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すべて音楽に──
ファースト・アルバムにして傑作『nayba』まで、その軌跡を辿って
COVAN ロング・インタヴュー

09 April 2024 | By Daiki Takaku

名古屋市南区出身のラッパー、COVANはクルー/レーベル《D.R.C.》に所属しながら、ソロでは2013年にEP『POP ZOMBIE PACK』やEP『SAN RAN』(2018年)などをリリースし、話題のコンピレーション・アルバムなどにも参加。さらには東京のアンダーグラウンドを代表するレーベル《WDsounds》からもシングルをリリースするなど、常にシーンからその動向を注目されてきた存在である。

そんなCOVANが今年1月、ついに待ち望まれたファースト・アルバムをリリースした。タイトルは『nayba』。「近所のヤツだったりそこら辺のヤツって意味と、一見そうゆう何者でなくとも自分に誇りを持てる生き方をしてるヤツって意味としてこのタイトルを付けました」と本人がコメントしているように、ここにはフッドで生きる生活者の視点とストリートの気配が混じり合った全12曲(CDにはボーナス・トラックが1曲追加)が収録された、はっきり傑作と呼びたい作品だ。

彼がシーンで存在感を示し始めてから流れた月日を考えれば、ここに至るまで様々な紆余曲折があったのだろう。そう思い、恵比寿《BATICA》で行われたリリース・パーティーで圧巻のライヴを終えたばかりのタイミングで取材を申し込むと、笑顔のCOVANから返ってきたのはこんな言葉だった。

「全部ラップしてるんで、もう話すことないですよ」

彼は冗談混じりにそう言ったけれど、その言葉は紛れもない真実だと思う。なぜなら、『nayba』の素晴らしさはまさにそこにあるからだ。つまり、ラップで全てをリスナーに見せる力が宿っているということ。たとえリリックを文字に起こしたとき、もしかしたらすんなりと理解できない部分があったとしても、その声が、フロウが、ビートに乗ったとき、描かれた情景が、そこにある痛みが、葛藤が、希望が、鮮明に伝わってくるということ。それができることこそ優れたラッパーの共通点と言ってもいいが、とにかく詩でも、小説でもおそらくありえない、ラップとしての、音楽としての魅力が詰まったアルバムなのだ。

今回のインタヴューではその成熟した表現力がどのように育まれたのか迫るべく、初めてステージに上がった日から話を始めてもらった。

ちなみに、近日中にCOVANと共に《D.R.C.》の中心人物として活動し、『nayba』とほぼ同時期にその対となる作品とも呼べるビート・アルバム『ing』をリリースしたRyo Kobayakawaのインタヴュー記事の公開も予定している。ぜひ合わせて楽しんでほしい。そしてできることなら、4月13日に名古屋《club JB’S》で行われる2人のリリース・パーティーで乾杯しよう。

(インタヴュー・文/高久大輝 トップ写真/Eizi Suzuki 記事内写真/Cayo Imaeda、Eizi Suzuki、Midori)

Photo by Cayo Imaeda

Interview with COVAN

──まずはラップを始めたきっかけについて教えていただけますか?

COVAN(以下、C):もともと《D.R.C.》は3人のMCとシンガー、DJ Rise(Lil Rise)とRyo Kobayakawaというメンバーが原型なんですけど、まだ《D.R.C.》になる前、中学生のときに、後に《D.R.C.》のMCの一人になる友達と俺とRyoが2MC 1DJで中学校の頃の文化祭でステージに立つ流れになって。今思うと、それがきっかけだったのかな。やったのは自分たちの曲ではないですけどね。

──文化祭が初めてのステージだったんですね。カヴァー曲を披露したんですか?

C:カヴァーと言うかカラオケみたいな?(笑)DS455(1989年横浜市にて結成されたMCのKayzabroとDJ、プロデューサーのDJ PMXによる2人組のヒップホップ・ユニット)という、当時僕らの中で流行っていたグループの曲をやりました。

──DS455ですか! 意外ですがなんとなく納得です。

C:当時俺らは日本のギャングスタ・ラップが好きで。特にRyoが当時の名古屋のヒップホップが好きで、その流れで横浜のOZROSAURUSを知って聴いていましたね。その中でDS455が当時一番歌いやすかったんです。もちろん大好きだったし、シンプルなラップだったのもあって。俺ともう一人でその曲を選びましたね。

──ちなみにそのもう一人のMCというのは?

