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「“あらかじめ決められた”演奏が自分にできるのか?できないのか?……みたいなものに挑戦していく」
結成25年を迎えた渚にて・柴山伸二ロング・インタビュー<前編>

03 February 2021 | By Shino Okamura

渚にてが昨年11月に発表した新作『ニューオーシャン』は、明らかに彼らが次のフェイズに入ったことを伝える力作だ。山本精一の羅針盤と並ぶいわゆる“関西うたもの”として人気を集めてきた渚にてだが、現在、彼らはそうした一定の評価以上を超越したところに進みつつある。

もちろん、変わらず“いいうた”ではある。力を内包したうた、静かな色気あるうた、澱みのないうた、信念を貫くうた、ここにいることに気づくうた、そこにいることを確信するうた、今日の続きが明日であるうた……。だが、今の渚にては、そこに加えて、未来への畏怖と格闘するうた、時間に抗わず年を重ねていくうた、少しは迷ったり戸惑ったりするうた……そんな側面も聴かせるようになった。だが、歩幅を丹念に整えながら一歩一歩つないできたその生命力は、歩くようなテンポと、どうしようもなく骨太でどうしようもなく繊細なロック・サウンドによってしなやかに奏でられる。

パステルズのスティーヴン・パステルら海の向こうにも彼らのファンは多く、これまでの作品は海外でもリリースされてきた渚にて。今年2021年はそんな渚にてのリーダーでメイン・ソングライターの柴山伸二がソロEP「ピクニック・イン・ザ・ナイト」でデビューして実に40年となる節目だ。去年2020年で渚にて自体も結成25年を数えた。そこで、今回、柴山伸二のロング・インタビューを敢行。これまでの経歴を振り返る決定版的内容を、2回に渡って公開する。今回は前編。ソロとしてデビューしてからイディオット・オクロック加入、竹田雅子と出会って渚にての歴史が始まっていくまでを辿った。

渚にては、現在、そんなに頻繁にライヴを行ってはいないが、アルバムはコンスタントにリリースしているし、《全感覚祭》にも度々出演、昨年はライヴ・ハウス《難波ベアーズ》の支援コンピレーション・アルバム『日本解放』に新曲で参加したりと、若手にとっての精神的支柱になりつつも、第一線で活躍し続けている。そして、柴山と竹田は双子の女の子の父としても母としても生きている。そんな日々が刻まれた最新アルバム『ニューオーシャン』に向き合いながら、ぜひ読んでいただきたい。
(取材・文/岡村詩野  撮影/竹田雅子)

Interview with Shinji Shibayama

――今、お子さんはおいくつなんですか?

柴山伸二(以下、S):今12歳。もう母親の身長を追い抜きそうな感じですよ。

――《難波ベアーズ》支援オムニバス『日本解放』に提供された「めちゃめちゃ音楽」というタイトルはそのお嬢さんがつけられたそうで、となると渚にての音楽についてももうある程度理解されているんですか?

S:いや、あんまり興味ないみたいです(笑)。ただ、アウトラインはわかってるみたいですね。《全感覚祭》には2回連れて行ったんですよ。あとは、スタジオに連れて行って歌わせたり。「これ歌わなアカンの?」みたいな(笑)。

――今度はお子さんがその意思を引き継いでいくかもしれない。

S:そうなったらいいですけどね。今回アルバムを作っていて、老いとか死のようなものをけっこう意識しましたからね。

――“死”は早いとしても、確かに渚にてのファースト・アルバム『渚にて』のリリースが1995年なので、2020年で実に25年、それより前の活動を含めるともう約40年になります。柴山さんの最初のソロEP「ピクニック・イン・ザ・ナイト」は1981年のリリースでした。

