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「ポーリーは最初からどのようなことをしたくて、それをどうやってやりたいのかが明確に分かっていた」
PJハーヴェイを初期から支えるプロデューサー
HEAD インタビュー

30 April 2021 | By Shino Okamura

彼女は“真ん中”しか歌わない。“真ん中”しか表現しない。PJハーヴェイというアーティストは一貫してそこに全神経を集中させてきた。そして、そのためには“裸”になる必要があることを知っていた。近年積極的に進められているオリジナル・アルバムのリイシューとデモ音源の公開が、何よりその真理を物語っている。

PJハーヴェイのファースト・アルバム『Dry』がリリースされたのは1992年3月30日。もう30年近く前のことになる。だが、その表現力が色あせるどころか、今でも赤裸々にその生々しい言葉と叫びが荒削りな演奏の中から立ち上り、聴き手に大きな引っかき傷を残す。50代に入った彼女はベテランの領域に入ったが、だが彼女が後続のお手本になることはない。洗練されていけばいくほど、そして徐々にブルーズやフォーク、ジャズなどの要素を強めていけばいくほどに、不思議なことに彼女はどんどん誰もが追いつくことなどできない存在になっている。これは彼女の作品があくまでサウンド面で時代とともに草臥れないタフネスを持っているというだけでなく、表現者として最初からもうまったく“真ん中”を抉り出すことにだけ向かっていたからではないだろうか。オリジナル・アルバムは『The Hope Six Demolition Project』(2016年)以降届けられていないが(舞台版『イヴの総て(All About Eve)』のサントラは2019年に発表されている)、一連のリイシュー企画でリリースされているそれぞれのアルバムのデモ音源を聴けばなおさら、彼女の表現が、今年に入ってから日本で紙ジャケット仕様で再発されたファースト『Dry』以降一貫していることに改めて気づかされるだろう。

そんなPJハーヴェイの作品に初期から関わっていたプロデューサーのHEADに貴重な話を聞くことができたのでお届けする。当時、ポーリーの最も近くにいた仲間である彼は、今もポーリーのツアーに同行するなど信頼を得ているキーマンだ。音作りへのさりげない頑固さが、ポーリーの過去作品を、そして現在をも静かに支えている。

(取材・文/岡村詩野)

Interview with HEAD

──PJハーヴェイの作品のリイシューが進んでいます。中でもあなたが手がけた作品の1枚であり、ポーリー・ジーン・ハーヴェイにとっても処女作である『Dry』は世代を超えて多くのリスナーに今も聴かれています。今なお大きな影響力を持ち得ているのはなぜだと考えますか?

HEAD(以下、H):当初、彼女があのアルバムを作った時、彼女の音楽はロック音楽を新鮮なアプローチで捉えていたからだと思う。80年代のロック音楽は快楽主義的な世界へと消えていき、リアルさが感じられないものとなっていた。ポーリーはグランジ・アーティストというわけではなかったが、そのスタイルのミュージシャンと一括りにされていたよね。私は彼女をグランジ・アーティストだと思っていなかったが、彼女はただ自分の音楽をありのままに録音したかったのだと思う。彼女の曲自体も素晴らしいけれど、私たちは(レコーディングをする際)その音楽をなるべくそのままの感じで捉えるようにしたんだ。

──そもそもあなた自身は、どういう経緯で音作りの現場に飛び込んだのでしょうか? 『Dry』制作までのキャリアを改めておしえてください。

H:私は1957年にイギリスの西部で生まれた。私はもともと船乗りをしていてね、その時にギターの弾き方を習得したんだ。船乗りの仕事を辞めた後は、バンドのギタリストとして働いていた。特に有名なバンドなどではなかったが、イギリスでバンド活動をしていたんだよ。私はその時、音楽が、音楽でなくテクノロジーのように聴こえていることに苛立ちを感じていた。音楽よりもテクノロジーの方が重要になってしまっていると感じたんだ。自分のバンドのレコーディングにも、自分が求めているサウンドやフィーリングと違ったことにフラストレーションを感じていた。音楽の感じられ方という言い方が正しいと思う。そこでスタジオを作ろうと思ったんだが、あまり資金がなく、ミキシング・コンソールとマイクしか用意できなかった。けれど、最終的には自分が作りたいと思っていたスタジオができたよ。尤も、機材がそれしかなかったから、音をあまり変形させることができなかった。音楽をただ録音することしかできなかったんだ。そのままの音楽を録音することにしたってことだよ。

