セイント・ヴィンセント
屈強かつしなやかな史上最強パフォーマーへの軌跡
オリジナル・アルバム・ガイド
近年、ポール・マッカートニー、ベック、ゴリラズ、果てはYOSHIKI(X JAPAN)といったビッグ・ネームとの共演、コラボレーションが続いているアニー・クラークakaセイント・ヴィンセントだが、一方で彼女はスリーター・キニーの最新作『The Center Won’t Hold』(2019年)をプロデュースするような気骨ある行動を決して捨ててはいない。とりわけグラミー賞アーティストとなって以降、ダンサブルでエレクトリック、硬質でメタリックな音作りでウェルメイドな作品を発表し続ける中、自身の原点の一つである、オルタナティヴなギター・ロックにもしっかり仁義を切っていることは興味深い事実だ。しかも、スリーター・キニーは90年代からフェミニズムを標榜してきたガールズ・バンド。ジェンダーレス〜LGBTQへの理解を積極的に発信するアニー・クラークがミュージシャンとしても思想としても先輩格にあたるスリーター・キニーをバックアップすることで、彼女はインディー・フィールドへのレペゼンを改めて明示すると共に、マイノリティとしての使命にも応え、共に浮上していこうとしているようにも思えるからだ。もちろん、それだけではない。ヒューマンで社会的なリリシスト、バークリー音楽院在籍経験に裏打ちされたコンポーザー、フォークやカントリーのみならずアフリカや南米音楽からの影響も咀嚼するアレンジャー、自身のシグネチャー・モデルも持つテクニカルなギタリスト、華やかでお洒落なポップ・アイコン、オペラ歌手も顔負けのスキルと表現力あるヴォーカリスト、最新ガジェットや機材も操れるサウンド・クリエイター/プロデューサー……彼女はいくつもの武器を持っている。現代屈指のマルチ・アーティストであるそんなセイント・ヴィンセントの軌跡を、ニュー・アルバム『Daddy’s Home』のリリースを機にオリジナル・アルバム・ガイドで振り返ってみたい。
(ディスクガイド原稿/井草七海、上野功平、岡村詩野、尾野泰幸、加藤孔紀、木津毅、高久大輝)
『Marry Me』
2007年 / Beggars Banquet
記憶が確かならば、筆者が初めてセイント・ヴィンセントの姿を目撃したのは、2008年のスフィアン・スティーヴンス@渋谷クラブクアトロ公演だった。シャラ・ウォーデンらとお揃いの科学警備隊みたいな衣装を着て、はにかみながら電光石火のギターを掻き鳴らしていたあの巻き髪の女性が、今やスリーター・キニーのプロデュースを手がけ、デヴィッド・ボウイやプリンスの遺志を受け継ぐ全方位型アーティストになるなんて、一体誰が予想できましたか?
グレートーンの世界でまっすぐこちらを見据えるジャケ写も印象的な本作は、ザ・ナショナルやダーティー・プロジェクターズを筆頭にUSインディ・シーンが百花繚乱だった2007年に発表。ほとんどの楽曲はアニーが10代後半のときに書かれていたもので、ギターにベースにシンセにヴィブラフォン……と10種以上の楽器を操る才気煥発ぶりと、「Paris Is Burning」などで味わえるエディット・ピアフもかくやの演劇的なアプローチ/複雑怪奇な曲構成は、とてもデビュー作とは思えないほど洗練されている。
「We Put a Pearl in the Ground」で流麗なピアノを奏でるマイク・ガーソンは、30年来に渡って黒き巨星=ボウイを支えた人物だ。「彼女にはヴァイブがあるね」と発言していたように、ボウイと通じる何かをアニーにも感じ取っていたのだろう。ちなみに、当時のライヴで表題曲を披露すると、たびたび客席から「マリー・ミー!」とプロポーズの声が上がっていたとか。(上野功平)
『Actor』
2009年 / 4AD
改めて他の作品と比べると少し毛色の違う作品かもしれない。セイント・ヴィンセントといえば、ギターから繰り出される印象的なリフ、変則的なリズムに絡み合うヴォーカルなど、どのアルバムも一聴した後、彼女のアイコニックな要素をはっきりと感じることが多い。けれど、本作ではそういった部分を、ぼんやりとしか感じないようなところがある。あえて彼女自身が、作品に自らを登場させることを控えているかのように。これは、本作が『白雪姫』や『オズの魔法使い』といった映画からインスピレーションを受けて、制作されたことと関係があるのかもしれない。ギターやピアノで制作することを止め、ガレージバンドで制作したという本作は、まるでいくつもの楽器が層を成す映画のスコアを書くように、複数の楽器をバランスよく配役している。ギターや歌といった特定の楽器のみが主張するではなく、フルートやクラリネット、ヴァイオリンなどの楽器も作品を構成する重要な要素として同等に配置しながら、サウンドトラック的な印象も与える。本作は、実際の映画のスコアではないが、視覚的な歌詞の表現も手伝って、聴き手の脳内に映像的な描写を生々しく想像させることも容易だろう。2017年の短編映画『XX』に続き、長編映画『ドリアン・グレイの肖像』の監督と音楽を務めることがアナウンスされた彼女、映像表現への挑戦と監督としての足掛かりは本作から始まっていたのではと想像してしまう。(加藤孔紀)