C:Ryoと俺と同じ中学のヤツで、UNCLEDELICIOUSっていう名前で今はデザイナーをやっていて、『nayba』のジャケットとかも全部やってもらっている人です。こう考えるとずっといっしょにやってますね(笑)。

──現在にも繋がっているんですね。そこからオリジナルの曲を作るようになっていくと。

C:その文化祭の練習をしているときにRyoにM.O.S.A.D.とか、いろいろとそのときの名古屋のヒップホップを教えてもらって。あと当時はミックステープが名古屋でたくさん出回っていた時期だったんです。ウェスト・コーストのギャングスタ・ラップを集めたコンピのようなものだったり。たぶんブートというか、そういうノリの物だと思うんですけど。

──正規の流通か怪しいような。

C:そうです。街のお店に置いてあるミックステープみたいな。それにハマって、USのヒップホップをちゃんとヒップホップとして認識して聴くようになりました。そのうちラップをやりたいってヤツがもう一人増えて、俺やRyoといっしょの中学校の同級生なんですけど。最初に俺とソイツが文化祭のあとにインストを使って俺ん家で曲を書いて、ただただ2人で歌っていましたね。

──そのとき使っていたインストはどんなものだったんですか?

C:Ryoの家に12インチのレコードがたくさんあって。12インチにはインストがついているから、USのミックステープを聴いて「いいな」と思ったザ・ドッグ・パウンド(Tha Dogg Pound)のインストとかを、Ryoに頼んでテープに焼いてもらって、そのツレと家で曲を書くっていう流れでしたね。それが自分のラップの始まりだった思います。中3の終わりくらいに書き始めたのを覚えていますね。そこから今まで続いています。

──当時書いたリリックは覚えていますか?

C:覚えた単語を言いまくって、聴いていた音楽もそういうものだったから、なんていうかイキった感じですね(笑)。最初の頃は自分の言葉という感じではなかったかもしれないです。でも、そのときから南区っていうのを自分らはリリックにしていて昔から地元を意識していましたね。

──そういった点でも聴いていた音楽の影響は大きいんですね。日本のヒップホップで言えば、当時だとAnarchyはまだデビューしていない時期ですか?

C:自分はまだ知らなかったです。ちょうどTOKONA-Xが亡くなる直前くらいの時期だと思います。名古屋だと、本当に俺の歳がギリギリ最後に(TOKONA-Xを)リアルタイムで聴いていた世代なんじゃないかな。

──まだクラブなどでそういったヒップホップのコミュニティと直接繋がったりはしていないですか?

C:いや、中3くらいから俺はクラブに行っていたので。それこそRyoの兄貴がいて、その兄貴の周りの人たちも当時の自分らにすごく良くしてくれて、M.O.S.A.D.を観に連れて行ってくれたりしてましたね。

──そこからさらにラップにどっぷり浸かっていくと。

C:そうですね、中3くらいから高1くらいまで自分らの周りには「ウェスト・コーストのヒップホップ以外聴くのはダセえ」みたいな空気があって(笑)。Dickiesを履いたりしていて。でも、高2くらいでナズが好きになったんです。

──東海岸に興味が移っていくんですね。

C:そこで自分はラップに対しての向き合い方が変わったというか、純粋に「ラップがカッコいいな」と思うようになったんです。それまではフックやラップの乗り方がスムースな感じがすごく好きだったんですよね。でもナズのような、ひたすらスピットするラップを聴いて、そういうラップが好きになっていった。それは今の自分の(音楽の)中にもあると思います。

──当時の名古屋は派閥というと大げさかもしれませんがいくつかのグループに別れていたという話を聞いたことがあります。COVANさんにとってその時期に直系の先輩と呼べる存在はいらっしゃったんですか?

C:BALLERS(M.O.S.A.D.を中心としたクルー)にKEISHIさんという人がいて、TOKONA-Xといっしょに亡くなっちゃった方なんですけど。そのKEISHIさんがRyoの兄貴の友人で。だから自分らは先輩後輩ではなく、友達の弟の感覚というか。やっぱり向こうからしてもだいぶ歳も違うし、単純に可愛がってくれていた感じなんですよ。だから俺たちにはその時代の名古屋の先輩たちの中に、直系の先輩のような存在はいないんですよね。

──COVANさんも『WHO WANNA RAP』や『THE METHOD 2 / KINGDOM COLLAPSE』などで参加している《RCSLUM RECORDINGS(以下、RCSLUM)》は名古屋を代表するレーベル/クルーですよね。《RCSLUM》とはどのようにリンクしたんですか?

C:《RCSLUM》にもたくさん人がいて、それぞれ出会い方が違ったりするんですけど、もともとATOSONE(《RCSLUM》レーベル・オーナー)は僕らがミックステープを買いに行っていたレコード屋さんの後ろの服屋で働いている人で。自分らは当時はそこに行くことは行くことはなかったんですけど、ちょうど《D.R.C.》が、3人のMCとシンガーがいて、DJ RiseとRyoというメンツで一枚デモを作った時期があって。高校卒業して、ちょっと経ってから。20歳くらいですかね。

──それが《D.R.C.》としての初音源になるんですか?

