には共通点がある」
ナタリー・メーリング自ら語るワイズ・ブラッド文化論

28 September 2023 | By Shino Okamura

ワイズ・ブラッドことナタリー・メーリングはとてもチャーミングで、とても聡明な女性だった。今年の《フジロック・フェスティバル》出演の前々日、都内某所に現れた彼女は、チェックのミニ・スカートに大きなリボンタイのついた白いブラウス……まるで日本のスクール・ガールのようなファッション(日本の古着店で購入した洋服らしい)。大きな瞳と長いヘアスタイルもあいまって、まるでキュートなアイドルさながらだ。

だが、ひとたび口を開くと、キビキビとした話し方、鋭い切り返しで自分の意見を述べる。Weyes Bloodという名前の由来となった小説の話から、三島由紀夫、キリスト教思想、さらにはフェミニズムへと持論を展開させ、しかもそれらが全てWeyes Bloodという旗印のもとに紐づいていることを聞き手であるこちらにしっかり植え付けていった。白いドレスを身に纏い優雅にステージに立つ姿からは想像つかない、自立した一人の女性としての主義主張を明快にすることが表現者としての役割であると自負しているようだ。しかしまた一方では、ブリル・ビルディング時代のソングライターたちに倣い、60〜70年代の米西海岸の音作りを参照し、アメリカの大衆音楽〜ポップ・ミュージックの継承者として……というより、一人の熱心なリスナーとして無邪気に過去の歴史・音楽財産と戯れる。と言いつつも、彼女はあのジャッキー・オー・マザーファッカーに一時的とはいえ在籍していたこともある破天荒なミュージシャンだ。でも、アンビヴァレントなどではない、こうした多彩な横顔がすべて自分という一貫した人間であることを彼女は旺盛なる活動で伝えているのではないかと思う。

前作『Titanic Rising』(2019年)、引き続きジョナサン・ラドが中心になってプロデュースした最新作『And In The Darkness, Hearts Aglow』(2022年)、そして来たるニュー・アルバムと合わせて3部作となることを明言しているそんなナタリーとの濃密なトークをお届けする。なお、《TURN TV》の動画コンテンツ『THE QUESTIONS✌️』では以下のインタヴューとは全く異なる質問に答えてくれているので、こちらもぜひチェックしてみてください。
(インタヴュー・文/岡村詩野 通訳/竹澤彩子 撮影/菊地佑樹)




Interview with Natalie Mering(Weyes Blood)

──ステージ優雅なドレスを纏ったあなたはまるで聖母マリアのようです。今の時代、女性/男性の差を意識的になくすような行動やパフォーマンスが多くなっている中、あなたが極めて女性的なスタイルのパフォーマンスをするのはなぜなのでしょうか。何らかのアイロニー、示唆があると言えますか?

Natalie Mering(以下、N):ハハハ、そう、今どきみんなが行かないところをあえてっていう(笑)。お姫さまとか女性的なイメージとかね。自分が女性であることは紛れもない事実だし、それを隠す必要なんてないと思う。あとはディズニー的なファンタジーの世界へようこそ! っていう方向に思いっきり振り切れてみるのもアリな気がして。いいじゃない? そういう今の時代の流れとはズレまくりのベタなプレゼン方法が一つくらいあったって。

──純白のドレスというのも象徴的な気がしました。何にも汚れていない白……というのは、今の澱んだ時代を漂白させようという意図があるようにも感じました。白色というのはあなたには何を象徴するものでしょうか?

N:無垢で真っさらな感じ。何にでもなる可能性を秘めてるし何色にも染まることができる。もともと白い衣装を使おうって決めたのもステージの照明を意識してのこと、なんだよね。ライトによって、青にもピンクにも黄色にも、どんな色もそこに反射させることができる。それに今の時代にトレンドでも何でもない、むしろ保守的でオーソドックスな白を持ってくるのが逆に攻めてると思って(笑)。

──昨年、あなたにリモートで取材した際、あなたは、このように話してくれました。「音楽が社会にとってラディカルな表現であった時代はとっくの昔に終わってて、今は単にその焼き直しや過去の再現の中に生きてる感は否めない……とはいえ、今でも音楽が果たしてる役割はあるし、実際に人々に癒しや逃避を提供している。ただ、それが時代やカルチャー全体を変えていくのにどこまで実行力を持つのかは果たして疑問だし。昔みたいに音楽がラディカルな表現として大きな意味を持っていた時代に戻れたらいいなあとは思うけど、今の時代は音楽もエンターテイメントとして完全に商品化されちゃってるわけで、エンターテイメントのその先の領域に行くのがものすごく難しい。ただ、単なる逃避やエンターテイメントで終わらせないための攻略法として、リスナーを完全にこちら側に取り込んでしまうっていうのが一番有効な気がする」。あなたの優美で女性的なパフォーマンスにおけるスタイルは、まさにその表現の一つと考えていいのでしょうか?