だから……あまり演奏が上手くないバンドだけど、見た目が素敵なバンドだったら、絶対に私のところにはやってこなかっただろうね(笑)。その一方で、演奏が上手いバンドで、良い曲を作っているバンドなら、私はそのバンドの音楽になるべく介入しないで録音しただろう。私は有名プロデューサーになりたいわけではないからね。だからインタビューもあまり受けないんだ。今回は、ポーリーのマネージメンとからリイシューについてのオファーがあったから、インタビューも受けることにしたんだけどさ。

ともあれ、私がスタジオを作ったのは、バンドがスタジオに入った時に、自分たちよりも優れた知識を持っている人たちがいるとバント・メンバーに感じさせないためだったんだ。自分たちよりも優れた人がスタジオにいると気づくと、バンドの人たちは、意識的にか無意識的にか、気後れしたり、怖気ずいてしまう。そうならないような環境を作りたかったんだ。

──ポーリーとはいつ知り合ったのですか?

H:私がスタジオを作ったのは1987年のことなんだけど、ポーリーとは1988年に出会った。ジョン・パリッシュがプロデューサーをしていたセッションにポーリーはサックスで参加していてね。私は、当時の彼女のマネージャーのマーク・ヴァーノンも含めて、彼女のバンドの人たちとみんな知り合いだった。そういう流れもあって、1990年の夏に、ポーリーは『Dry』のデモを、このバンドと一緒に作ったんだ。そこから制作のプロセスが始まったよ。

──最初に彼女に会った時の印象、彼女の曲を聴いた時の印象や感想をおしえてください。そして、制作に関わるにあたり、あなたはポーリーからプロデューサーとしてどういう役割を果たしてほしいと頼まれましたか? 具体的な彼女からのオファーを聞かせてください。

H:素晴らしい才能を持つアーティストに遭遇することがたまにあるが、そういう場合、その仕事に関わるのが実際に自分でいいのか?と疑問を抱く時がある。そのアーティストのままで素晴らしいからだ。ポーリーが彼女のバンド活動を始めた時、彼女はとにかく驚くほど素晴らしかった。最初のデモを録音しに来た時だったが、その時のプロデューサーはマネージャーのマーク・ヴァーノン、そしてロブ・エリス、そして私だった。私は、オープンな姿勢で最初のセッションの仕事に臨むということが求められていた。だがそのセッションを見ているうちに分かったのは、ポーリーはどのようなことをしたくて、それをどうやってやりたいのかが明確に分かっているということだった。私の仕事のやり方は、ミュージシャンたちを信用するということなんだ。どのバンドにもヒエラルキーというものが存在するが、ポーリーのバンドは、ポーリーのものだった。だから彼女の意見を最初に聞くようにした。女性アーティストは、男性と違って、オタク気質な人が少ない。数々あるマイクの名前や機材の名前を知る必要はないと思っている。だから(エンジニアによって操作された)技術的に最高な音響を聴かせると、怖気付いてしまうことが多いんだ。レコーディングには、コンプレッションなど様々な技術があるのだが、プロデューサーが素早く作業して、素晴らしい音を作ってしまうと、スタジオにいる他の人は、何が起きているのかについていけなくて気後れしてしまい、何も意見できなくなってしまう。だから、ポーリーの時もバンドのメンバーが、いつでも安心して意見できるような雰囲気を作るように心がけていたんだ。

よく私がアーティストに伝えているのは、「もし、私がやっている作業で、良いと思わないと感じることがあったり、音に満足していないなら、いつでも言って欲しい」ということだ。私にエゴはないのだから、とにかく何かあったら教えて欲しい。私が手を加えた音楽というものにしたいとは思っていないのだからね。ポーリーの時も、レコーディングの過程が、デモからメインのレコーディングに移る頃には、ポリーがどうやって自分の音楽を具体的に表現していきたいのかというポーリーのヴィジョンがあるということは明確だった。あとはそれを具現化するだけだったんだ。

──逆にあなた自身からのアイデアはどの程度あったのでしょうか。イメージしていた感触、リファレンスにと考えていた作品や音作り、サウンド・プロダクションの方向性はどのようなものだったのですか?