S:音楽と共に生活を続けてきて、音楽と共に年老いてきたなって感じですね。ビートルズのコピー・バンドをやり始めたのが中学生の頃、74年のことです。その頃はまだ世界もロックも前途洋々で、日本の社会も未来が輝いていたんですね。日本はまだ高度経済成長の名残があって、中学生の僕にもその明るい未来が伝わってきていたんです。自分も“第2のビートルズになるんだ!”って意気込みがありましたし(笑)。誰もがそういう夢を抱いていた時代ですね。ちょうどFM大阪が誕生して(開局は1970年)、最新の洋楽が良い音でラジオから日々流れていた時代でした。音楽ではグラム・ロックの時代、72、3年の頃ですね。まだ音楽雑誌とラジオしか情報源がなかった頃で、レコードをポンポン買ってもらえるほど裕福な家でもなかったので、毎日夜になったらラジオにかじりつくように聴いていました。ビートルズ以外のロックもどんどん聴くようになっていた頃です。デヴィッド・ボウイやT・レックスが毎日ラジオから流れてきて、73年にはピンク・フロイドの『The Dark Side Of The Moon(狂気)』、がリリースされ……サイモン&ガーファンクルとかカーペンターズだけじゃなく、こんな未知の世界が広がってるんだな……ってカルチャー・ショックを受けました。そこから今の僕にそのまま繋がってる感じです(笑)。

――そのロック第一体験のエネルギーや音楽的な要素が、渚にての新作『ニューオーシャン』にも確実に反映されていると感じるのですが、制作していてもそうした自覚はあったりするものですか?

S:ありますね。ロックが一番刺激的で感覚が尖っていた時代のテイスト……それが自分の血肉となっていて。それを今、こうして渚にてというバンドで“お返し”している感じです。

――渚にて……というよりは柴山さんの作られる曲は基本的にテンポのゆっくりとした曲ばかりですよね。それはやはり70年代初頭に聴いていた音楽体験が大きいのでしょうか。

S:僕にとってはビートルズの「A Hard Days Night」とか「She Loves You」とかが最大の速さなんです(笑)。もちろん、S×O×Bやナパーム・デスとか、ハードコア・パンクのバンドでもいいなと思うものはありますけど……でも、そうやって言われるまで気づかないんですよね。ああ、自分たちの曲はテンポ遅いんだなって(笑)。

――遅いというか、歩くようなテンポですよね。

S:そうですね。歩くのが遅いってことなのかもしれませんが(笑)。結局、このテンポが自分に合うんですよ。家で新曲を作って完成した時のテンポより、バンドで最初に合わせた時の方が若干速くなることはありますけど(笑)……でもそれも自然に決まるんですね。鍵盤の吉田(正幸)くんが先走ってテンポが速くなったり。でも、自分の中からは出てこないテンポが、みんなで合わせたら出てくる……それがバンドの醍醐味かなと思いますね。テンポも含めて自分では思いつかなかった領域が他のメンバーの中から出てくるっていう。毎回じゃないですけど、例えば吉田くんが解釈の違う和音をつけることがあって、それが僕が最初につけたコードより合ってるように聞こえたりもする。面白いですよね。そういう意味では、僕は一人でやっていくタイプじゃない。対等な関係の誰かとの共同作業で光るタイプだと思っています(笑)。

――ただ、柴山さんのキャリアの一番最初のリリース作品「ピクニック・イン・ザ・ナイト」はソロ名義でした。

S:あれは、音楽を共有できる場がどこにもなかったというか……一人きりの多重録音にならざるを得なかったんです。録音は80年から81年にかけてです。まだイディオット・オクロックに関わる前のことです。当時京都に学生として住んでいたんです。大学の軽音に出入りしてて。でも79年頃の大学の軽音サークルなんてディープ・パープルとかレッド・ツェッペリンとかを聴いたりコピーしたりする連中ばかりで。パンクもまだ学生には届いてなかった感じでしたね。もちろんそういうのも僕自身聴いてたりはしてたんですけど、今更それをカヴァーして何が楽しいんだ?って(笑)。だから大学の軽音にも全く馴染めないで、自分のオリジナルで、何か新しいことをやりたいなっていう欲求だけが悶々とあったんですね。下宿に引きこもって『フールズ・メイト』とか『ロック・マガジン』を読んで最新情報を得てました。その二誌はアヴァンギャルドもパンク/ニュー・ウェイヴも同列に扱っていたので、それらをチェックして輸入盤でモノクローム・セットやポップ・グループ、PILのシングルを買ったりしてました。で、もう多重録音でも何でもいいからカタチにしようと。それで友達に機材を借りて作ったのが「ピクニック・イン・ザ・ナイト」でした。1枚1000円の5曲入りシングルで100枚プレス。自分にとってのお手本を自分なりになぞってみたらこうなりました(笑)というような習作でしたね。