C:CD-ROMなんですけどね。自分はそれで完成した音源を渡しに行ったときが初めてATOSONEを認識したタイミングなんです。

──CDを服屋さんに置いてもらおうと?

C:いや、置いてもらおうっていうよりも聴いて欲しいなと思ってみんなで持って行った感じですね。

──その初音源に対しての周囲のリアクションはいかがでしたか?

C:どうなんだろう。そのときはBALLERSの若い人たちといっしょにイベントに出ていたりしていたんですけど、自分らの知り合いとか、持って行った先の人たちだったり、名古屋の近い人たちは反応してくれたりしたけど全然巷で話題になったりはしてないんですけど(笑)。

──その初音源を作ろうと思ったきっかけはあったんですか?

C:当時CDや音源を作ることはみんなしていなかった印象で。どちらかというとライヴしまくる感じでみんな活動していたと思います。自分たちはその前に初めて先輩にレコーディングに連れて行ってもらって、それもあって自分たちだけで音源を作りたくなったんです。そのときはもうすでにRyoがビートを作っていて。もちろん今ほど頻繁に作っていたわけではないですけど、Ryoのビートを使って少し離れたスタジオに行って録りましたね。

──当時は珍しかったんですね。

C:当時は、ですね。自分の見ている範囲ではあまり音源を作っている人はいなかったです。

──基本はライヴで認知されることが先だったんですね。

C:そうです、まずはライヴがヤバい奴らとして知られなきゃいけない。

──個人的なイメージですが、名古屋のラッパーはライヴが良いですよね。いろんなパーティーで切磋琢磨しているのかなと勝手に想像していました。

C:名古屋の人はまずライヴが良くないといけないっていうのはあると思います。もちろん自分から見てですけどね。音源がカッコいいというのはそれはそれで「いいな」と思いますけど、ライヴを観てカッコいいと言われる方が自分の中ではデカいです。

──名古屋ではまずライヴありきなところがあると。

C:うーん、今はなんとも言えないというか、一概には言えないですけどね。例えばNEIにしてもそうですけど、空気を作ることができる人がカッコいいと思いますね。

──血の気が多いかと言うとそうではないと思いますが、たしかにNEIさんのライヴも空気が変わる感じがします。現場の感覚を持ち合わせているというか。それは先輩方から受け継がれてきたものかもしれないですね。

C:無意識に受け継いでるのかもしれないですね(笑)。

──では《D.R.C.》での初音源からソロでのリリースまでの経緯を教えてください。

C:《D.R.C.》のみんなで出したのは20歳そこそこだったし、勢いで作って、そのあと音源を作らずに、ライヴをちまちまとやるような状況で。それ自体飽きるヤツも出てきたり。いや、飽きるというより、当時はイベントの前にミーティングがあったりしたんです。先輩とミーティングして、そのあとイベントをやる流れだったんですけど、それを平日にやったりしていたから、みんな働いている中で両立するのはキツかったと思うし、そう思ったヤツから「辞めようかな」となって抜けていった。そうやって分解していったんです。俺は《D.R.C.》の音源を作った後くらいにC.O.S.A.と出会って。C.O.S.A.と《D.R.C.》がBALLERSの若い人たちのイベントに出てることが続いていたんですよね。C.O.S.A.と遊ぶようになって、いっしょに曲を作って。C.O.S.A.のライヴのときにフィーチャリング・ゲストとして出たりもして。で、《D.R.C.》の方もちまちまやってはいたんでそっちにC.O.S.A.が出て1ヴァース歌うようなこともあって。で、《D.R.C.》がバラバラになって一旦終わったくらいのタイミングでC.O.S.A.たちが《MdM(MADE DAY MAIDER)》(C.O.S.A.、Campanella、Ramza、Free Babyroniaらを中心に開催されたパーティー)をやり始めるんです。

──ということはそれは2011年頃ですね。それでCampanellaさんたちとも繋がるんですね。

C:もともとC.O.S.A.の先輩がTOSHI蝮で、だからTOSHI蝮とは前から知り合いで。TOSHI蝮とCampanellaとかRamzaくんとかはもともと繋がっていたんじゃないかな。で、「24 Bars To Kill」(Ski Beatの手がけたビートに様々なラッパーがラップを乗せてリミックスを発表したムーヴメント)って昔あったじゃないですか。自分は《MdM》じゃないんですけど、なぜか《MdM》でそれをやるという話で誘われて(笑)。そのとき初めて一人でやったんです。しかも「24 Bars To Kill」で16小節しかやってない(笑)。

──そのとき《D.R.C.》は依然散り散りの状態ですか?