『Strange Mercy』
2011年 / 4AD
スフィアン・スティーヴンス、グリズリー・ベア、アーケイド・ファイアらとの共演というキャリア初期の活動にも垣間見えるように過去作では数多くの楽器を用いたエクスペリメンタル/チェンバー・ポップ的構築美を提示していたアニー・クラーク。本作ではそれら過去作でも時に印象的なフレーズをもって鳴っていたエレクトリック・ギターをフィーチュア。より無駄を削ぎ落とし、引き締められた音像の設計をもって現在までに至る新時代のギター・スターとしてのセイント・ヴィンセント像を作り上げる端緒となった三作目。「Cruel」の極めて印象的なファズ・ギターのリフが耳に届いた際の高揚感はいつ聴いても決して色あせない。
本作における変幻自在、多彩なギターの音色と縦横無尽な演奏の数々は混沌や散逸と紙一重であるが、空間をふんだんに利用し荘厳な感覚をも付与するヴォーカルやバック・サウンドの録音処理と、肉体を揺らし、震わせ、時に血が出そうなまでに突き刺すような切迫感のあるギターのサウンド・メイキングが作品中一貫していることで一枚のアルバムとしてまとまった印象に。アルバム・タイトル曲である「Strange Mercy」は本作リリース前年にクラークの父が逮捕されたことを背景のひとつとし、バラバラになる家族の姿や一連の出来事への対峙を振り返るようなリリックが収められた楽曲。本作に反映されたそのような父をめぐる出来事は、10年後に世に放たれることになる最新作『Daddy’s Home』へと繋がっていった。(尾野泰幸)
『Love This Giant』
2012年 / 4AD / Todo Mundo
スパイク・リーが監督したドキュメント映画も素晴らしいデヴィッド・バーンのブロードウェイ版ライヴ・アルバム『American Utopia』で、本作から「I Should Watch TV」が披露されている。ホーンが攻め込んでくる中盤以降も機械的なデジタル・ビートが背後で淡々とリズムを打つ、この時期のセイント・ヴィンセントの作風にも連なるナンバー。全体的には現代器楽曲のようなアレンジが楽しめる曲が多いし、ダップ・キングスとアンティバラスが参加した「The One Who Broke Your Heart」に至ってはトーキング・ヘッズ後期のようなアフロ・チューンだが、バーンはステージのセットリストの中枢に敢えて「I Should〜」を加えた。“失われた繋がりがテレビの中にある”という示唆的なリリックが方向性に合ったのかもしれないが、あくまで独創的なサウンド・プロデューサーでもあるアニー・クラークへの敬意の表れとみることもできるのではないかと思う。
彼女がメイン・ヴォーカルをとった曲では屈託のない歌がイビツな音作りの中でポップなフックを引き出していたり、男女を感じさせない歌の掛け合いが様々な“差”をフラットにしていたりと聴きどころはとにかく豊富だ。両者共に新しい地平の扉を開け、インディー・ロックのフィールドの可能性をも指し示した歴史的意義のある2010年代の重要作だ。(岡村詩野)
『St. Vincent』
2014年 / Loma Vista / Republic
“美女と野獣”を元型に据えた『Love This Giant』について「私が“野獣”で、デヴィッドが“美女”」と語ったアニー。確かにこれ以前の作品においても、彼女の優美なプレイ・スタイルの中には常に野生味が漂っていたわけだが、故郷テキサスの地で制作、その野生をひと思いに開放したのが今作だ。いわく「お葬式でかけても心に訴えるような」ということだが、サウンドにおいても『Masseduction』におけるロック・テイストの前章となったターニング・ポイント的作品である。