――その頃、京都ではもう非常階段が活動していました。JOJO広重さんも同じ大学(同志社)でしたが、おつきあいはなかったのでしょうか?

S:全然、存在も知らなかったですね。同学年だったんですけど、広重くんは軽音なんかに属さないで最初から大学の外でメンバーを集めて独自にやってましたからね。僕も当時千本中立売にあったコアなアヴァンギャルド・スポット《どらっぐすとぅあ》(広重氏や高山謙一、頭士奈生樹がスタッフとして出入りしていた)に何度か行ったりもしたんですけど、ちょっと閉鎖的というか、自分には馴染めなかったんです。その頃は僕も今よりもっと人見知りでしたから(笑)。ただ、好奇心だけは旺盛だったんで、京都の主要なスポットやライヴ・ハウスにはよく行ってましたし。まあ、とにかく意気込みだけの自主制作で自分のレコードを作ってみた、ということです。その頃はちょっとした“インディーズ・ブーム”だったので、作ってレコード屋に持っていくとたいてい置いてくれました。納品書の書き方とかも何も知らなかったんで、その時に親切な店員のお兄さんに教わりましたね(笑)。で、「ピクニック・イン・ザ・ナイト」はチョコチョコ売れて、結局何ヶ月かで全部売りきりました。

――一人で音源を制作していたそんな内気な青年が、どのような流れでイディオット・オクロックに加入するようになったのですか?

S:その頃よく行っていた京都の老舗のライヴ・ハウス《サーカス&サーカス》《磔磔》《拾得》とは全く違う価値観でパンク/ニュー・ウェイヴのバンドを見境なく(笑)沢山出演させていた《フレンチ・マーケット》という画期的なライヴ・ハウスがあって。その《フレンチ・マーケット》に頻繁に出演していたのが、非常階段と枝分かれした後の螺旋階段、リラダン、そして初期のイディオット・オクロックだったんですね。ちょうど、その頃の京都ってすごく面白かったんです。ほぶらきん、非常階段、螺旋階段、EP-4、あるいはコンチネンタル・キッズやしのやんがやってたビートクレイジー周辺……。

――はい、選択肢がいろいろあって楽しかったですね。私はEP-4周辺が好きで観に行っていました。

S:住み分けがあってそれぞれ面白かったですよね。で、僕は螺旋階段がすごく好きでした。ちょうど螺旋階段がリラダンに改名し、さらにイディオット・オクロックに改名していた中で、彼ら、メンバー・チェンジが激しかったんです。フロントの高山謙一と頭士奈生樹は不動だったんですけど、ドラムは頻繁に変わってて。そんな時、河原町三条にあったレコード屋『十字屋』にイディオット・オクロックのメンバー募集の貼り紙があったんです。それを見て、“あ、もう入るしかない!”って思って。それがきっかけですね。その時はドラムとベースを募集していました。で、僕はドラムも一応叩けたので“即戦力です。ぜひ参加させてください!”(笑)って。81年のことですね。

――今振り返るとイディオット・オクロックはどういうバンドだったと思いますか?