C:そうですね、そのときはみんな音楽っていうより、各々やりたいことをやっている感じで。もちろんそれぞれの生活もあっただろうし。でも、自分は音楽以外にあんまり興味が湧かなかったんですよね。

──それもあってCOVANさんは別の仲間と繋がっていくと。

C:あ、でも俺とC.O.S.A.が遊ぶようになったとき、そこにDJ Riseを誘ったりしていて、で、あいつはあいつで別の先輩がいて、その先輩たちといっしょにDJとしてパーティーしていたから、そのパーティーに遊びにいったりもしていましたね。

──《D.R.C.》では《D.R.C.》の中ではそのときDJ RiseさんとCOVANさんがシーンにいたんですね。

C:というかクラブで遊んでただけですね(笑)。それでC.O.S.A.とも遊んでいて、《MdM》にCampanellaから「出てよ」と誘われるようになって。で、俺はそんなに曲を作っていなかったんで、「出ても曲ないし」と思いながらライヴに出たり出なかったりしていました。でもやっぱりライヴに出るとなると曲があるに越したことはないから、そこからソロの曲を作っていって。その流れでできたのが『POP ZOMBIE PACK』なんです。

──EP『POP ZOMBIE PACK』が2013年のリリースで、この音源にはRyoさんもプロデュースで参加しています。

C:Ryoはクラブにはたぶんあまり来てなかったと思うんですけど、ビートは作り続けていたみたいで。Ryoとは地元がいっしょだから、別にクラブじゃなくても遊ぶことは結構あって、《D.R.C.》の始まったときからですけど、まずRyoに「ビートない?」って聞くところから始まるんです。その感じはずっと続いていて、そのときもRyoのところに行ってビートをもらったんです。

──《D.R.C.》としてリリースすることになったわけですね。『POP ZOMBIE PACK』のCDには「DRC – 001」とあります。

C:『POP ZOMBIE PACK』もUNCLEDELICIOUSがジャケットを作ってくれていて。当時も自分が頼める人は地元にしかいなかったんで、まず思い浮かぶRyoとUNCLEDELICIOUSに頼むという感じで。C.O.S.A.は仲が良かったんでリミックスをお願いして。そのときは《D.R.C.》をレーベルにしようとまでは全然思っていなかったんですけど、自分のクルーがあることをせっかくなら示したくて。だから「DRC – 001」と番号を振ったんだと思います。

──では《D.R.C.》からリリースするというのはCOVANさんのアイディアだったんですね。

C:そうですね、関わってくれたメンツが《D.R.C.》なんで、これは《D.R.C.》でしょ!って。そのあとC.O.S.A.が『Chiryu-Yonkers』を出した。

──『Chiryu-Yonkers』のリリースが2015年でSLUM RC名義でのコンピレーション・アルバム『WHO WANNA RAP』も2015年で、COVANさんはどちらも参加しています。

C:あー、近いんですね。感覚的には若干ズレていて。C.O.S.A.の『Chiryu-Yonkers』があって、すぐに《RCSLUM》でコンピを作るっていう話があったのは覚えてるんですけど、同じ年だとは思っていなかったですね。

──YouTubeに2014年の《METHOD MOTEL》(《RCSLUM》によるパーティー)でのライヴ映像があって、ここでは「Attitude in my pocket」(『Chiryu-Yonkers』収録)も披露していますよね。

C:それはまだ『Chiryu-Yonkers』が出ていないころのライヴの映像ですね。

──少し話を戻すとすでに『POP ZOMBIE PACK』の時点でスタイルが出来上がっているように感じます。

C:そうですね、そのときはもう自分もスタイルができてますね。でもスタイルを固めようとしてできたというわけでもなく、こうなろうと思ってやっていないというか、そのときに影響されている音楽が出ているというか……。

──直感的なものなんですね。

C:そうですね、狙ってやってはないです。まあ最初に《D.R.C.》で初めての音源を作ったときからスタイルは変わっていないんですよね。もちろんラップは変わっているけど、そのEPを作る前からスタイルは変わっていないと思います。

──当時聴いていた音楽は覚えていますか?

C:そのとき俺はプロディジーやアルケミスト、フレディ・ギブスをすごい聴いていましたね。あとエイサップ・ロッキーとかがちょうど出てきて。スペースゴーストパープとかも。クラウドラップと呼ばれるものの、本当に最初の時期のものを聴いていた気がします。

──『POP ZOMBIE PACK』や『Chiryu-Yonkers』、『WHO WANNA RAP』などのリリースで状況に変化はありましたか?

C:たくさんと言えるほどいろんなところには行っていないですけど、『Chiryu-Yonkers』のときにC.O.S.A.が東京とかに連れていってくれたりして、名古屋以外の場所にラップをしに行って反応を見たりしたのは自分にとって初めてのことでしたね。その後の『WHO WANNA RAP』でも大阪に行ったり。

──着実に手応えを感じていたんですね。

C:いや手応えというものはないですね。やっぱり客演で1、2ヴァースやったり、ソロで1曲やる程度だったんで。あくまでC.O.S.A.のライヴはC.O.S.A.のライヴだし、『WHO WANNA RAP』は《RCSLUM》のライヴの中の話というか、そういう感覚が自分にはずっとあって。だから手応えと言うものはなかったです。

──そこでより「自分の作品を作らなければ」という思いが強くなったんですか?

