音楽映画の海 Vol.10
2025年 音楽映画ベスト作品を振り返る
この連載は20025年の1月から始まった。その最初の1年の終わりに音楽映画の年間ベストテンを発表するのはどうでしょう? と岡村編集長から提案されたのだが、1年間で観た音楽映画の数はそこまで多くない。アルバムの年間ベストテンなら百人百様になるだろうが、2025年に日本公開された音楽映画に限ったベストテンとなると、誰が選んでも似たようなものになりそうだ。
そこで今回はこの一年間に音楽映画を観ながら考えたことをつらつら書いていくことを主体にしたいと思う。最後にベストテンも発表しますが、機会があったら観て欲しい2025年の音楽映画10本くらいの感じで考えてください。
音楽映画について、もっと書いてみたいと考えるようになったのは、近年、音楽映画を観る機会がとみに増えたからだった。しかし、一本の音楽映画について長い原稿を書けるよう媒体はどこにもなかった。そんな折に、岡村編集長から『TURN』で連載を始めませんか?という誘いを頂いたので、音楽映画について書く連載はどうでしょう? と提案した。
どういうものが書けるかは、実はあまり考えていなかった。何十年も物書きの仕事はしてきたが、映画評を書いた経験は決して多くはない。映画評は音楽評とは勝手が違い、難しいとも思っていた。が、たまに個人のnoteに長い映画評を書いてみると、これがよく読まれる。僕のnoteのview数の上位はほとんどが音楽的な映画評なのだ。
映画評と音楽評で大きく条件が違うのは、新譜の音楽評は何度も聴き返しながら、書くことができるのに対して、新作映画評はたった一回、観ただけで書かねばならないことが多いことだ。これはとても緊張感が高い。居眠りしちゃったら終わり。スクリーンに向かう2時間程度の体験の中から、どれだけの情報を持ち帰り、どれだけの言葉を紡ぎ出せるかである。
そこには自信なかったのだが、こと音楽映画に限れば、歴史的背景などは把握していることが多いし、他の人が気づかない音楽的なエポックを拾い上げることも出来ているようだ。じゃあ、数を書いていけば、もっと良いところまで行けるかもしれない。そう考えても、手法的にもいろいろ試しながら書き始めたのが本連載だったりする。
さて、その2025年を振り返ってみると、連載で取り上げた作品の中でもとりわけ話題を巻いたのが、第2回の『名もなき者/A COMPLETE UNKNOW』と第9回の『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』だった。どちらもビッグ・アーティストのある時期だけに焦点を当てた伝記映画で、史実にかなり忠実に描きこんでいたが、一方でその描き方には対照的な側面もある二本だった。
『名もなき者/A COMPLETE UNKNOW』
というのは、『名もなき者/A COMPLETE UNKNOW』ではボブ・ディランは最初から天才的なソングライターとして登場する。どうやってそこに辿り着いたのかは、まったく分からない。ティモシー・シャラメ演ずるボブ・ディランは、最初から最後まで謎めいた存在として、スクリーンの中にいると言ってもいい。そして、彼の周囲に展開する人間模様によって、60年代前半のディランを取り巻く時代状況が描き出されていく。
対して、『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』はスプリングスティーンの孤独や内面の葛藤を細やかに描いていく。主演のジェレミー・アラン・ホワイトの演技が素晴らしく、ボスと呼ばれたスプリングスティーンも、迷いながら進む一人の男だったことが実感された。ストーリーは特定の時期にスポットを当てているが、何がスプリングスティーンの音楽を形作ってきたかが分かりやすく提示され、彼のキャリア全体を見渡す感覚も得られる映画だった。
ティモシー・シャラメもジェレミー・アラン・ホワイトも映画中での音楽パフォーマンスをすべて自身で演じていた。ヴォーカルもギターも見事にディランあるいはスプリングスティーンの特徴を捉えていて、それは見事なものだった。しかしもう、そのことに驚く時代ではなくなったのかもしれない、という思いも強くなったのが2025年だった。それはAI生成でも完璧な音楽パフォーマンス映像を作り出せるという時代が来ているからでもある。