H:自分がよく知らないバンドと仕事をすることになった時、私は最初にバンドの音楽を聴いて、ライヴを何回か観に行くようにしている。そうすることによって、バンドがどういうアーティストで、実際に演奏ができるのかどうなのかということが分かってくるからね。ポーリーのコンサートにも何回か行ったんだが、とにかく素晴らしかった。最初にデモをレコーディングした時は、デモの曲たちをほぼそのまま録音した。2度目のセッションでは、デモの曲たちをバンドが一緒に演奏しているものを撮った。その後に追加のヴォーカルや楽器などを加えた。そのセッションがレコーディングの核となった。そしてポーリーと話し合って同意したのは、この方法でレコーディングするのが、ポーリーの音楽にとって最適な方法だということだった。その場のエネルギーを捉えるということ。ポーリーは両親の影響で、昔の音楽をよく聴く人だったが、ロックのプロデューサーによって作られたように聴こえるアルバムは作りたくなかった。だから今回、『Dry』のリイシューを手がけるにあたり、過去の彼女の録音に触れてみたよ。当時ポーリーがやったジョン・ピールとのセッションなんかを特にね。当時のBBCのサウンド・エンジニアたちは、良い仕事をしたけれど、私個人の意見としては、高価なミキシング・コンソールを使い、彼女の音楽を、「壮大なロック」のように聴かせたと思っている。けれど、それは当時のポーリーが求めていたことではない。彼女は、ただ音楽を自然に響かせたかっただけだった。求めていたのは、彼女のバンドが演奏したら聴こえるようなサウンドであり、80年代中旬のロック・バンドみたいなサウンドではなかった。当時のサウンド・エンジニアの多くは、音楽を、高価なミキシング・コンソールを通して変形させたかったんだよ。でもポーリーの音楽に関しては、それは賢明な判断ではなかったと思う。

──逆に、そうした80年代のロック・サウンドの反動を受けたような、当時のアメリカのオルタナティヴ・ロックの音作りはどの程度参考にされたのでしょうか? その後、PJハーヴェイはスティーヴ・アルビニと組んで『Rid Of Me』を出しますが、あなた自身はそうしたスティーヴ・アルビニのような筋金入りのアメリカン・オルタナティヴ・インディー・ロックの音作りについてはどのように思っていたのでしょうか?

H:『Dry』を制作していた時、私たちはあまり何も参考にしなかったんだ。私はそもそも最新とか流行の音楽というものに疎くてね。むしろ、少し時間が経ってから、当時流行っていた音楽を聴いて、良いものか悪いものかを判断したい。そうしないと、実際の音楽がそんなに良いものでもないのに、流行というものに影響されて、良いものに感じられるリスクがある。もちろん、その逆のパターンもありうるんだがね。ポーリーとはピクシーズのライブを観に行っていたから、彼女とはよくピクシーズについて話していた。でもそれ以外には他のアーティストの話はあまりせずに、私はポーリーのアルバムを作る手助けをすることに注力していた。そして『Rid Of Me』の制作が始まり、私も『Rid Of Me』の初期のレコーディングに参加し、ストリングスが入った曲を1曲録音した。私は彼女のバンドを知っている時期が長かったから、バンドのダイナミクスからして、メインとなるプロデューサーが必要と感じていた。スティーヴ・アルビニの方針も、私の方針と似ていて、バンド自体が十分に上手いなら、プロデューサーが介入する理由はないと考えているようだった。プロデューサーの多くは、自分がギターを演奏して参加したり、ミドルのレイヤーを書き換えたり、タンバリンを加えたり、バック・ヴォーカルを加えたがったりする。だが、バンドが最初から素晴らしいなら、どうしてそんな余計なことをする必要があるだろう? その作業は必要ない。介入しないという美意識を持つのも大切だと思うんだ。

そういうわけで、1992年の10月に私はバンドのツアーに参加した。そのツアーがアメリカで終了した時、私たちはかなりのストレスを感じていた。当時、ポーリーの知名度がものすごく上がり、彼女は有名になり、バンドとは別行動で移動したりしていて、ストレスになる要因がたくさんあった。アルビニが行ったレコーディングは、当時のバンドの状況をそのまま捉えている。『Rid Of Me』は、当時のバンドにあった激しい緊張感というものをよく捉えていると思うよ。