C:自分のソロのEPを出してから、自分の作品を出したいという気持ちはずっとあって。C.O.S.A.の『Chiryu-Yonkers』が出て、『WHO WANNA RAP』が出てという時期は、すごい「作んなきゃな」とずっと思っていましたね。でも全然作れなかったっす(笑)。

──何か停滞感のようなものがあったんですか?

C:その時期はちょうど自分の娘が生まれるタイミングで。「自分が父親になるんだ」ってことをすごくプレッシャーとして感じていましたね。

──それは忙しさとも違った……。

C:心が落ち着かない状況がずっと続いていましたね。もちろんそれだけじゃなく、いろんなことがあったけど、娘が生まれるのは大きかったです。自分的にはそういうキツい感覚でいる時期が長くて。『SAN RAN』にはそういう感情が出てますね(笑)。

──2018年のEP『SAN RAN』はすごくシリアスな作品です。そして実際『SAN RAN』収録の「Rolling Up Spring」には「こうしている間にもBabyは成長中」というラインがありますよね。

C:ありますね、初めて言われた(笑)。『SAN RAN』のリリースは2018年なんですけど、その前に1回SoundCloudにUPしていたんです。それを「RETCH ON YOU」(単曲でのリリースは2018年)といっしょに正式にリリースしようとなった流れなんです。

──なるほど、『SAN RAN』を作った時期は「RETCH ON YOU」より前なんですね。

C:そうですね、全然前です。

──ちなみにこの時期の《D.R.C.》はどのような状態でしたか?

C:毎日とは言わないけど、よく会っていて。ちょうど『SAN RAN』を作る前の時期、『WHO WANNA RAP』が終わって少ししてからは毎週金曜日にRyoのスタジオに行って、ATOSONEといっしょにフリースタイルのノリでよく曲を録ったりしていましたね。

──おお!

C:その時期ヤバかったですね、そうやっている流れでできたのが『SAN RAN』で、ちょうどそれくらいでNEIとRyoが知り合っていると思います。

──NEIさんは『SAN RAN』収録の「Yo Rros.」にも参加しています。

C:『SAN RAN』を作っている時期にNEIがRyoのスタジオに来るようになったんです。年齢で言ったらNEIとは9個差くらいかな。NEIも1人じゃなくて、3人くらいでいて、その3人でいっしょにスタジオに来たりしていて。その中でもNEIは結構ラップ録ったりしていて、気がついたらRyoのビートでやってる、みたいな。

──NEIさんはすんなり溶け込んでいったんですね。

C:良いヤツだし俺らも普通に仲良くなれて。本当に気づいたらっていう感じですね。

──そこには若い世代にも繋いでいこう、という意識もあったんですか?

C:いや、そういうつもりは全然なくて。友達っていう感じです。今もそうだし。

──名古屋の上の世代は少し血の気の多いイメージもありますが、もっとラフな感覚の繋がりなんでしょうか?

C:そういう感覚を最初に作ったのがATOSONEだったんじゃないですかね。ATOSONEはいわゆる先輩後輩という感じの接し方をしないでいてくれたから、俺らもたぶん無意識にそうなっていたんだろうなって。

──《RCSLUM》には、まず音楽が基準、という印象があります。

C:あの人たちはそうやって見てくれるんです。だから自然とそういうノリで自分たちもいようとしているというか。

──NEIさんやhomarelankaさん、Andreさんなど、《D.R.C.》に所属する若い世代にとって、それはすごく有難いことなんじゃないかと思います。

C:まあ自分たちもそうやってしてもらったんで、そうするのが当たり前というか自然ですよね。

──ちなみにイベント《XROSS CULTURE》は2015年からスタートしています。

C:今はだいぶしっかりしていますけど、最初はマジでブロックパーティーというか、手作りというか。お客さんも10人くらいしかいなかったんじゃないかな(笑)。《XROSS CULTURE》はずっとRyoが頑張ってやってくれていますね。

──音源の話に戻すと、2019年には「457」と合わせてシングル『RETCH ON YOU』が《WDsounds》からリリースされます。

C:C.O.S.A.のライヴの客演で東京に行ったときにMercyくん(《WDsounds》を主宰するLil Mercy)が「《WDsounds》から出そうよ」と言ってくれたのがきっかけで。『RETCH ON YOU』くらいから「ちゃんとアルバムをリリースしよう」と思っていましたね。

──「アルバム作らないの?」という声も周囲から多くあったのでは?