N:だと思う。というか、覚えてる。実はあのインタヴューの後、自分でもずっと考えてたんだよね……今って音楽そのものよりも、むしろそれを発信してる個人のパーソナリティや個性のほうにメインな関心が移ってしまってるような。SNSでどれだけ発信力があるかのほうが重要で、音楽もそのためのお飾りみたいな。SNSでのブランド価値を上げるために音楽が利用されてるような構造になっていて、そのせいで音楽の価値がますます下がってるような。だから、そうやって絶対的な世界観を展開して、純粋に音楽によるカタルシスを再現することによって、もう一度音楽にスポットライトを取り戻したかったんだよね。ステージに立っている一個人の性格なりアティチュードなりがもてはやされる時代において……というか、それはそれでエンターテイメントとして面白いとは思うんだよ? セレブリティとか、常に話題に事欠かないし、そういう需要があったっていいと思う。でも、それが人々に何かしら気づきなり、良いきっかけをもたらすかっていったら、必ずしもそうじゃない気がする。それならば、きちんと正攻法で良い音楽をやって良いパフォーマンスをして地味に訴えかけていくほうがよっぽど強力なんじゃないかと思うんだよね。それにSNSの中の世界にはない、完璧じゃない自分をあえて出していくことが大事だと思って……常に完璧な商品としての自分である必要なんてないわけだから。音楽が文句なしに素晴らしいなら、本人に多少欠点があっても目を瞑りましょうよっていう。音楽がツッコミどころも満載なのに歌ってる本人は非の打ちどころがないくらい完璧っていうわけのわからない構造じゃなくて(笑)。

──ただ、とはいえ、あなたの作品はただ美しく幻想的な表現で現実を煙に巻いているわけではありません。むしろかなり厳しくグロテスクだったりもします。携帯電話が擬人化された殺人鬼と一緒にあなたが優美に踊る「It’s Not Just Me, It’s Everybody」のMVがまさに象徴的で。

N:アハハハハハハ!

──優雅な風合いとメロディ、アレンジなのに歌詞は辛辣です。あなたが、ジャッキー・オー・マザーファッカーのメンバーだった事実を思い出すほどですが、こうした表現の礎になっているのは、どういう思想と言えますか?

N:ハハハハ! そう(笑)! お里が知れてるってことね(笑)。自分が今やってる音楽からは想像もつかないだろうけど、もともとは過激で相当タチが悪かったんで(笑)。でも、その表現が今では普通になっちゃったじゃない? もはやオルタナティヴなものとして機能してない。もはや過激でクレイジーなことをやるのが重宝されるのがメインストリームの価値観になってるから。

──(笑)。

N:いや、いいんだよ、それはそれで。でも、常にそこに馴染まない分子が現れて、うまい具合にバランスが取れてるはずだから。それで言うと今のこの状況にあって、一番過激で反抗的なスタイルって、それこそまっとうにストーリーを伝えていくてことなんじゃないかと思って。それこそ、子供の頃からよく知ってるようなお話みたいな形で……とはいえ、リアルな現実との接点がないとダメなんだけど。だからこそのスマートフォンってアイテムであり、それが入ることによって全体から醸し出される不協和音的なものがジワジワとくる、普通にスルーできない感じ……なんだか知らないけど、すべてが超パーフェクトみたいな持って行き方に対するアンチテーゼとして。私からしたら「世の中パーフェクトって、何をもって?」って感覚でしかないから。だからさっきの白の話でも出たけど、白って純粋無垢なイメージだけど自己主張が激しい。それこそ炎の一番温度の高温部分は赤じゃなくて実は白だったりするように。一見静かなようで、実は要注意っていう。あるいはまったく正反対のようでも、実は表裏一体になってたり……そこを軽視してると後で痛い目に合うよってことよね。

──ちなみにジャッキー・オー・マザーファッカーで日本に来たことはあるんですか?