『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』
史実に基づく伝記映画ではなく、完全なるフィクションの音楽映画では、鑑賞が公開後だったので本連載では取り上げなかったが、『罪人たち』の面白さが圧倒的だった。舞台は1932年のミシシッピ州クラークズデイル。そこで繰り広げる血みどろのヴァンパイア・ホラーが、同時にアメリカ音楽史を俯瞰するかのようなミュージカル・エンターテイメントとしても成立しているという驚き。主人公は若きブルーズマンで、当時の最新ブラック・ミュージックであったデルタ・ブルーズとヴァンパイア達が携えてくるアパラチアン・フォークの対立構図を軸となるが、登場する音楽のどれもがありきたりでない、何重もの意味をこめたデザイン性を持っている。現代のヒップホップやメタルやエレクトロの要素もぶちこみつつ、アメリカ音楽の重層的なフュージョン性を映画を通して表現していく様には舌を巻いた。その音楽面については、僕の個人のnoteに長い論考を残しているので、読んでいただければ幸いだ。
映画『罪人たち』とブルーズあるいはアメリカーナについて
https://note.com/kentarotakahash/n/n5a8cb80f388c
同じく本連載では取り上げなかったが、北アイルランド出身のラップ・グループ、ニーキャップの映画『KNEECAP/ニーキャップ』も2025年を代表する一本だったと思う。本誌にも複数の記事が載っていたから、詳しくはそちらを参照していただくのが良いと思うが、これはニーキャップ自身がニーキャップを演ずるニーキャップの半自伝(半フィクション)映画だった。実をいうと、僕はこういう構造の映画に滅法弱い。というのも、最初の衝撃的な映画体験がそれだったからである。
『KNEECAP/ニーキャップ』
1964年だから8歳の時だ。怪獣映画を見たいと親にせがんで連れて行ってもらった映画館で、同時上映だったのがザ・ピーナッツ主演の『私と私』という映画だった。ザ・ピーナッツという双子デュオを知っている読者がどれだれいるか分からないが、当時、彼女達は大人気だった。そして、この映画はザ・ピーナッツの結成秘話をザ・ピーナッツ自身が演ずるという内容だった。音楽は中村八大。主題歌は永六輔作詞。ザ・ピーナッツに加えて、クレイジーキャッツ、中尾ミエ、伊藤ゆかり、井上ひろし、スマイリー小原とスカイライナーズなどが出演するミュージカル映画で、レコーディング・スタジオやジャズ・クラブやテレビの音楽番組などのシーンもある。まさしく、僕が初めて観た音楽映画だったのだ。
しかしながら、僕は映画というもの自体が初体験に近い子供である。何がフィクションで、何がホントの話なのかも判断がつかない。生き別れになった双子が、ひょんなきっかけで再会し、ザ・ピーナッツ結成に至るという物語はもちろん100%のフィクションだったのだが、映画館では眼前にあるのはすべてホントのことだと思えていた。
この『私と私』は8歳の時に観たきりだったのだが、実は2025年に思いがけないことが起こった。海外のザ・ピーナッツ・ファンとSNS上で知りあい、彼が視聴の機会を作ってくれたのだ。60年ぶりくらいの視聴は、ずっと記憶に残っていたラスト・シーンまで、ジェットコースターに乗っているような気分だった。そして、その『私と私』との再会からほどなく、僕は映画『KNEECAP/ニーキャップ』を観て、奇しくもこれは同じ構造の結成秘話映画じゃん!と飛び上がったのだった。
もちろん、大人になった僕は、本人達が演じているとはいえ、これはフィクションだぞ、と自分に言い聞かせながら観てはいた。だが、このまま騙されて没入したいという欲求も湧いてきて、それにゾクゾクしていた。どこまでがホントかなどどうでも良い!こういう映画を作っちゃう三人のヤバさは本物だ!という感じかな。
