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ケンドリック・ラマーは混迷を極めた世界を救うのか?
最新作『Mr. Morale & The Big Steppers』
クロス・レヴュー

08 June 2022 | By Akane Yoshida / abocado / Daiki Takaku

外に向かう姿勢と地域性

ケンドリック・ラマーが新たに届けてくれた今回のアルバムは、基本的にはスクールボーイ・Qなどほかの《TDE》作品と同じ空気が通った作品だ。トラップもブーンバップもバランス良く収録し、アグレッシヴな曲でも過剰に暴力的にはならない印象を受ける。これは最多13曲で関わった《TDE》の盟友、サウンウェイヴの貢献が大きいだろう。プラス、今作ならではの特徴としてまず目立つのは、ピアノやストリングスの美しい響きだ。この品格のある音を活かすように、二つのインタールードや「Crown」、「Mother I Sober」といった曲ではドラムレスないしドラムが控えめでクラシカルな音と声だけで聴かせる作りを取っている。こういった非ヒップホップ的な匂いもする方向性は、アルバムリリース前に公開された「The Heart Part 5」でのソウルにそのまま乗ったような作風とも地続きのものと言える。

しかし、今作は上品なだけの作品ではない。この品格ある音色と並んで今作の特徴として挙げられるのが、西海岸でかつて盛り上がったムーブメント「ジャーキン」や「ハイフィ」を思わせるミニマルで跳ねるようなビートだ。ベイビー・キームが昨年リリースしたアルバム「The Melodic Blue」にもそういったビートが収録されていたが、今作のベイビー・キーム参加曲「Savior」もかなりスカスカでジャーキン的なビートを採用。スヌープ・ドッグの名曲「Drop It Like It’s Hot」などでハイフィ的なビートを作っていたザ・ネプチューンズのファレルがプロデュースした「Mr. Morale」も、ミニマル&バウンシーでジャーキンっぽい響きがある。「Die Hard」での跳ねるようなドラムにもハイフィが香り、イントロでのケンドリック・ラマーのフロウはハイフィ名曲のE-40「Yay Area」で使われた声ネタのそれと酷似している。

また、昨年末に亡くなった西海岸の新進ラッパー、ドレイコ・ザ・ルーラーの影響も随所で感じられる。顕著なのが「Rich Spirit」で、ここでの押し殺すような発声は完全に同ラッパーのスタイルを踏襲したものだ。フックで聴かせる「ウー」という印象的なフレーズも同ラッパーが好んで使っていたもので、ビートも同ラッパーが名フリースタイルを残したジェレマイの「Impatient」を《TDE》流に作ったような趣がある。また、ドレイコ・ザ・ルーラーは「Mud Walkin」と題した楽曲も残していたが、このタイトルも「Purple Hearts」のフックで登場する。ドレイコ・ザ・ルーラーの弟でラッパーのラルフィー・ザ・プラグは今作をあまり気に入っていない様子だったが、先日「Rich Spirit」でのフリースタイルを発表していた。これはラルフィー・ザ・プラグが同曲からドレイコ・ザ・ルーラーを感じ取ったからではないだろうか。

ケンドリック・ラマーはこれまでの作品で、様々なアプローチで西海岸ヒップホップ愛を打ち出してきた。そもそも複数の声色を使い分け、早口で詰め込んだと思ったら緩く流したりするスタイルからしてシュガ・フリーのフォロワーと言えるだろう。ジャーキン/ハイフィの要素やドレイコ・ザ・ルーラー的なスタイルに見られる地域性(=内)と、UKのデュバル・ティモシーやサンファなどアメリカに留まらない才能も巻き込んで生み出したスケールの大きさ(=外)が同居した今作。長く所属したレーベルの《TDE》から離れて外に出る節目であるこのタイミングに相応しい、緻密に作り込まれたサウンドとラップが光る強力な作品だ。(アボかど)


王から父へ

ケンドリックが降りた。端的に言えば、王の座から降りたのだろう。2012年『good kid m.A.A.d city』で一躍世界のトップアーティストに仲間入りを果たし、2015年『To Pimp A Butterfly』、2017年『DAMN.』とコンスタントにアルバムを発表。2016年にはオバマ元大統領によってホワイトハウスへ招待され、2018年のピューリッツァー賞受賞時には、「(前略)現代におけるアフリカン・アメリカンの日常生活の複雑さを捉えている」と評された。自ら “king” を標榜し、黒人コミュニティ、あるいはすべてのアンダードッグの代弁者として分断が深まる社会の様子をさまざまな視点から描写し続けてきた。個人的な経験を語りながら、目に見えない大きなシステムに挑んでいくスタイルが、彼を彼たらしめていた。

