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Ceebo: blair babies

2025 / Liberation
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UKラップ・シーンから響く、革命のイントロダクション

22 February 2026 | By Daiki Takaku

表面的にサッチャリズムを打倒する形でニュー・レイバーなる方針──雑に言えば、中道左派的マニフェスト──を掲げて現れたトニー・ブレアは、実質的には新自由主義を継承し、サッチャーの革命を完成させたとされている。実際のところ、少なくともブレアの推し進めた都市政策はロンドンの中心部に中間層を呼び込み、家賃や地価は上昇。結果的にジェントリフィケーションを加速させ、経済格差や人種差別は広がり、犯罪の温床を育んだ。要するに、ブレアは富める者に富を与え、弱者をより社会の隅へと追いやったのである。

このミックステープは、そんなブレアが政権を握っていた1997〜2007年の間に生まれた子どもたち──より簡単に言うならZ世代の若者たちを“ブレア・ベイビーズ”と名付けるところから始まる。

「Z世代であることは、我々の関与以前に構築され形作られた世界に対する絶望感によって定義される/植民地主義、資本主義、あらゆるクソったれな“○○主義”に反対する形で起きたであろう歴史上の無数の運動の興亡は、我々が生まれる何十年も前に実際に起こったことだ」

若者たちが絶え間なく消費を続ける理由を、それに付随する孤独を、歴史によって塗り重ねられた絶望に見出していくこのスポークン・ワードの主はCeeboと名乗るラッパーだ。本名はChristopher Manuel Chivungo。ロンドン南西部に位置するランベス区でコンゴとアンゴラにルーツを持つ移民の子として生まれ育ち、名門として知られるウォーリック大学で政治学と社会学を学んだ彼は、活動家としての顔も持ち合わせており、おそらく現在のUKラップ・シーンにおいて最も直接的な意味で政治的なアーティストの一人と呼べる存在だろう。そして、彼にとってまとまった作品としては3作めとなる本作『blair babies』には、そんな彼の明確なヴィジョンが投影されている。

Ceeboが前提を共有するためのスピーチを終えると『blair babies』はラップ・ミュージックの真価を示し始める。2曲目「captain roscoe with a crossbow」では、グライムの金字塔にしてUKの路上の一角を、その現実を世界に伝えたディジー・ラスカルの『Boy In Da Corner』(2003年)に収録された「Brand New Day」から切り取られた悲痛なサンプルが回転し、Ceeboが20数年前より酷くなった現状をスピットしていく。「10人の男、5丁のAK、1本のバット、9本のナイフ、俺は顔を刺されないことを祈る/冷たい俺の顔を見つめる母親/クソ、昔とは違うんだ」。メランコリックな響きを宿したレゲトン「buzzzball summer」でも、彼の舌は鋭さを失わない。「ブロック(ゲットー)で育ち、それと同化してきた」「一日俺と過ごしてみろ、それから俺たちを裁けるか見てみるんだな」。「More motives, more fuckeries / More fuckeries, morе motives」というフックのリフレインが悲しげに揺れる。比較的ゆるやかなタイトル・トラックでも彼は英国黒人の若者としてストリートの一角を、そこに膜を張る分厚い絶望を描き出す。「ベイビー、不公平だと泣いても意味ないって/それがブレア・ベイビーの人生なんだから」。「black on both sides (?)」でブレアの音声データを使用していたりもするが、彼自身の声は一貫してストリートの一部であり、わかりやすく古典的な左派を呼び寄せる/左派に利用されるような言葉を使っていない点も印象的だ。

また、Ceeboは自らに高学歴のエリート・ラッパーというレッテルが貼られるであろうことも、それに伴って数奇な視線が注がれることも自覚している。「学位を取ったって、結局現実は100倍厳しいんだ」(「captain roscoe with a crossbow」)、「記事を書いたからって俺が軟弱だと思ってるんだろ」(「pentecost of living」)(※彼はSubstackで様々な記事を投稿している)、「前作では俺みたいな端っこの奴でもコンシャスになれるところを見せようとした/でもすぐ気づいたぜ、奴らは俺を怪物として好むんだ、クソくらえだよ」(「always」)。作中では、彼の育った家庭環境に問題があったことも繰り返しほのめかされる。もちろん、それは絶望を上塗りする形でも機能するのだが。

もしかするとCeeboのラップする理由が、エリート=高所得者層に囲まれて過ごした経験からきているかもしれないと思わされる一幕もある。タイトル通りゴスペルのサンプルで幕を開ける「the gospel (as according to tony blair)」の中で彼はある少女のストーリーをラップする。「人生の半分を寄宿学校で過ごし、裕福な奴らと付き合う/夜に病み、押し殺し、彼女は自らにクソみたいな助言を与える/涙を拭け、大丈夫だ、金があればいつか痛みが消えるってね」。

こうしてCeeboが絶望を忍耐強く描き続けるのは、涙を誘うためでも、固定資産税を支払う算段をつけるのと週末の予定を考えるので忙しい富裕層に世界の現状をわかりやすく伝えるためでもない。「blair babies」の一つ目のヴァースのラストで、彼は同胞たち──あなたも含まれる──に向かって繰り返す。「兄弟、才能でできることには限界があるんだ」。すなわち、救世主なんてこの世にいないことも、そもそも劇的に事態が好転し始める可能性なんてないことも彼は承知した上で、ささやかで地味な、だが価値のある抵抗として、“繋がり”の必要性を彼は訴えているのだ。

ちなみにこの『blair babies』に寄せて、彼自身が素晴らしい文章をSubstackに投稿している。TikTokの画面を眺める時間が必要な方のために、その最後の一部分を引用しておこう。

映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』が「結局すべてが崩れた後、真に頼れるのは共に生きる者との絆だけだ」と語るように、『blair babies』も同様の結論に達する。その結論とは、このディストピア的なポスト・アイロニックな風景の中で笑い飛ばしている事柄について、私たちの世代が真剣で傷つきやすい対話を交わすことが不可欠だということだ。なぜなら、お互いに寄り添わなければ、私たちは先人たちの過ちを繰り返す運命にあり、私たちの世代の後に続く者たちの生活をさらに困難なものにしてしまうだけだからだ。

事実として、Ceeboの周辺では繋がりが形成されつつある。近年、英国の音楽史を捉え直し、英国黒人らしさを鮮やかに刷新する、ジム・レガシーやafrosurrealistといったUKラップ・シーンの若手注目株たちが本作にプロデューサーとして参加している(加えてafrosurrealistによる昨年のデビュー作『BUYBRITISH』と本作の風刺の効いたアートワークを手がけたアーティスト、marzも忘れてはいけない)ことがそれを裏付けているだろう。対話は、すでに始まっているのだ。(高久大輝)

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