N:あのバンドとしての来日はあったのかもしれないけど、そのとき私はいなかった。もともと在籍期間もそんなに長くないし、私にとっては今回は初めての来日だから。

──あのバンドはポートランド拠点でしたが、当時あなたもポートランドに住んでたんですか?

N:一時期ね。

──そこからLAに移った理由は?

N:というか、そもそもあちこちを転々を渡り歩いてるような暮らしで、ニューヨークだのボルティモアに住んでたこともあったし。ここ最近はLAに定着してるけど、それまで金銭的に同じ土地に留まってる余裕がなかったから、とりあえず仕事の関係とか安アパートを求めて転々としてたんだよね。ただ、地元はLAだから、ずっと戻りたいとは思ってて、《Mexican Summer》と契約したことで、ようやく経済的にLAに住むことが可能になったんだよね。ポートランドには大学に通うために移ったんだけど、結局1年しか通わなかったんで。

──ワイズ・ブラッドの音楽性の柱には例えばバート・バカラックのようなブリル・ビルディング時代のポップスがあるわけですが、一方でジャッキー・オー・マザーファッカーのようなバンドにも関わる。そういう両極端の表現を自分の身体の中に両立させているのが興味深いです。

N:いや、それに限らず、自分はいつでも両極端のバランスを取ってると思う。こっち側だけじゃなくて向こう側の意見も一応確かめておきたい、みたいな。両方の側に手を差し伸べて一緒に手を繋ぐみたいな……ある種の他者に対する思いやりみたいなものかな? 美しさとノイズっていう一見相容れないものの中間地点を探っていこうと……というか、偉大なアーティストって多かれ少なかれそういうことに挑戦してる気がする、両極端のエネルギーをいかに上手に操っていくかってところで。

──Weyes Bloodという名前は、フラナリー・オコナーの小説『賢い血(Wise Blood)』からとられていると言われています。「キリストのいない教会」を説いてまわる主人公を描いたグロテスクで真摯な、アメリカン・ゴシックたるあの小説の世界は、あなたが前作『Titanic Rising』から最新作、そして次の作品へと繋がるような人類愛と人類批判とシンクロしているように思えます。キリスト教批判のような側面もある、あの小説のタイトルをモチーフにした覚悟のような思いを、パンデミック後の今改めて聞かせてください。

N:自分がWeyes Bloodって名前を使い出したのは15歳のときなんだよね。スペルを変えることで自分なりのものにして、そこからだいぶ時間が経って今では完全に自分のものになってるから、そこまであの小説に自分を重ね合わせてるわけではないんだけど。ただキリスト教徒の家庭に育った自分にとってあの本と出会いは打ちのめされるほどの衝撃的だった。生まれてからずっと信じてきたものを失ってしまったら、その巨大な心の穴をどう埋めて今後の人生を生きていったらいいんだろう? っていう。主人公のヘーゼルは自分の存在が根底から覆されるような精神的危機に直面して、そこからキリストのいない教会という概念に辿り着いた……そう、その気持ちは自分にも共感できる。ただ、フラナリー・オコナー自身にそこまで共感してるわけじゃないというか、1930年代の女性の価値観っていう感じよね。それと母から子に受け継がれる唯一のものとして血液があるって考え方がすごく自分の中に響いたんだよね。それだけが唯一現在も生きたまま受け継がれている、過去の先祖の血が今の自分にもずっと流れているみたいに。母と子の生物として唯一の共通点であり、あるいは母から子へ受け継がれていく叡知が「賢い血(Wise Blood)」であるという風にも解釈できる。それを想像するとすごく美しいことだなあって思っちゃうの。自分は歴史好きなんで、歴史が何度も繰り返されるっていう視点から物事を見がちなんで。 そう思うと、母から子へ受け継がれる血の繋がりっていうのが益々腑に落ちる。今なんかとくにそう、過去の悲惨な歴史が再び目の前に蘇ってくるみたいな事態が起こってる。パンデミックなんて、まさにその状況に油を注いだようなものなんじゃないかと思うから。

──まさにそうですね。

N:でしょ(笑)。だから、歴史をあなどったらいけないよってことを私は主張してるわけ。いまだに自分達の中に過去の時代から連綿と受け継がれている何かがあって、それがどれだけ今の自分達に影響を与えてるかを自覚しておく必要があるんじゃないかと思って。