S:僕自身は5、6年くらい在籍していたんですけど、サウンドと等価で歌詞の世界をすごく大事にするバンドだったんですよ。そこが僕がイディオット・オクロックに惹かれた理由で、他のバンドとは違ったところなんですね。どの曲にも刺さる歌詞があったし、言葉の選び方がすごくリアルなので「これは自分のことだ!」と思えるような歌詞だったりするんですね。しかも日本語だからダイレクトに入ってくるし、ノイズじゃないので言葉がハッキリとわかるんです。今聴いても全く古びてない。肉体から出てくる言葉、という感じで。今の僕にも大きな影響を与えてくれてます。渚にてはまさにイディオット・オクロック・チルドレンですよ。まあ、そこをさらに遡れば、村八分の歌詞のリアリティー、ということにも繋がるんです。いわゆる作詞家の作るような「作品」の歌詞じゃないんですね、今聴いても。言葉そのものが持つ力と、音の力が並列でどちらにも偏ってないんですよ。僕にとってはそういう稀有なバンドに出会えて参加できた、という意味ではイディオット・オクロックには運命的なものを感じています。

――しかも、イディオット・オクロックにはドラマー(とサックス)で参加されていた。つまり、柴山さんのキャリアの初期の段階でドラマーとして活動されていたことが、最初に話してくださった、自作曲の歩くようなテンポ感と歌詞の関係性を築いたのかもしれませんね。

S:そうですね。ドラマーってバンドにとって本当に大事で、全体を支配する重要な存在なんです。ザ・バンドにしてもキング・クリムゾンにしてもそうですよね。後ろからメンバーの背中を見ながら演奏するっていうのはすごく客観性が生まれる作業で。会場によってはヴォーカルやギターがモニタースピーカーから全然聞こえないってことが、昔は多々ありましたから。イディオット・オクロックのドラムをやってた頃は、ライヴで歌詞が全然聞こえないこともよくあって、“今3番の歌詞だからそろそろ終わりかな……”みたいに勘で叩いていたこともありました(笑)。そういう勘みたいなのが、もしかしたら自分の作る曲のテンポとかに自然と反映されていったのかもしれないです。

――その後、ハレルヤズ名義……ソロ・プロジェクトとして活動するようになります。そして、86年にアルバム『肉を喰らひて誓ひをたてよ』のリリース……。

S:イディオット・オクロックも続けていたんです。でも、徐々にメンバー同士の衝突も増えていって……もちろん、衝突を繰り返してバンドは活性化していくんですけど、84~5年の頃になると、個人的に失恋とかもして色々鍛えられて(笑)僕もモノマネではない自分にしかできない曲がやっとできるようになってきていたんですね。で、今度こそオリジナリティのあるアルバムを作ろうと。そこで高山くんと頭士くんにも対等な関係で参加してもらうよう依頼をしたんです。まあ、イディオット・オクロックの暖簾分けのようなものですね(笑)。で、架空のバンド名としてハレルヤズとしたんです。ただ、レコーディング時の一つの決め事として、リード・ヴォーカルはファースト・テイクで完成させるというルールを決めました。だからリード・ヴォーカルとベーシック・トラックはスタジオ・ライヴで一発録音しました。当然歌なんか音程メロメロですよ(笑)。でも、生々しさというか、とにかくむき出しの感じを追求したかったので、それで辻褄は合ってるんです(笑)。

――音作りのお手本はあったのですか?

S:ちょうど84年にChe-Shizu(シェシズ)の『約束はできない』がリリースされたんです。あれもほとんどスタジオ・ライヴに近い感じで、工藤冬里くんのギターもメロメロなんだけどそのまま大胆に入ってたんです。“うわ、先越された!”って思いましたね。僕もそういう感じの作品にしたかったんで。だから、ヴォーカルの修正はしないで、むき出しのままにしたんです。その時にそのメンバーで半即興的にやった、チャンス・ミーティングのような作品ですね。デレク・ベイリーとか、マイルス・デイヴィスがやっていたような即興ジャズのような感覚が反映されていると思います。もちろんハレルヤズはジャズとはまったく違う文脈の、稚拙な即興演奏ですが、その中に定型の歌があるという。メロディがちゃんとある古い歌謡曲のような感覚を一発録音の即興演奏として再構成できないかな?みたいな、楽曲と即興演奏の境界線が溶け合ってなくなるようなイメージがありました。だから、自分でも同じ演奏は二度とできないんです。