C:『Chiryu-Yonkers』のときから言われてましたね。最初のころは言われる度に「うるせえな」とか「わかっとるわ」と思ってましたね(笑)。でも自分はそのときアルバムを作れる状況じゃなかったから。で、2019年に《WDsounds》から出して、「アルバムを作りたいな」と本気で思ったんです。

──アルバムを作りたいという意思が固まったのは《WDsounds》からリリースした影響が大きいんですね。

C:リリースしたときの反応を見て意思が固まったというわけではないんです。「RETCH ON YOU」は東京のビートメイカーのDOPEYくんのスタジオに行って録ったんですけど、そのときにMercyくんが交通費だったり、お金を出して東京に俺を呼んでくれて。そういう経験がそれまでの自分にはなかったから、そのときに、ノリでやっていないというか、ちゃんと責任のある状況の中で曲を作るということを経験できて。なので自分的には曲がどうとか、その曲の反応とかよりも、Mercyくんが自分にやってくれたことがかなりデカいんです。

──なるほど。そこから自分のアルバムを作ろうとしていくということですが、さらに4~5年を経てアルバム『nayba』ができると。もちろんその間もリリースはありますよね。

C:そうなんですけどリリースしたシングルは言ってもシングルなんで。

──とはいえラッパーとして完全に止まっている時期というのはなかったんじゃないですか?

C:いや、それがあるんですよね。DJ GQくんといっしょに作った『Family Tree / Strings』という作品があるんですけど。

──2020年の10月のリリースですね。

C:ちょうどそれをリリースしたところから1年くらい、自分は全く活動していないんです。

──ライヴもやっていなかったんですか?

C:ライヴもしてないですね。これは言うべきかわからないですけど、2020年の後半くらいからちょっとした皮膚の病気に罹ってしまって。病気と言ってもアレルギーみたいな感じで大したことではないんですけど、そこから1年くらい特定のツレと家族以外には会わなかったんですよね。「ひでえツラしてんな」みたいな(笑)。

──そうだったんですね。

C:その時期はなんかだいぶくらいましたね。その時期に釣りが好きなツレがいて、毎週そのツレと釣りに行っていて、外には出ていたんですけどね。あとは家族と過ごしたり。だから遊びという遊びは釣りくらいで。

──ライヴはほとんど必然的に人前に出る必要が出てきてしまう、というのも大きいかったのではないでしょうか?

C:それを考えてしまって、「これじゃ見てる方がキツいな」って。「やりたい」という気持ちはあっても、そうやって過ごしていると自然と気持ちも萎えてしまうというか、内々に向いているんで、徐々にそういう気持ちも霞んでいってしまって。

──そうして1年ほど過ごしたあと、気持ちが戻ってくるような出来事があったんですね。

C:Ryoとも会わず、それこそ家族と釣りに行くツレ以外と会わない1年が続いていたときにRyoから「《XROSS CULTURE》やるからCOVANも出てよ」って連絡が来て。迷ったんですけど、「まあいいか」と思ってOKしたんです。でも、最悪の場合「ごめん、やっぱ無理だ」ってバックれようかなとか思ってましたね。Ryoにはちょっと前にその話をしましたけど(笑)。今となっては本当にそういうのは良くないと思うんですけどね。

──「まあいいか」と思えたきっかけはあったんですか?

C:1人で釣りに行っているとき、GQくんと仲が良いというのを聞いていたのもあって、DUSTY HUSKYの曲を聴いていて。ちょうど『股旅』(2020年)というアルバムが出た時期で、そのアルバムに「MoVe」という曲があるんですけど、それを聴いてふと「やりたいな」「ラップしてえな」って思ったのと、もはや見た目とかクソどうでもいいわと思ったんですよね。で、そう思ったタイミングでRyoから誘われて。だからDUSTY HUSKYには勝手に感謝してるんです。去年の暮れくらいに福岡に会いに行きました。

──めちゃくちゃ良い話です。

C:で、ライヴをする前にRyoから「《XROSS CULTURE》の宣伝も兼ねてスタジオでライヴするのをインスタで配信するからCOVANも来てよ」と言われて、行ったらC.O.S.A.やhomarelankaがいて、そこで本当に1年振りくらいにみんなと会ったんです。配信中に曲を歌って、そのあとRyoのスタジオに行って、みんなでピザを食ったんですけど、自分はみんなでピザ食うとか、そういうことを1年振りくらいにするわけで、それに良い意味ですごくくらって。そのときのことを俺は「Vibe」で歌ってるんです。

──1年ブランクが空いても周囲のみなさんは変わらなかったんですね。

C:いつも通り接してくれました。C.O.S.A.がたしか『Cool Kids』(2022年)を出す前だったかな、そのアルバムを聴かせてもらって、すごい感動しちゃって。たしかそのときに「Vibe」のビートを聴かせてもらったんです。

──そこからアルバム制作にも火がつくわけですね。

C:まだ本域という感じではなかったけど、もう「アルバムを作ろう」と思っていましたね。皮膚のことも含め、そのとき「巡り合わせだな」と思えて。そのあと《XROSS CULTURE》があってライヴして、その日のことを「rainy day」(2021年)で歌っています。

──まさに巡り合わせですね。

C:全部繋がっていますね。そう考えると。

──『nayba』は空白の期間があったからこそできたアルバムでもあると。

C:空白と言ってもリリックは書いていたんですけどね。ただこの期間がなかったら今回のアルバムは作れなかったです。

──アルバムを作るに当たってどのようなことを考えていましたか?