その路線を決定づけたのはもちろんデヴィッド・バーン。彼とのツアーを経て得たタフネスを炸裂、Pファンクを思わせる切れ味抜群でヘヴィなビートの上で、ビリビリと歪みを効かせた野趣あふれるギター・プレイが、踊る、踊る。ともすればトゥーマッチに思えそうなアレンジだが、這いずる低音と唸るウワモノのレイヤーの間に隙間をもうけながら、ギター+シンセ+ドラムのみで仕立てたサウンド・デザインが過剰さを回避(「デジタル・ウィットネス」のみホーンを使用)。一切の無駄のないクールなパーティー・アルバムに仕上がっている点に改めてアニーのアレンジャーとしての驚異的な才覚を思い知る。
デジタル・サウンドを強調しながら一方で野生を感じさせることでテクノロジーによる人々の分断を描いたという今作。題材自体は今にしてみるとありふれたものだが、信仰じみたシュールなリリックは、陰謀論の跋扈する2021年にこそしっくりくるような。事実は小説より奇なり。(井草七海)
『Masseduction』
2017年 / Loma Vista
前作リリース時とはワケが違っていた。それは、例えばアメリカの大統領であり、イギリスとEUの関係でもあるが、とりわけポップ・ミュージックの世界は長き渡り主役の座についていたロックがヒップホップ/R&Bに取って代わられようという、大規模な地殻変動の只中にあった。その渦中で依然としてギターを手にしていた彼女は、しかし、そんな二元論的な云々に回収されてしまうことなどなかったのである。
というのも、ケンドリック・ラマーとの仕事でも知られるプロデューサーのSounwaveがドラムのプログラミングで参加し、共同プロデューサーにはヒットメイカーのジャック・アントノフを据えるなど人脈的な横軸の繋がりもさることながら、持ち前のギター・プレイは要所で鳴りつつ、インダストリアルにも感じるビートや80年代的シンセ・ポップも香る複雑かつ明快なサウンドはセイント・ヴィンセントのタグを上書きするものだからだ。加えてリリックは社会と対峙しながらも個人的なもので、そこに同年ケンドリックが『DAMN.』で世界に立ち向かいながら内側で引き裂かれていたことを重ねれば、もう、答えは出ているだろう。
希望は手の中にあるときより逆境にあってこそ輝く。それを真に理解しているがゆえ恐れずに変化を選ぶことができる。“大衆”を意味する“Mass”と“誘惑”を指す“Seduction”という言葉を掛け合わせた造語をタイトルに掲げ、ポップ・スターとして時代を跨がんとする、その力強い一歩。(高久大輝)
『Daddy’s Home』
2021年 / Loma Vista
「父の帰郷」というタイトルは、公表されているように刑務所に収監されていた父親が出所したアニー・クラーク自身の経験を反映したものだが、それは、過去に罪を犯した者たちを社会がどのように包摂していくかという、わたしたちが現代抱えている問題意識と重なっている。取るべき言動を間違えた人間にしかるべき罰はもう与えた、では、どのようにその後の彼らを許し、そして愛せるだろうか?
パンク以前の70年代のニューヨークがモチーフになっているという本作はつまり、60年代末の理想主義が敗れ、ニヒリズムとデカダンスに戯れた人びとの享楽的で歪なサウンドを再訪するということだ。デヴィッド・ボウイのプラスティック・ソウル、まだHIVを知らずにフリー・セックスを謳歌したディスコ、快楽的であることを肯定したファンク、派手な衣装で規範からの逸脱を目指したグラム・ロック。アンディ・ウォーホルとキャンディ・ダーリング、そしてルー・リード……。やたら甘いコーラスや煌びやかだかどこかフェイク感のある音色は、その時代のいかがわしさを強調しているのだろう。けれども同時に、アルバム後半のバラッド群でこぼれるメロディと演奏は限りなく優しく、間違いだらけの人びとを許すようにも聞こえる。歌詞に登場するNYのインディペンデント映画の父=ジョン・カサヴェテスの名前から、僕は『こわれゆく女』(1974年)のピーター・フォークの姿を思い出す。正気と狂気の狭間を彷徨う妻に向かって「愛している!」と叫んでいた父親の痛切な顔を。そのエモーションを受け継ぎながら、アニー・クラークはすべての不完全な「父」に愛と感謝を贈り返そうとする。(木津毅)
関連記事
【REVIEW】
St.Vincent
『New York』
http://turntokyo.com/reviews/new-york/
Text By Tsuyoshi KizuShino OkamuraNami IgusaDaiki TakakuKoki KatoYasuyuki OnoKohei Ueno