しかし、諸行無常、すべての物事は変化する。特にフィアンセのホイットニーとの間に子どもが誕生したこと、コロナ禍により外界から遮断されたことは、彼に大きな葛藤と変化、決断をもたらしたようだった。

Disc 2の冒頭では “I love when you count me out”〈仲間はずれにしてくれてうれしい〉(「Count Me Out」)と、ファンや世間を待たせていること、王冠を被り続けることの負担を吐露(「Crown」)。 “I can’t even please myself”〈自分のことすら自分で喜ばせてあげられない(んだから)〉、 “I can’t please everybody”〈全員を喜ばせるなんて無理〉と、大きくなりすぎた自身の影響力と付き合うこと、他者に与える存在であり続けることへの疲れを見せる。BLM時の表面的な団結にうんざりしつつ、世間から “savior”(救済者、ヒーロー)と呼ばれるような黒人たちの名前を挙げて、“He is not your savior”〈彼はあなたの救済者じゃないよ〉と否定してみせる「Savior」。どうやら前世療法をしているらしいケンドリックが、トラウマや虐待など、過去の経験が現在の思考や行動にもたらす影響について語る「Mr. Morale」。黒人家族に代々巣食うトラウマや依存(レイプ、性的虐待、ミソジニー)への罪悪感や恥、痛み、憎しみに満ちた心( =“generational curse” )を解放するための、“transformation” (=変換、変化、変身)の必要性を説く「Mother I Sober」。

そしてついに、最後の曲「Mirror」で王座を降りる宣言をする。昔から彼の作品には「鏡」の描写が多い。『To Pimp A Butterfly』収録「U」のMVでは、酩酊しながら鏡に向かってスピットするケンドリックが描かれている。この場合の “you” は鏡に映った自分なので、ケンドリックは自分で自分に向かって言葉を吐き出していることになる。このように、今までも度々鏡の中の自分と向かい合ってきたはずだったが、本楽曲ではこんな決断をくだす。 “Disregardin’ the way that I cope with my own vices / Maybe it’s time to break it off / Run away from the culture to follow my heart”〈自分の悪への対処方法を無視しながら(他の問題に向き合うことはできない)/もうやめるときが来たのかも/自分の心に従うためにカルチャーから離れるべき〉。

以前から、過度に理想化・神格化・アイドライズされることを忌み嫌っていたが、ついにその負担に耐えきれなくなったようだ。「新たな黒人のリーダー」でもないし、世界を救うつもりもない。人種や政治、社会の仕組みといった大きな問題を糾弾すること以前に、一人の人間であり、父で、彼が「悪魔」と呼ぶ自ら(ないし黒人家族)の問題と向き合うことで精一杯だと。

ただ、王でなくなったとしても、“I hope you find some paradise”〈君が(僕以外の)別の楽園を見つけられるといいな〉や “I trust you’ll find independence”〈(僕がいなくても)自立できるって信じてるよ〉といった言葉の端々に見られるように、やはり彼はどこまでも優しく愛のある人で、私たちを突き放したりはしない。一人のリーダーを崇め、依存する方法で幸せを求めるのではなくて、各々が “transformation”することで自由になれるよう、王座の上からでなく私たちの後ろから、そっと背中を押してくれているのだ。(ヨシダアカネ)


街の声として、あるいはひとりの人間の声として

ヒップホップとは街の声である。街とはその人が背負わんとするコミュニティの比喩である。異論は認めよう。ただ少なくともケンドリック・ラマーのライムは、コンプトンで育ち、現在の(例えばヒップホップは露悪的で拝金主義的で聴くに耐えないと断定する連中の耳にも届くような)位置に辿り着くまで、紛れもなく街の声だった。あくまで大まかな見取り図にはなるが、オフィシャル・アルバムを振り返ってみれば、『Section.80』(2011年)はロナルド・レーガン政権下においてクラックが蔓延する中で生まれた同世代の声であり、『good kid, m.A.A.d city』(2012年)では貧困と犯罪に塗れたヒップホップの聖地で生きるグッドキッドたちの声であり、『To Pimp A Butterfly』(2015年)では虐げられてきた黒人の歴史と現在を繋ぐ声であり、『DAMN.』(2017年)ではトランプ政権の誕生に引き裂かれたアメリカの声であったといえよう。