──あの『賢い血(Wise Blood)』って作品自体、私はすごく好きなんですけど、アメリカの本国での認知度や評価はどのようなものなのでしょうか。世代を超えて読み継がれているものなのか、もしくは忘れ去られたものなのか。

N:いや、マイナーだよね、サザン・ゴシック好き界隈なら別だけど。原作もそうだけど、ブラッド・ドゥーリフが主演した『賢い血(Wise Blood)』の映画版のほうも大好きで。ただ、アメリカ人なら誰もが通る作品って感じではないよね。一部の人達の間でカルト的に信奉されてる作品みたいな感じかな(笑)。

──サザン・ゴシックの他の文学、小説、映画とかで好んできた作品を挙げるなら?

N:そうだなあ、コーマック・マッカーシーの作品が好き。それと少し違うかもしれないけどポール・トーマス・アンダーソン監督の作品とか……『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』なんかとくに、ポール・ダノが演じた宣教師の狂いっぷりなんて最高だったと思う。でもたしかにアメリカの南部って、アメリカっていう国の元なる土台になる闇を感じさせるよね。そうした価値観が今でもアメリカのカルチャーの根底に流れてて、その大元っていうのは決して簡単に受け入れられるものじゃない……というか、その事実に向き合うほどにアメリカ人である自分を恥じる気持ちにしかならないから。今アメリカで起きている状況なんてまさにそう。

──そういった感覚があなた自身の作品のインスピレーションになったりヒントになったりすると。

N:そうね、今言った作品なんかもそうだし、それが自分の作品の根底にずっと流れてる。何かしらの理想だったり美しさを追い求める姿勢だったり……私自身アメリカ人として、どうしたら自分がアメリカ人であることに後ろめたさを感じなくて済むだろう、アメリカの血塗られた歴史に決して目を背けることなく、自分がアメリカ人であることを誇りに思えるための方法を常に模索している。それに、理解したいという気持ちもある……このアメリカという帝国が崩壊していくさまを自分なりに見届けていきたい。それは自分の中での大きな命題の一つで、サザン・ゴシックのテーマにも通じるよね。自分が信じていたはずの世界の崩壊という。しかも、自分は伝統的なアメリカ的価値観や世界観の中で育ってきたから。その自分のアイデンティティの喪失と崩壊であり、漠然とした羞恥心みたいなものが、やがて孤独へと繋がっていく……それは自分の最新作の中の重要なテーマの一つでもある。

──あのサザン・ゴシックだったりフラナリー・オコナーの『賢い血』に近い感覚として、三島由紀夫の作品が挙げられると思うのですが……。

N:ああ! 私は、熱狂的な三島由紀夫ファンなんで!

──ええ、『金閣寺』など、おそらく読んだことあると思いますが……。

N:もちろん! 『金閣寺』も読んだし、『豊饒の海』の全4巻にしても高校生の頃に読んだよ。サザン・ゴシックに近い感覚……わかる、純粋さを希求する感覚よね……それがとっくの昔に失われて、望んでも手に入らない時代において。ある意味、三島由紀夫が現代の日本社会において自決という手段に走ったのもすごく象徴的な出来事のように思えて……あの三島によるたった一つの行動が、かつて祖先が持っていたはずの純潔さと完全に西洋的な価値観に染まりきってしまった後の現代日本との対立構造を如実に現わしているような。それはサザン・ゴシックがずっと追求しているテーマでもある。その2つに共通点があるっていうのはすごくよくわかる。

──そもそもそういう日本文学を読むようになったきっかけというのは?

N:最初は友達から『春の雪』をお勧めされたんだよね。その後『仮面の告白』を読んで、すごく詩的で美しいなあって。あるいは、文学というよりも武術書になるけどオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』とか、武道好きな友達に勧められて読んだりして。自分もキリスト教徒の家庭に育ってるから、絶対に揺るがない信念とか献身とか、感覚的にすごくよくわかる。三島由紀夫作品の根底にもサムライの時代からの武士道の精神が流れているような気がして、その精神性にすごく共鳴したんだよね。アメリカ人だからってみんながみんなキリスト教徒的な価値観の元に育てられてるわけじゃないけど、少なくとも自分が生まれ育った環境はそうだった。そうしたものに対する違和感をずっと抱えてたんだけど、10代の頃今言ったような書物に出会って、ようやく自分の中で何かしら腑に落ちた感覚があったんだよね。押しては引いての、その力関係のバランスなんかにしても……まあでも、そういう友達がまわりにいたってことも含めて、たまたまラッキーな環境にいたから、そうした文学に巡り会えたんだろうね。地元にすごく良い古本屋があったのもあるし。あとポール・シュレイダーの手掛けた映画『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』もすごく好きだった。

──あなた自身、現在はキリスト教思想が育んだ文化と負の部分のどちらに対してより興味を持っていますか?

