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そして身体が残った──ユールのセクシーさをめぐる記録

27 May 2025 | By Tsuyachan

2025年の現在、「ポストヒューマン的」とは、もはやある種のテンプレートである。身体の変容、アイデンティティの可塑性、テクノロジーとの共生──言うまでもなくその先駆は故ソフィーであり、機械音と声を同化させ肉体を仮想的にデザインし直すことで、アイデンティティの枠組みを解体した。アルカはさらにその先へ進み、身体の変容可能性そのものをテーマに、多重人格的なサウンドスケープを展開してきた。先人たちが切り拓いたのは、「変わることでしか生きられない身体」の物語だ。

時は経ち2025年、Z世代のアーティストたちは、このポストヒューマン的感覚をそれぞれの方法で引き継いでいる。ジェーン・リムーヴァーは壊れた記憶や曖昧な感情の断片を、刺激的で不安定な音のなかにアーカイヴしていく。2hollisは、リズムの歪みや拍のズレ、破壊されたままのメロディのループなど、構造それ自体を「途中で壊れる」ことを前提に設計する。lilbesh ramkoは、つながりたい欲望と届かない困難の間でひたすら声を枯らす。「変われること」への欲望よりも、「変われないまま、世界の不確かさに耐えている」わたし。ポストヒューマン的身体性を受けつつも、世界のシステムの側が崩れているという感覚を表現している若手アーティストたち。音楽は今、現代の不安定なリアリティにおける存在の方法として私たちを救っている。

10年前、私たちは「身体は変えられる/性別も存在の枠組みも再設計可能である」という解放の夢に魅了されていた。それは、バイオテクノロジーや機械との共生であり、SNSやゲームを通じた自己の再構成・再編集であり、何よりクィアな存在の肯定として輝いていたはずだ。けれども2025年の今、私たちはその夢が必ずしも自由や幸福を保証してくれないことに気づいている。変われるという幻想の過剰消費によって、自由な変身は「変わらなければ居場所がない」というプレッシャーに変質してしまった。どれだけテクノロジーが進んでも、この世から差別や暴力はなくならないことが分かった。それにAIの進化は、私たちの創造性や人間らしさを写し取るようになってしまった。画像、音楽、声、言葉……それらはもう人間でなくても作れてしまうがゆえに、人間らしさへの再接続の欲望が改めて高まっている。結果的に、「変わる」ことではなく、「変われない」ことをどう生きるかという問いがリアリティを帯びてきたのだ。言い換えるなら、ポストヒューマン的な夢をくぐり抜けたあとに、それでも“この身体”で生き続けるという選択が、今もっとも切実なテーマになったのである。

そういった文脈のなかで、ユールの4作目となるアルバム『Evangelic Girl is a Gun』もまた、新たな境地へと足を踏み入れている。このアーティストも、アルカ以降の流れに接続する一方で、実際にダニー・L・ハールやムラ・マサといった現在進行形のプロデューサーたちと手を組みながら、エレクトロニック/オルタナティヴな冒険を追求してきた。「変容」や「逃避」といったテーマに対して試行錯誤を積み重ねていく中で、最新作でユールが示したのは、もはや「この身体でいかに生きのびるか」という問いだ。

一曲目「Tequila Coma」から、そのムードに驚く。トリップホップを想起するようなダビーなサウンドと妖艶な色気が鳴り響く中、2曲目「The Girl Who Sold Her Face」ではいつもよりもナチュラルなユールの地声が聴こえる。次の「Eko」では、ダンスロック的なグルーヴで流麗なメロディを歌い上げ、穏やかな余韻すらも残す。その後も、これまで以上に低音が安定して鳴っており、オートチューンを排した声の震えや息づかいそのものを楽曲の中に残してもいる。さらにMVや直近のライブ映像に映る姿も、過去の中性的で儚い姿というよりは、もっと陰影の深い、重たい“肉体”の感触が前面に出ている。ユールは今、幻想としての身体性ではなく、この身体を生きてしまうことから生まれる肉体の実感を受け止めており、それゆえにトリップホップ的な官能性=鈍重さ、湿度、不可逆性に惹かれているように見える。90年代トリップホップが持っていた、ねっとり絡みつくようなセクシーさと、生身でありながら機械的なリズムに組み込まれる声、都市の夜の湿った空気と共振するようなベース音──。それらは、ユールがポストヒューマン的な脱身体/非人間性から、むしろこの様式的“重力”に近づいている象徴的なポイントではないだろうか。

言い換えるなら、今作は、自分の身体が“ある”という事実から逃げないでいたらこういう音になってしまったというような、重い地鳴りのようなセクシーさとナチュラルな声がある。それは、過去作での仮想的なクィア性や中性的なデジタルボディといった地点を超えて、むしろ“この肉体である私”という認識が、性的魅力の様式にまで侵入してきているとも言えよう。ただこれは、ユールが「人間らしさ」に回帰するという安直な変化ではない。それよりも、ポストヒューマンを通過したあとに残った“この身体”を、どうやって異物のまま受け入れるかというプロセスそのものを作品化しているのに近い。

ゆえに、『Evangelic Girl is a Gun』とは、ユールの新しいフェーズを告げる重要な一歩として捉えられるだろう。仮想の夢から目を覚まし、それでも美を作りつづけることを選ぶということ。夢から現実へ──それは逃避の終わりではなく、幻想の向こう側に広がる新しいセクシーさ=“生きるということ”の官能を表現しているのだと思う。今作でのユールは、官能的だ。90年代のトリップホップとは異なる新しいニュアンスで、身体が迫り出している。美しさとはもはや変わることではなく、変われなさを抱えたまま響く、この身体の音なのかもしれない。(つやちゃん)

Text By Tsuyachan


yeule

『Evangelic Girl is a Gun』

LABEL : Beatink / Ninja Tune
RELEASE DATE : 2025.05.30
購入は以下から
BEATINK公式オンラインサイト


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