C:タイトルの『nayba』は「RETCH ON YOU」と「457」を出したときにはもう決めていました。最初はちょっと綴りが違ったんですけど「何者でもないそこら辺のヤツ」というニュアンスのタイトルにしたくて。

──ちなみにRyoさんの『ing』と同時期のリリースは意識的なものですか?

C:いや、そういうつもりはなく(笑)。本当は2023年に出す予定だったんです。Ryoには「COVAN、今年アルバム出さなきゃマジでラッパーとして終わりだよ」くらい言われて。Ryoとも共通で仲の良い、絵を描いているvugってツレがいるんですけど、ソイツにもだいぶ(アルバムを出すように)強く言われてました。で、Ryoも2023年に作品を出すと言ってていたんですけど、そしたら結局どっちもズレ込んでこのタイミングになった。だから狙ってこうしたわけじゃないんです(笑)。

──今まで《D.R.C.》を引っ張ってきた2人が近いタイミングで出すとなると「待ってました!」という声は大きかったんじゃないかと思います。

C:有難いことに、たくさんそう言ってもらいましたね。

Photo by Midori

──先日、恵比寿《BATICA》で行われたリリース・パーティーでは40分ほどのライヴを披露していて、これだけ長い時間ライヴをするのは初めてとMCでおっしゃっていましたが、(取材時)直近で行われた福岡でのリリース・パーティーはいかがでしたか?

C:最高でしたね。胴上げまでしてもらっちゃって(笑)。福岡では50分くらいやりました。東京ではやらなかった曲をやったり、FREEZさんに客演で出てもらって、ソロで1曲歌ってもらいました。

──DJ GQさんとの曲「What I Do」でもCOVANさんはFREEZさんの名前を挙げていますよね。

C:ちゃんと話したのはこの前の福岡のリリパが初めてだったんです。福岡に呼んでもらったときに同じイベントにFREEZさんが出ていて、そのライヴがすごくカッコよくてそこで「NO FAMOUS」も歌っていて。その前から『i』(2017年)というアルバムの「MUSIC SAVED MY LIFE」という曲がすごく好きで。ライヴを観てさらにやられて。この前会ったのが2回目だから全然長い付き合いとかではないんですけど好きなラッパーなんですよね。

──今作『nayba』のビートはどのように選んでいったんですか?

C:直感ですね。いろんな人から送ってもらって、たくさん聴いているとは思います。

──ブーンバップからジャージー・ドリルまで多彩ですよね。制作中はどんな音楽を聴いていたんですか?

C:あ、嬉しいですね、そういう質問(笑)。ナックス(Knucks)の『ALPHA PLACE』(2022年)をめちゃくちゃ聴いていましたね。

──ナックスはUKのラッパーですね。ドラマ『トップボーイ』で曲が使用されたことでも話題になりました。『ALPHA PLACE』ではナックスの育ったキルバーンの“Alpha House”という団地について歌っています。

C:プロジェクト(団地)があって。そういうフッドの感覚があって。自分の勝手な解釈ですけど、昔のナズとかこういう感じかなと思って。

──近いと思います。

C:IDKの『F65』(2023年)も聴いていましたね。このアルバムはマジで自由だなと思って。でもやりたい放題ではないというか、ヒップホップという枠の中というより、IDKはIDKって感じで。

──個人的にIDKには“ヒップホップだけどヒップホップだけではない音楽”という感覚があり、そういった点では名古屋のシーンとも重なるかもしれません。他にはありますか?

C:日本のヒップホップではISSUGIくんとDJ SCRATCH NICEさんのアルバム『366247』(2022年)は自分をフラットな感覚というか、自分を真ん中に戻してくれる感覚があってめっちゃ聴いてました。「from Scratch」のシングルとMVが出たときすごい痺れましたね。自分から見てですけど音楽だけで表に立ってるISSUGIくんは東京で1番好きなラッパーですね。

USでいうとRome Streetzが《Griselda》から出した『KISS THE RING』(2022年)というアルバムもよく聴きましたね。ナックスやIDKとは違った、めちゃくちゃストリートのヒップホップというか。マジで聴いていましたね、ジャケもマジでひどくて、解像度も低いし、それも含めていいなって(笑)。荒々しいラップで、《Griselda》の中でもこのアルバムはだいぶ荒っぽいですよね。

──《BATICA》でのライヴのときもISSUGIさんにシャウトを送っていましたね。『KISS THE RING』にはアグレッシヴさという意味で影響を受けたんですか?