連載の第1回で取り上げた『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』と『ラテン・ブラッド: ザ・バラッド・オブ・ネイ・マトグロッソ』も映画と実在のアーティストの関係に仕掛けがあるのが、面白かった。前者はドニー&ジョー・エマーソンという知る人ぞ知るグループの実話に基づいた映画。後者はブラジルのロック界の異才、ネイ・マトグロッソの伝記映画だが、ともに劇中の音楽は題材となったアーティストによるもので、新しい録音も含まれていた。さらに、映画のラスト近くではそのアーティストの現在の姿がスクリーンに登場する。俳優がミュージシャンを演じている映画だと思いきや、実はアーティスト自身が深く関わっていて、そのアーティストの現在の活動ともリンクする映画だったのだ。
基本はフィクションだが、ドキュメンタリーの部分もある、こういう複雑性を持った音楽映画は、これから増えていきそうにも思われる。ちなみに、『音楽映画の海』という連載のタイトルは、『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』中のライヴ・シーンで、主人公のドニーが「海を感じて」とMCするのを観て、思いついた。
『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』
第4回で取り上げた『エミリア・ペレス』はクライム・サスペンスをミュージカル形式で綴る斬新な映画だった。第6回で取り上げた『顔を捨てた男』は音楽の比重は大きくはないものの、その使い方に痺れた。こんなミュージカル・コメディが存在するということが驚きだった。『顔を捨てた男』はサブスク配信も始まったようなので、ぜひ観て欲しい。曲単位で2025年の映画中の音楽体験で最も強烈だったものを選ぶなら、ナンバーワンは『顔を捨てた男』の中でアダム・ピアソンが「I Wanna Get Next to You」を歌うシーン。その次が『エミリア・ペレス』の中のゾーイ・サルダナが「El Mal」というラップ・チューンをパフォーマンスするシーンだ。後者はアカデミー賞の歌曲賞を受賞している。
『エミリア・ペレス』
ビートルズの初期マネージャー、ブライアン・エプスタインの伝記映画『ブライアン・エプスタイン 世界最高のバンドを育てた男』、実在するフランスの双子のピアニスト、ブレネ姉妹の驚くべきストーリーを描いた『デュオ 1/2のピアニスト』など、取り上げたかった音楽映画は他にもいろいろあった。ただ、ドキュメンタリー映画については、予想を大きく下回り、取り上げたい作品は二本しかなった。第5回の『ボサノヴァ~撃たれたピアニスト』と第8回の『ミシェル・ルグラン 世界を変えた映画音楽家』だ。
『ミシェル・ルグラン 世界を変えた映画音楽家』
前者は一人の音楽家の死の真相を追い、歴史の暗部に切り込んでいくスペイン映画、後者は著名な音楽家の晩年を追いつつ、その生涯を描き出すフランス映画だが、どちらも監督の執念のようなこだわりを感じさせる作品だった。他にもたくさんのドキュメンタリーを観たが、あとは《Peter Barakan’s Music Film Festival 2025》で観たジャニス・イアンのドキュメンタリー『ジャニス・イアン 沈黙を破る』が思わぬ拾い物だったりくらい。全体にドキュメンタリーは低調だったという感は否めない。好きなアーティスト、興味のあるアーティストのドキュメンタリーならば、どれもそこそこは楽しんで見る。だが、映画としての構成が凡庸だったり、掘り下げて欲しいところの掘り下げが足りなかったりで、モヤモヤを抱えることも多い。
量産される音楽ドキュメンタリーは、題材となるアーティストは違っても、パターンはたいてい似通っている。記録映像と関係者証言がミルフィーユ構造になった音楽ドキュメンタリーをどのくらい観てきただろうか。記録映像は観たことがないものが多ければ、ファンはそれだけで嬉しい。しかし、よく知られた映像の再利用が多く、挟み込まれる関係者証言も紋切り型の賛辞が多かったりすると、これは映画と呼ぶほどのものなのだろうか?という疑問を感じてしまう。
そんな中、年末になって映画館に足を運んだ『夢と創造の果てに ジョン・レノン最後の詩』はショッキングというか、ある意味、音楽ドキュメンタリーの極北を見るような映画だった。
監督はアラン・G・パーカー。イギリスの映画監督で、過去にセックス・ピストルズ、クラッシュ、ステイタス・クォーなどのドキュメタリーを撮っているが、観たことはなかった。映画自体にも予備知識はほぼ何も入れない状態で、僕は公開初日の金曜日の夜の回を観に行った。