──当時のイギリスでは、マッシヴ・アタック以降のブリストル・サウンド、マンチェスター・サウンド以降のアシッドなダンス・グルーヴ、そしてブリット・ポップなど音楽シーンにはいくつかの潮流があったと思いますが、『Dry』はそのどれにも当てはまらない、生々しくエッジーなロック・サウンドでした。こうした嗜好はポーリー自身の望みだったんでしょうか。あなたとポーリーの望むディレクションとのすり合わせで最も難しかったのはどういう点だったのでしょうか?

H:ああ、私たちが住む場所はブリストルに近くだったから、私はポーティスヘッドやマッシヴ・アタックなどのブリストルのシーンのアーティストたちとも知り合いだ。だが、色々なシーンがある中で、ギターやシンセなど、他のアーティストたちが使うと選択した楽器を真似しなくても良いという自由があることもみんな承知の上なんだ。ポーリーは当時とても若かかったが、彼女には断固とした決意があった。もちろん彼女は美しくて、素敵で、優しくて……という一般的な人間の良さも持ち合わせていたよ。けれど、彼女は、自分が進みたい道を進むという断固とした決意があったんだ。そんな彼女を見たら応援するしかないと思わないか? 彼女は同じようなアルバムを2回作りたいとは思っていなかった。だから『Dry』をまた作るとか、『Rid Of Me』をまた作るとか、『To Bring You My Love』をまた作るということはしなかった。次の作品は、彼女の前作に対するリアクションとして生まれる。私たちは、ポピュラー音楽の流行りに乗ろうとするのではなく、自分の表現したいことを表現しようとお互いを励ましていた。それが良い結果となったのだと思う。だから彼女はあんなに突出していたんだと思うね。

──『Dry』のリリース当時、様々なトラウマを抱えたポーリーの歌詞と、抑圧から解放されたかのような彼女の挑発的なヴォーカルなどの表現が大きな話題になりました。もちろん、それを見事に表出させたサウンド・プロダクションがあったからこそですが、そうした歌詞や彼女のそれまでの生き様、半生への極端な注目については、あなた自身はどのように感じていたのでしょうか?

H:うん、個人的な意見だが、私はアーティストがどんなメッセージを伝えようとしているのかをあまり深く考えないようにしている。私の解釈と、アーティストが伝えようとしていることは異なるものになるから。彼らの人生を、私の脳というフィルターを通すことは不可能だから。特にポーリーのような、私より12歳年下の人の場合だと、ポーリーは明らかに私と違った経験をしてきている。アーティストを理解しようとはするが、なるべくその表現には介入しないで、アーティストを励まし、様々な表現方法を提案していく、という絶妙なバランスを保とうとしなければならない。彼女には伝えたいことや想いがあって、それを彼女がイメージしていた通りに、スタジオでも表現できるように手助けするのが私の役割だ。つまり、彼女をスタジオでも安心させて、彼女の好きなように、表現したいことを表現させてあげるということ。なかなか簡単なものではないよ。スタジオにはアーティスト以外にも何人もの人がいて、ガラス越しにアーティストを見ていたりする。だから私はスタジオ内にいる人の人数は最小限に止めるようにしている。実際のスタジオ作業に関わる人以外は入れないようにしているんだ。

──演奏にも関わったロブ・エリス、マーク・ヴァーノンらも制作に大きく関与したスタッフとして現場にいたと思いますが、基本的に統括していたあなた自身とロブらとはどのように役割を分担していたのでしょうか?

 

H:マークはポーリーの初期のデモを聴いて、彼女のマネージャーとして関与することにした。だから彼女をどういう風にプロデュースしたいのかというマークなりのイメージがあったと思う。そして、ロブはロブで、いつも自身が関わるプロジェクトに対して非常に素晴らしい見解を持っている。そこに私がいて、私はある意味、審判のような役割だったと思う。この2人は80年代からスタジオで仕事をして、かなりの経験を積んでいたからね。その2人がいる場所に20代の若い女性が入った時、ちゃんと彼女の声も伝わっているかを確認するのが私の役割だったんだ。

──録りの段階で、ポーリーのヴォーカルで最も苦労したのはどういう部分でしたか? 彼女にとって初めての正式なアルバム録音だったと思いますが、当時はどういう様子でしたか?