――決められた尺やスタイルを踏襲するポップ・ミュージックのフォルムの良さと、そこに従わず崩していくスリルとを同居させていたということですね。

S:それが、まあ、音楽の魅力のエキスのようなものではないかという気がしますね。定型的なフォーマットの中にも絶対にクリエイションはあるわけです。どこまで定型に食い込んでいけるのか、そもそも「あらかじめ決められた」演奏が自分にできるのか?できないのか?……みたいなものに挑戦していく姿勢ですよね。例えば、ザ・バンドの最初の2枚のアルバムにはそれがあったと思いますし、そういう意味で彼らも同じ演奏は二度とできなかったと思いますよ。

――ハレルヤズ『肉を喰らひて誓ひをたてよ』は、ちょうど立ち上げたばかりの自主レーベル《オルグ・レコード》からのリリースでした。この《オルグ・レコード》はどういう流れで誕生したのですか?

S:Che-Shizu(シェシズ)の向井(千恵)さんと雑談で新興宗教の話になった時に、向井さんが「●●さんが××さんにオルグられてしまった」(入信させられた)という言い方をしたんです。まあ、新興宗教はイヤですけど、あとからその話を思い出した時に、それを宗教じゃなく音楽に置き換えたら意外といいんじゃないか?って思って。それでハレルヤズを作った時に《オルグ・レコード》と命名しました。で、《オルグ・レコード》としては、ハレルヤズの次は頭士くんのソロを出そうって決めていたんです。というのは、イディオット・オクロックはちょっとビートルズ的なところがあって。例えばある曲のコード進行を頭士くんが作ったら、そこに高山くんが歌詞をつける、というソング・ライティング・チームになっていたんですね。それはイディオット・オクロックに入ってから知りました。頭士くんはキング・クリムゾンの「Fracture」の完全コピーをやったりするようなギタリストなんですけど、そんなテクニックを持つ人が非常階段~イディオット・オクロックのようなバンドをやっている。テクニックや速弾きを超越してノイズに行き、ノイズを極めてから歌のあるシンプルなロック・バンドをやるという事実に僕は大きな衝撃を受けていたので、彼はソロ・アルバムを作れる力量の持ち主だとわかっていたし、絶対作るべきだと思ってたんです。それで88年に頭士くんと高山くんと僕の3人で録音して作ったのが、頭士奈生樹のソロ・アルバム『Paradise』でした。その後、90年に僕はもうバンドを抜けていたけどエグゼクティヴ・プロデューサーという立場で録音とミックスを手伝うという形でイディオット・オクロックのファースト・アルバム『オリジナル・ファースト・アルバム』を制作し、そのアナログ盤を作りました。CDは《アルケミー》からでしたけど、アナログは是非ウチで出させてほしいと広重くんに頼んで。

――ハレルヤズ、頭士奈生樹、イディオット・オクロック。《オルグ・レコード》の最初の3枚ですね。

S:そうです。でも、その3点セットを作り終えた時点で、僕自身にもポッカリと穴があいて。イディオット・オクロックに戻って高山くんとまた一緒にやっていくってこともあまり考えられなかったので、改めて自分のソロを本格的にやろうと思うに至ったんです。90年代に入った頃ですね。ハレルヤズからも5、6年経過していたし、今ならもっと新しい感覚で自分の曲ができそうな気がしていたんです。ただ、その時点では自分のバンドもなかったので、またやるなら多重録音かなと。でも今度は同じ多重録音でも「ピクニック・イン・ザ・ナイト」と違ってオリジナリティを確立したものを作れる自信があったので制作を始めたんです。

――それが渚にてのファースト『渚にて』につながっていく……。

S:最初はいつ終わるともわからない、道楽のような感じでした。曲作りをしながら毎月大阪の《オメガ・サウンド・スタジオ》に通って多重録音をしていく。で、時間のある時に頭士くん、高山くんにも参加してもらう、というようなスローペース。92年に制作を開始したんですけど、あまりにもスローペースなので(笑)いつ完成するかわからないまま3年くらい経過して。ちょうどマヘル・シャラル・ハシュ・バズの3枚組『Return Visit to Rock Mass』の制作も東京で始まってて忙しかった時期です。東京と大阪で同時進行で、毎月行ったり来たりしていました。