客は多いとは言えず、せいぜい20人くらいだったか。ほぼ男性の一人客のみ。間違いなく、僕などよりもはるかにディープなジョン・レノンあるいはビートルズのマニアが集まった感じだろう。しかし140分もある映画の半ばに達する頃には、あちこちからイビキが聞こえていた。いや、僕も必死で眠気を抑えていた。
なにしろ怒涛の証言集なのだ。音楽はほとんど聴こえない。時折、BGMらしきものが挟み込まれるが、ジョン・レノンともビートルズとも関係ないものに思える。そして、既存のインタヴュー映像を除くと、この映画のために証言する人々のほとんどは有名人ではない。ジョン・レノンの最後の10年間に彼と何らかの関わりがあった人々、あるいはジョン・レノンの殺害事件に関して、何らかの証言ができる人々。しかし、最初に誰であるかのテロップが出るだけなので、何度も登場すると、え〜と、この人は誰だっけ? 状態になってしまう。
多くの証言は「私とジョン・レノン」あるいは「私とジョン・レノン殺害事件」の色を帯びる。最も強い印象を残したのは、ジョンが撃たれた当日、交通事故に遭い、ジョンと同じルーズベルト病院に運び込まれたジャーナリストの話だった。彼は隣室に狙撃されたジョン・レノンが運び込まれたことに気づく。そして、何とか社に連絡を取ろうとする。携帯電話などない時代だし、彼自身も怪我をして、ベッドの上にいる。映画のようなストーリーだ。
このパートの緊迫感には惹きつけられたが、しかし、それでジョン・レノンの生涯に関する何らかの新事実が明かされたり、彼の音楽に対する新しい視点が生み出されたりする訳ではない。140分の怒涛の証言集を見終わって思ったのは、「私とジョン・レノン」を語ることなら、僕にだってできるぞ、ということだった。1982年に初めてニューヨークに行った時、着いた翌日にダコタ・ハウスの前まで行った。数年後、ダコタ近くのセントラル・パークのストロベリー・ヒルズでオノヨーコさんを見かけた。さらに10年くらい経って、グリニッチ・ヴィレッジのショーン・レノンの家に遊びに行った。キッチンにあった小さなピアノを勝手に弾いていたら、ショーンが後ろから「ケンタロー、それはジョンがストロベリー・フィールズを作ったピアノだよ」と言ったので、うわっと思って、手を放した。
『夢と創造の果てに ジョン・レノン最後の詩』予告編
この映画は観客の心中にそんな無数の「私とジョン・レノン」を喚起する。アラン・G・パーカー監督はそれを目論んだのだろうか? よく分からない。これが音楽映画と言えるかというと、監督はむしろ、音楽的体験を極めて限定的にしている。なにしろ、エンドロールには3曲のクレジットしかなかった。記憶に残ったのはそのエンドロールで流れるジョジョ&ザ・ティースという今のロンドンのパンク・バンドの「No More Good News」という曲だけである。ジョン・レノンの名が歌詞に歌いこまれた曲のようだが、ビートルズ・ファンが好むような曲には思えない。たぶん、この曲を背を向けて、憮然と席を立った人々が世界中にいるのではなかろうか。
当然ながら、『夢と創造の果てに ジョン・レノン最後の詩』への一般観客の評価は恐ろしく低い。僕の年間ベストテンにも入らないし、むしろワースト、と書きそうになるが、しかし、そのくらいインパクトは強かった。それは僕が凡庸な構成の音楽ドキュメンタリーに飽きていて、違うものを求めていたからではあるだろう。
さて、それでは最後にベストテンの順位を発表しよう。
1位 『罪人たち』
2位 『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』
3位 『ミシェル・ルグラン 世界を変えた映画音楽家』
4位 『ボサノヴァ~撃たれたピアニスト』
5位 『エミリア・ペレス』
6位 『顔を捨てた男』
7位 『KNEECAP/ニーキャップ』
8位 『ラテン・ブラッド: ザ・バラッド・オブ・ネイ・マトグロッソ』
9位 『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』
10位 『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』
(文/高橋健太郎)
Text By Kentaro Takahashi