H:ポーリーと仕事をするようになり、早い段階で分かったのは、ポーリーを録音するときは、彼女の頭の中には、音楽がどう響くべきかというのが既にあることから、最初のテイクをしっかり録らないといけないということだった。彼女が自宅で制作するデモを聴くと、本当に素晴らしい出来なんだ。だからスタジオでは、必要な楽器やパーツが揃った時点ですぐに録音を始めるようにしていたよ。

別のアルバムで私は彼女のヒット曲をレコーディングしたのだが、最初の録音後にテープを巻き戻しミキシング・コンソールに取り入れ、ポーリーに「ポーリー、もうワンテイクできるかな?」と聞いたら、スタッフが窓の方を見るようにと私を促した。ポーリーはもう外の庭にいて帰るところだったんだよ。最初のテイクでポーリーは自分の伝えたいことを伝えたという確信があったんだろうね。だから帰った。それができるアーティストというのは、やはりすごいとしか思えない。そんな人はあまりいないよ。

──一方、「Plants And Rags」などではポーリー自身のヴァイオリンやチェロを含めたストリングスがフィーチュアされています。粗削りなロック・サウンドの中で、こうしたストリングスを挿入するにあたり、どういうところが最も難しかったでしょうか?

H:「Dress」、「Happy and Bleeding」、「Plants and Rags」はPJハーヴェイとして最初のセッションを1990年8月にやった時からのものなんだ。ポーリーがスタジオに来て、この3曲と、「Sheela-Na-Gig」の初期のヴァージョンをレコーディングした。レコーディング・スタジオの使い方はたくさんあるから、ポーリーはその時、どういうレコーディングにしたいかを考えていた時だった。だから、これらの曲は少し実験的な部分がある。これらの曲は、後にレコーディングした曲たちよりも、少し多めにレイヤーが使われていた。後にレコーディングした曲たちの方が、あの時のバンドのサウンドのままに近いんだよ。セッションの最初は実験的なことをたくさんやって、可能性や方向性を模索していたんだ。

──今回の一連のリイシューで公開になっているデモがどれも素晴らしいですね。彼女のソングライターとしての才能、メロディに対する純潔さなどが感じられる貴重な音源として愛聴しています。これらのデモと聴き比べてみて、あなたはこの作品の層の厚みある魅力がどういうところにあると考えますか?

H:ああ、ポーリーのデモを聴くと、彼女がどういう人間かということが伝わってくるから、私は彼女のデモが大好きなんだ。そこには、テクノロジーというヴェールが音楽にかかっていないから、とてもパーソナルなサウンドで、彼女という人間だけが聴こえてくる。私は、デモのヴァージョンもアルバムのヴァージョンもどちらも好きだよ。どちらも、少しだけ違う感じがする。ただ、今回のリイシューでは私なりにかなり手を入れてみたんだ。

当時、『Dry』のミキシングが終わった時に、ポーリーのマネージャーであるマーク・ヴァーノンが、彼女の当時の所属レーベル《Too Pure》が資金切れだということを伝えてきた。制作中のどの時点で資金がないと言われたかは、はっきりと覚えていないが、素晴らしい作品ができていたから、資金がないと言われた後も、とりあえずはアルバムを仕上げようと思った。自分でスタジオを所有している利点はそこにある。マークは未完成のアルバムを、どこか別のスタジオに持って行って、マスタリングを完成させた。だからアルバムの曲の中には、私だったら絶対にやらないような形で音がミキシングされたりしているものがある。音のレベルが高すぎたり、強くすぎたりする箇所がある。だから今回リマスタリングをした時は、荒削りな、元のヴァージョンに戻そうという意識があった。自分がイメージしているようなサウンドにして、アルバム制作が中断されるまでの状態のサウンドに戻そうと思った。マークや《Too Pure》が別のスタジオに持って行ってアルバムを仕上げたのは予算的な理由だったのだと思う。私がロンドンに行って作業するという出張費さえも払えなかったのかもしれないからね。