――『渚にて』の方に工藤冬里さんが参加されたりと同時進行ゆえの交流が実際に現れています。そして、竹田雅子さんがここで参加。いよいよ現在の渚にての原型が出来上がっていきます。

S:竹田が参加したのは本当に偶然で。ある曲のレコーディングで多人数のコーラスが必要になった時に、友達連中にスタジオへ来てもらったうちの一人が竹田だったんです。なので、彼女とは初対面ではなく、以前から知ってはいました。その時彼女の歌声を初めて聞いて、いい声だなって思ったんです。ちなみにコーラスを歌ってもらったのは、渚にてのオリジナル曲じゃなくて、ファンキー・プリンスという関西の演歌GS(グループサウンズ)のカヴァー「おやすみ大阪」(2001年発表のオムニバス『トリビュート・トゥ・ニッポン』収録)でした。その後、何となく彼女の歌声をイメージしながらギターを弾いていたら、ポロポロといいメロディーが出てくるようになって。そうしてできた最初の曲が『渚にて』の1曲目「渚のわたし」なんです。竹田の声が触媒になってできた曲です……いわゆるファム・ファタールですね(照れ笑い)。で、そこからいろいろとあって結婚もしまして……。

――女性の感覚が入ることによって、柴山さんのクリエイションにも変化が生まれたと。

S:まあ、女性だから、というより竹田だから、という感じですよね。女性が入ることで何が変わったというのもあまり自分ではわからないというか。彼女はあまりミュージシャンっぽくないというか、とにかくむき出しの人なんです(笑)。レゲエとかダブのレコードは学生の頃から好きでキング・タビーとかオーガスタス・パブロとか買ったりしてたみたいですけど、僕みたいなレコード・マニアってわけではなく、自分の好きなもの、自分の自然な感覚を大事にする人で。僕も僕なりに自分の感覚を何よりの第一義にするというのはずっと貫いてきたつもりですけど、彼女とは根本的にスタンスが違う。僕はレコードの資料的な部分、例えばUK盤とUS盤の音の違い(笑)なんかに囚われてしまうことがよくあるけど、竹田はレコードそのものには関心がないんですよ。彼女とパートナーになって一緒に音楽も作っていくようになってからは、二人のスタンスの違いがお互いにいい方に作用していったと思いますね。

――しかも、バンドの方向性も竹田さんと組んでいく流れができたときからより明確にフォーカスされていきます。バンド名にも曲名にも「渚」がつき……そこから25年経った最新アルバムでも『ニューオーシャン』と海に関係したタイトルだったりと、リリック面で通底する思想、ヴィジョンもここで固まっていったと思います。実際にどのあたりでそこは確証を得ることとなったのでしょうか?

S:バンド名はネヴィル・シュートの『渚にて』からとっているんですけど、あれに描かれてる終末感が子供の頃からすごく好きで。あと、『ウルトラQ』の怪獣が出てこない回(「1/8計画」「あけてくれ!」「悪魔ッ子」)とか高野悦子の『二十歳の原点』の最終章の詩とか……ずっとそんなイメージが自分の理想の音楽とないまぜになって脳裏にあって、「渚のわたし」の歌詞もそのあたりとリンクするところがあるんです。死ぬところで終わるんじゃなくて、その先もあるんじゃないか?という。全部滅びてしまったとしても、滅亡の先に残された世界がどこかにあるんじゃないかという希望……絶望の中の希望ですね。
後編に続く>



渚にて Official Site
http://www.eonet.ne.jp/~org-records/top2.html



渚にて

ニューオーシャン

LABEL : ORG RECORDS / P-Vine
RELEASE DATE : 2020.11.18


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Tower Records / HMV / Amazon / iTunes

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Text By Shino Okamura

Photo By 竹田雅子

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