N:たしかに、教会の腐敗や幼児に対する性的虐待問題なんて絶対に許されるべきことなんかじゃない……ただ、その一部分だけを切り取って鬼の首を取ったようにすべてのキリスト教徒を批判するのも違う気がして……だから、私も両親とはそういう議論は一切しない。それで相手を追いつめて絶望に突き落とすようなことはしたくないから。だって彼らにとっては、教会こそが唯一のコミュニティであり他者との繋がりを感じられる場所だから。たぶん教会に通っている多くの人達がそうしたコミュニティの感覚であり絆を求めてるんだと思う、それがないと孤独で耐えられないから。教会に通うのも現在の資本主義では埋められない心の隙間を埋めるための一つの手段なんだと思ってる。今の消費社会じゃ埋められない何かが……私達が自覚があるかどうかが別にして、資本主義が現代の宗教に取って代っている側面があることは否めない。現に経済的な豊かさが現代人の一つの行動指針になってしまってるわけだから。

ただし、宗教ほど慰めや信じられる何かの域には達していない。そう考えるとキリスト教の役割っていうのもあって、とくに南部のバプティスト界隈では、コミュニティの機能を果たしていると思う。実際、アメリカという土地で虐げられてきた多くのアフリカン・アメリカンの人達にとって教会に通うことが救済であり、その精神的な支えがあったからこそ数々の苦痛やトラウマを乗り越えていくことができたっていう事実もあるわけで。だから、自分のまわりのアフリカン・アメリカンの友達なんかを見てると、教会に対してそこまで批判的な態度っていうのはそんなに感じなくて、自分の家族が教会に通ってたとしてもそれに関してもとやかく言ったりしない。教会っていうコミュニティを奪われてしまったら、自分の家族が精神的に路頭に迷うだろうことを知ってるから。私が自分の両親に抱いているのもまさにそういう感情で。私自身の価値観とは決して相容れないものかもしれないけど、それを精神的な支えにしている人達もいるわけだから。それは昨今の教会に対する批判の中で見過ごされてる面なんじゃないかと。一部の教会の行ってきた行為については絶対に許されることではないし、たくさんの人達を精神的に支配して、その人達の人生を狂わせてきたという事実は確実にある。

ただ、それって資本主義にも同じようにあてはまることであって。何事にも良い面と悪い面があるってことよね。だから今では自分の両親に対しても同情心で見てるかな……これが10代の頃だったら「なんで教会の言うことなんて信じるのよ! 私は絶対にあいつらの一員にはならない、恥を知れ!」みたいな態度で反抗しまくってただろうけど(笑)。ただ、自分が大人になった今では、うちの両親も普通に生きづらさを抱えながら、それでも何とか必死に生きたんだよなっていうのが痛いほどよくわかるから。その人達が毎朝起きて今日一日を乗り越えるためにやっていることを、自分が無理やり奪うようなことはしたくないから。だから私が今キリスト教的なものに対して抱いている感情は、むしろ同情に近いものかな……人にはあんまり共感されない意見かもしれないけど(笑)。


──一方で、三島由紀夫の作品は日本人の感覚からするとすごく文体が綺麗です。それと同じような評価があなたのリリックにもあてはまると私は感じています。内容のみならず、リリックの言葉がすごく美しいと思うんですね。その文体の美しさっていうのはどの程度自覚してますか?