今回、私は《Metropolis Mastering》というスタジオを所有しているトニー・カズンズというサウンド・エンジニアのもとに行き、アルバムのリマスタリングを手伝ってもらった。彼なら私がイメージしているニュアンスを理解してくれるし、トニー自身の刻印を押さずにアルバムをリマスタリングしてくれると分かっていたから。エンジニアとは、アーティストのプロジェクトに自身の刻印を残すということができるからね。私は、「ミュージシャンを信頼すればいい。そのためのエンジニアなんだから」と思っているから、そういうことはしない。最近は、ヘッドフォンとノートパソコンを持っているからと言ってプロデューサーを名乗り、アーティストの作品に関与して、音楽をいじってダメにしてしまう人が多い。なぜそんなことをするのか? エンジニアとしてのエゴがあるからか? それほどエンジニアとしての腕が良いからなのか? 腕のいいエンジニアなんてそんなに多くはいないよ。ポーリーのファースト・アルバムがなぜあんなに素晴らしかったかというと、全く違うエンジニアリングの仕方をしたからなんだ。アーティストの全体的なプロジェクトを進化させ続けていくには、第一にミュージシャンがいるということが大前提なんだ。少なくともそれが私の作品との関わり方だね。

──ポーリー自身は今回のリイシューに対し、どういうことを話していたりしますか? 今、彼女のこれまでの作品が次々とリイシューされている中で、彼女にとってこのファースト・アルバムはどういう存在なのだと想像しますか?

H:実はポーリーとは1年近く話していないんだ。普段なら、彼女の家は僕の近くだから、1ヶ月に1回は会ってランチするんだけど、このリイシューについてはあまり話していない。だが知っているのは、彼女は『Dry』を非常に誇りに思っているし、経済的な理由でリイシューを決めたわけではないということ。でも正直な話、ポーリーが今どう思っているのかは分からない。彼女と会ってランチができたら最高だけど、私は一緒に仕事をするアーティストとは、彼らの方から連絡を取ってくるまで、自分からは滅多に連絡しないんだよ。彼らには私の生活とは全く違った生活があることが多いからね。もちろん、向こうから連絡を取ってくれたら対応するけれど、あまり自分から深く関わらないようにしている。そのバランスも微妙なところなんだけどね。

──なるほどわかりました。では最後に、今年以降、あなたのエンジニアとしての予定などがあればぜひおしえてください。

H:ここ数年では、マリアンヌ・フェイスフルなどアーティストのアルバムもいくつかプロデュースしてきたけれど、アーティストのツアー活動に参加している方が多いんだ。遡ると2002年、ポーリーから自身のコンサートの音響に満足していないからという理由でツアーに同行してくれないかと彼女に頼まれた。だからそれ以来、ポーリーが行ってきたコンサートにはほぼ毎回参加しているよ。他にもジェイムス・ブレイク、ラナ・デル・レイ、アンナ・カルヴィなどのツアーに参加している。今年は、マリアンヌ・フェイスフルとウォーレン・エリスのアルバム(『She Walks In Beauty』)をプロデュースして、それが4月(30日)にリリースされる。他にも小さなプロジェクトがいくつかあるが、今年の後半にはジェイムス・ブレイクかPJハーヴェイとツアーに出ると思うよ。私はパソコンを使って音楽を作るのがあまり好きではなくてね。まあ、やってもいいんだけど、スタジオのエンジニアなら、パソコンの画面を1日12時間眺めているのは、理想的な楽しみ方とは言えないと感じる人もいると思う。だから半年間から1年間くらいジェイムス・ブレイクかPJハーヴェイとツアーに行けば、それはとても楽しい活動になると思うんだ。正式なミキシング・コンソールも使えるし、その場にいる10000人の人と一緒にコンサートを楽しむことができる。何の文句もない仕事だろう? だから私は現在でもアルバム制作をやっているが、私のような人間は、もうあまり暗い部屋で長時間いるのがキツくなってきてね。だからPJハーヴェイとツアーできることは私にとって最高なことなんだよ。マリアンヌ・フェイスフルの時のように、タイミング次第で、制作のプロジェクトを頼まれたらそれを引き受けるかもしれないけど、どういう仕事をしていくかはかなりオープンな姿勢でいるようにしているんだ。

<了>


PJ Harvey

Dry

LABEL : Too Pure / Beatink
RELEASE DATE : 2021.01.15 (Original: 1992.03.30)


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Text By Shino Okamura

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