C:昔から続く、ヒップホップの強さというか、マッチョさというか、「俺は強え!」みたいな。もちろんそれだけを感じていたわけじゃないけど、それが根底にあるヒップホップが俺は好きなんですよね。良くも悪くもその曲を聴いて強くなった気になれるっていうのは、音楽でしか感じられないことだと思うんで。それを自分が一番感じるのがヒップホップなんです。それだけじゃないけど、それも感じれるのもヒップホップというか。そういうヴァイブで聴いていましたね。

──ヒップホップには「自分は強い」と自ら言い切るような、見栄を張るカッコよさもありますよね。

C:自分はタイプが違うけど、見栄を張って強さを見せるヒップホップ大好きですね。それができるのはすごくカッコいいことだと思う。

──AIWASTONE(AIWABEATZとIRONSTONEの2人組)のビートもそうですが、ドリル・トラックの上でラップしていたのも印象的でした。

C:自分の曲でわかりやすいところでいうと「da loose」とかはギリギリドリルかドリルじゃないか、という感覚で。

──たしかにドリルと呼ばれるジャンルの中ではベースの動きがそこまで派手ではない印象です。

C:そうですよね。俺はUKのドリルも大好きなんですけど、ブルックリンの音数の少ない、Great JohnというSheff GやSleepy Hallowのビートを作っているプロデューサーが好きだったりするんです。UKでもナックスのような、ドリルよりUKのヒップホップと呼んだ方がしっくりくるものが好きです。

──特にナックスの曲はオーセンティックなノリを感じますよね。UKのドリルはアフロビーツの要素も強い気がします。

C:(UKのドリルは)ダンスっぽいですよね。自分は基本は聴かせるものが好きなのかなと思います。Sheff Gだったり、ナックスだったり、もちろんその2人にも違いはあるんですけど、そういう感覚で「da loose」は作っていました。

──クレジットのRecordedのところに「by CV」「by C.O.S.A.」とありますが、これは録音場所のことですか?

C:そうです。このアルバムは1曲以外、自分の部屋で全部録りましたね、だから「CV」。「Vibe」だけC.O.S.A.の家で録ったんです。最近はほとんど自分の家で録ってます。

──なるほど。では長く待たれていたファースト・アルバム『nayba』はCOVANさんにとってどういった作品になりましたか? 特にファースト・アルバムは“名刺代わり”と言われたりするものですが。

C:ファースト・アルバムって感じです。ビートもマスタリングもジャケットも、だいたいのことを自分の届く範囲でやっているというか、そういう意味でのファースト・アルバムでもあるし、もちろん今の自分が一番出ているアルバムでもある。だからこそ、ここからまた変わるかもしれない。今次の作品を作ろうとしてるところです。どうゆうものになるかはもちろん作ってみないとかわからないですけど。この記事が公開される頃には次の作品に入る予定の曲のMVが公開されていると思います。

新曲「better days (chorus by CHIYORI)」

──それは楽しみです。4月13日には地元名古屋でのリリース・パーティーも開催されます(詳細はページ下部)。

C:全員遊びにきてください!

──では最後に、今更になってしまいますがCOVANというアーティスト名の由来を教えてください。

C:これは小学校1年生のとき女の子に付けられたあだ名なんですよ。本名が小林で、その女の子が“コバン”と呼び始めて、今もずっと地元のツレはみんなコバンって呼びますね。よく言われるんですけど、カート・コバーンとは全く関係ないです。

──愛着のあるアーティスト名なんですね。

C:そのあだ名を付けてくれた女の子に感謝してますね。

<了>

Photo by Eizi Suzuki

《D.R.C.》オフィシャル・サイト
https://deliciousrichcandyz.com/

Text By Daiki Takaku


COVAN ”nayba” Ryo Kobayakawa “ing” W RELEASE PARTY

2024.4.13
START : 22:00
DOOR : 2500YEN
出演 : COVAN, Ryo Kobayakawa, ATOSONE, AIWA STONE, DJ RISE, ayapaqa, Lisebet, marin, AUGUST, TOSHI 蝮, NEI, homarelanka, Andre
詳細は以下から
https://club-jbs.jp/schedule/4-13-sat-night/


COVAN

『nayba』

LABEL : D.R.C.
RELEASE DATE :
(STREAMING)2024.01.24
https://linkco.re/9mXd36Nv
(CD)2024.02.23
https://deliciousrichcandyz.stores.jp/items/65b096f7c774eb02659a21b3

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