無論、ケンドリック・ラマーの音楽が街の声であった理由はそれだけではない。彼には、別の街で起きていることが、自分の街で起きた、あるいはこれから起こることだとリスナーに認めさせるに十分な表現力、つまり並外れた感受性と鋭い観察眼、優れた想像力があり、様々な角度からそれを言葉にして音に乗せる類まれな技術があり、その上で一貫して自らも間違いだらけの人間だと示し人々に寄り添うことができた。だからこそ複雑な世界を複雑なままに伝えるその音楽は多くの人々によって支持されたといっていいだろう。改めて彼のディスコグラフィーを辿ると、その作品群がウェスト・コースト・ヒップホップの常識を破っていたにせよ、例えばカニエ・ウエストやドレイク、フランク・オーシャンのように音楽の世界に画期的なゲーム・チェンジを巻き起こした人ではないことがわかるはずだ。ケンドリック・ラマーというラッパーは、街を漂う声にならない声を掬い上げることに、何より長けていた。

街の声であるということは、当然、街に許されなければならないということだ。言い換えれば、ヒップホップとは責任である。背負うものが大きくなれば、その責任も大きくなる。ケンドリック自身も自らの背負うものが大きくなることを望み、そのための努力を惜しまず、そして実際にそうなった。グラミー賞、ピューリッツァー賞のトロフィーを掲げる、今世紀、最も偉大なラッパー。それはヒップホップ最大の責任を背負う場所であり、同時にその立場を想像できる者が存在しない場所を指す。2パックもビギーももういない、ドレーもジェイ・Zも真正面からは引き受けなかった、その場所に、ケンドリック・ラマーだけがいた。

“I’m sensitive, I feel everything, I feel everybody”
〈俺は繊細なんだ、全てを感じて、皆を感じる〉

2枚組(現在はアルバムの直前にリリースされた「The Heart Part 5」が3枚目の扱いで追加されている)の本作『Mr. Morale & The Big Steppers』の2枚目の8曲目、ポーティスヘッドのベス・ギボンズが参加した「Mama I Sober」でケンドリックは自らの才能を裏側から見つめてこう始める。人と関わるたびに、その感情が自分に流れ込み、自己と他者の境界線がぼやける感覚を思い出して欲しい。もしも世界を一身に引き受けたなら、きっと誰もまともではいられないだろう。徐々に語気を強めるラップは、決壊したダムのようだ。次曲「Mirror」でケンドリックは繰り返す。“I choose me, I’m sorry”〈俺は自分を選んだんだ、ごめんよ〉。

『Mr. Morale & The Big Steppers』は彼が背負ったヒップホップの責任を果たしたアルバムだろうか? もはや、誰もそれを判断できる場所にいない。いや、そこは彼に寄り添われても彼に寄り添うことはなかったわたしたちリスナーの愚かな空想が産んだ存在し得ない場所だったのだ。ケンドリック・ラマーは頭を垂れて、わたしたちはやっと過ちに気がつく。ヒップホップとは街の声である。間違いだらけの人間の声である。

(追記)
ケンドリック・ラマーの歩みを詳細に辿る評伝『バタフライ・エフェクト ケンドリック・ラマー伝』(マーカス・J・ムーア著、塚田桂子訳、河出書房新社、2021年)には、そのラッパーがどのように素晴らしいかとほとんど同等の熱量で、ケンドリック・ラマー・ダックワーズがいかにわたしたちと同じ人間であるかが記してある。それは「HUMBLE.」(『DAMN.』収録)で“Nobody pray for me”と漏らしたケンドリックに向けた、祈りのようなものだったのかもしれない。(高久大輝)


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Kendrick Lamar

Mr. Morale & The Big Steppers

LABEL : pgLang / Top Dawg Entertainment / Aftermath / Interscope / Universal
RELEASE DATE : 2022.05.13(Digital) / 2022.07.20(国内盤)


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Text By Akane YoshidaabocadoDaiki Takaku

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