N:それはもう……「装飾的」って言い方をするのはちょっとイヤなんだけど、実質的にやってるのはそういうことよね。どの言葉をどの音に配置するかを意識しつつ、そこから対話なり相手に伝わるような話を展開していくわけだから。ルービック・キューブみたいなものよね、その言葉の持ってる意味と響きとメロディが全部ガチっとハマったときなんて、3次元を通り越して別の次元に到達したような超感覚が訪れるし……だから、三島由紀夫の原文を日本語のまま読めることができたらどんなに素敵だろう! ってほんっとにそう思う。私は三島作品に翻訳の形でしか触れることができないけど翻訳でも相当に美しいもの。だからそれを日本語で読んだらどんなに美しいんだろうって思って。だから美しい文体で伝えるってことは自分でも心がけてる。ただ普通に自分の目に映る世界がパッとしないからって、アートまでそれに準じる必要はないと思うから。

──あなた自身は言葉のチョイスにはすごく時間をかけますか? それとも内容から自然に生まれてくる感じですか?

N:両方よね。あんまりこねくりまわすと本来の輝きが失われてしまうことがあるから。最初のインスピレーションって、それこそ雷に打たれたように、ただ直感であり感情だけがあって、これだけはどうしても伝えなくちゃって感じになるから。自分でも何が言いたいんだかわかんないままに必死で言葉を捻り出そうとするのとは真逆のものであって。それはもう自分の中でその流れを常に意識して捉えていくしかないと思うの。自分にとって何かしら意味のあるアートを形にしようと思っても、必ずしも毎回いい結果に結びつくとは限らない。突然降ってくるものだとしても、それって偶然に形になるものじゃなくて、自分でもそれを受け止められるように常にアンテナを張ってないといけない。波が訪れたときにすぐにそれに乗っていけるように。

──なるほど。しかしながら、昨年出たアルバムは新しいことを試みると同時に、ポップ・ミュージックの長き歴史を継承しようって試みも感じられる作品でもあり、実際、このアルバムを録音した場所はビーチ・ボーイズが『Pet Sounds』を録音したLAの《EastWest Studios》の《Studio Three》ですよね。エンターテイメントとして人間の強欲にまみれてしまったかのようにも見えるポップ・ミュージックを、それでも見捨てずに古き良きスタイルに今一度向き合い、それを継承していこうとする姿は、フラナリー・オコナーの小説『賢い血(Wise Blood)』の主人公のようでもありますが、あなたはポップ・ミュージックに何らかの再定義を与えたいと思っていますか?

N:あー、なるほど。今のすごくよくわかるんだけど、これってすごく厄介な問題でもあって。というのも、今世に出てる音楽の中で過去の音楽から一切影響を受けてない、本当の意味でまったく新しい音楽なんて存在してないわけで、みんな誰かしらから何かしらの影響を受けてる。そこで奇跡を起こすとしたら、過去に誰かしらがやったことに対してそれまでにない新たな何かをプラス・アルファで伝えることでシナジーを生み出すってことなんじゃないかと。ポストモダン的に一切の過去を切り捨てて、まったく独自の新しい音楽を追求するっていう方法もあるんだろうけど、果たしてそれって人々にとって共感できるものなのかな? って。そもそも人間という存在自体が先祖代々過去から繋がってるもので、生まれながらにノスタルジーを抱えてるようなもので。だからと言って、ノスタルジーにすがり続けるのがいいとも思わない。

ただ、過去の音との対比としてピュアなノイズであり実験精神であり即興こそが真に未来の音楽だっていう方向に振り切れるもの、それはそれで違うような……実際、若かった頃の自分がそうだったから。「わー、これこそが音楽の未来だ、すべてぶっ潰してやれ!」的なね(笑)。ただ抽象的にクレイジーなノイズだけを展開しても、それはやっぱり一般の人には伝わらないし、最終的には何も生み出さないような気がするんだよね……少なくとも、新たなポップ・ミュージックの波を作っていくことはできない気がする。まあ、しいて言うならハイパーポップがクレイジーだけどポップって方向で支持を集めてるのかなとは思うけど、とはいえメロディだのリズムだの基本的な構造自体は過去からずっと続いてるソングライティングのそれだし、あくまでも共感を得ることで支持されるってところなんかにしろ。自分のスタイル的には古き良き時代のコード進行だとか伝統的なソングライティングから人々に訴えかけることをしているけど、それでも今これだけの速さで変化し続ける世界を当事者として反映させていかなくちゃっていう気持ちもある。今のこれだけ目まぐるい速さで変化している時代だからこそ、逆に変化のスピードをいったん緩めてちょっと休憩したいと感じてる人達もいるんじゃないかな……新たな視点を反映させつつも、いい意味でどこか懐かしい感覚を求めている人達もいるんじゃないかって。

──ちなみに《EastWest Studios》の《Studio Three》ってどんな環境でしたか?

N:最高! ただただひたすら素晴らしかった。あそこで音を録ったらまず間違いないってくらい(笑)。あの反響ルームに足を踏み入れて、マイクに向かって歌った瞬間に、あの『Pet Sounds』の音が広がるんだから感動しないわけがない(笑)。部屋自体は小さなセメントでできたクローゼットみたいな感じなんだけど、パイプから音を通して反響させてリヴァーブを生み出す構造になっていて。基本はほぼほぼヴィンテージ。ボードというか、マイクを接続するミキシング台みたいなのは新調されてたけど、マイクだの他の機材に関してはほぼすべてヴィンテージで。ただ、それをそっくりそのままパッキングするのではなく、自分なりの捻りを加えていくことが必要。自分なりの音にしていかないと……。そうでないと、どんなに素晴らしいサウンドだろうが、ただの素敵なリヴァーブでしかない。

──最後にフェミニズムについての意見を訊かせてください。現在活躍する多くのアーティスト、例えばフィービー・ブリジャーズは積極的に男女同権を主張していますが、あなた自身はどのような立場でいたいと思っていますか。

N:フィービーたちのやってることにはすごく意味があると思うし、ノンバイナリーを公言することで、今の若者達や女性達がどれだけの勇気を与えてるんだろうと思う。それはストレートである自分にはできないことであり……ただ、私がそこにしゃしゃり出て一緒に主張するのはなんかお門違いっていうか(笑)、私自身は思いっきりストレートなんで。ただ、だからといって私は自分がストレートであることをわざわざ宣伝したりはしない。LGBTQプライドがあるなら、ストレート・プライドがあったっていいじゃない? 今はストレートであるほうがむしろ肩身が狭い(笑)。ノンバイナリーの人達にとっては生きやすい時代で、今まさに色んな可能性や権利を謳歌している真っ最中なんだと思う。今って伝統的な古い価値観を大切にしようっていう考え方と、そうした保守的な価値観は敵であり、今の時代の流れに相反するから排除すべきだっていう考え方のちょうど狭間にいる状態なんじゃないかと思う。

そこでストレートな自分としては、自分がこうもストレートであることにある種の居心地の悪さを感じることもあって、例えば今はこうして音楽をやってツアーする生活だけど、いつかは普通に子供を持ちたいとか思うもの。どれだけ保守的といわれようが、それが正直な自分の気持ちで、そこを自分で否定するべきではないと思うから。女性が活躍する時代になったからって、小さな子供を抱えて今のようなペースでツアーするとか自分はしたくないし、もしも子供ができたら家で普通に子供と過ごしたい。今みたいな時代だからこそ逆にいわゆる専業主婦みたいな人達の気持ちについても自分は考えちゃうんだよね。もちろん、子供を抱えてもバリバリ仕事をして男性に頼らず独立して生きている女性達は本当に凄いと思うし尊敬してる。

ただ、まわりの友達とか、子供が生まれたことで家庭に入ることを選んだ女性達にもそれだってすごく尊いことなんだよって言いたい。だって、本当にそうだもの……えーっと、だから、要するに私はみんなを尊敬してるってことよ(笑)。ああ、うまく伝えられてるといいんだけど。伝統的な価値観に基づいた生き方を望んでるからとして、そこに後ろめたさを感じる必要なんて一切ないんだから。結局、どのセクシュアリティや性別に属していても、それぞれ違う生きづらさを抱えてるわけで差別されてしまうこともある。だから、どっちがより優れているとか主張する気もないし、それは一人一人が個人で向き合っていくべき問題でしかないと思うから。ただ仮に自分がレズビアンだったりバイセクシュアルだったりしたら、自分はそれを堂々とオープンにして語ると思う。今言った人達がまさにそれをオープンにしてくれたことで、どれだけ多くの女性達に勇気を与えていることか。ステレオタイプの価値観を押しつけられて葛藤している人達にとってのまさにヒーロー的存在だと思うし、それは見ていて本当に頼もしいなあって思う。

<了>

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Text By Shino Okamura

Photo By Yuki Kikuchi

Interpretation By Ayako Takezawa


Weyes Blood

『And in the Darkness, Hearts Aglow』

LABEL : Sub Pop / Big Nothing
RELEASE DATE : 2022.11.18
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